#291 『赤い海』

 私は一度だけ、赤い海を見た事がある。

 その日私は、友人達と一緒に子連れで海水浴に来ていた。

 子供達が海の方で遊んでいるのを良い事に、大人達は皆、海の家で酒盛りをしていた。

 いい加減、酔いが回った頃である。横になっていい気持ちで目を瞑ると、何故か急に辺りが静かになった。

 目を開けると、やけに視界が赤い。慌てて身を起こせば、向こう側に見えるのは空も海も赤一色な、紅(くれない)の世界だった。

「誰もいない」と私は呟き、無人になった海の家を出て、砂浜を急ぐ。

 海岸まで来て、「里美!」と、娘の名を呼ぶ。だがいない。いや、そこにはもう娘どころか海水浴客一人の姿も見当たらない。完全に、私一人だけが置いて行かれた無人の世界だったのだ。

 夢ではなかった。何しろ、裸足で踏む砂浜の感触と熱さは、間違いなく本物だからだ。

 赤い海から、赤い波が押し寄せて来る。何故か波は無音で、なんの音も聞こえて来ない。私は取って返し、再び海の家へと戻るが、先程までいた筈の小屋がどれだったのかまるで思い出せず、どこの屋内を覗いてもまるで漆黒の闇が広がっているかのように暗く、とても入って行けそうに無いのだ。

 とめどなく汗がこぼれ落ちるが、何故か急激に体温が下がって行く感覚がある。これならパーカーの一枚でも羽織っておけば良かったと後悔する。何しろその時の私は、海水パンツ一丁と言うそんな姿だったからだ。

 ふと、気が付く。赤い海の沖の方から、金色の光りが天から射し込め、こちらへと向かって来ているのだ。

 それを見た瞬間、私は全てを諦めた。「里美、頑張って生きて」と呟き、もう一度海岸の近くまで行ってそこで私は座り込む。もう足掻くのはやめて、静かにあの金色の光りの中に飲み込まれる覚悟だったのだ。

 その時だった。「お母さん」と呼ばれ、その方向へと振り向く。いつそこに来ていたのだろう、一人娘の里美が私の横に座っていたのだ。

 ざざざざざぁぁぁぁぁ――と、波の音が押し寄せた。私の横を、小学生らしき男子の集団が奇声をあげて海へと突進して行く。

 一瞬にして世界は元へと戻っており、私は何故か、里美と一緒に波打ち際の辺りの砂浜で座り込んでいるのだ。

「いつからいたの?」と聞けば、「ずっといたよ」と里美は答える。

 海の家で一緒に横になっていたら、突然お母さんが、「誰もいない」と起き上がり、海へと向かって行ったと言うのだ。

 里美の話を聞いていると、確かに私の取った行動ばかりであった。だが確かに私はその世界で、一人きりだったのだ。

 おかしな事はもう一つだった。何故かその世界で、私自身が亡くなった夫のタケヒコとなって行動していた事。思えば私の服装はワンピースで、海パン一丁の姿では無かったのだから。

 ちなみにタケヒコは病死であり、海難事故で亡くなった訳ではない。

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