#290 『入院病棟』
人手不足と言う理由で、とある病院へと転勤になった時の話である。
私はほぼ毎日のようにその病院の四階にある入院病棟にて夜勤をしていたのだが、どこの病院でも同じような事を聞かされるように、そこの病院でも“怪異”らしき噂が存在していた。
それは西側病棟にある廊下の辻の部分。ナースセンターからその西側病棟へと向かうと廊下の十字路が現れるのだが、深夜にそこを通り西の端へと歩いて行くと、何故か再び東側のナースセンターへと戻って来てしまうと言うもの。
その当時の私は、その類いの噂はまるで信じていない人間だったので、全く怖がる事はしなかった。その病院に流れる噂も、単なる悪質な冗談だと思い込んでいたのだ。
ある晩の事、西側の端にある病室からナースコールが来た。私は急いでそちらへと向かうと、薄暗がりの廊下の中、向こうに煌々と明るい一角が現れたのだ。
それは先程まで私がいた筈のナースセンター。確かにそこから出て西の方へと歩いて来た筈だと言うのに、またしても同じ場所に出てしまう。しかもそこには誰の姿も無い。
どう言う事だろう? 思いながらその前を通り過ぎ、もう一度西の方へと向かって歩き出す。
今度は、ナースセンターが出て来る事はなかった。但し、とても単調なやけに長い廊下ばかりがずっと続いている。果たしてこんなに長い廊下だっただろうかと不思議に思っていると、こんな真夜中だと言うのに一つだけ、病室のドアが全開な部屋があった。
じょおぉぉぉ――ん、と、部屋の中から陰に籠もってとても物悲しい、弦を弾く音がする。そっと覗けば、六人部屋の真ん中に一つだけベッドが置いてあり、その上で誰かが奇妙な楽器を鳴らしているのだ。
とても注意をする気にはなれなかった。私はその前を急いで通り過ぎ、今どの辺りなのだろうと病室のナンバープレートを見れば、“西側千百五十二号室”と言う、有り得ない数字の刻印がされていた。
“これはおかしい”と、ようやく私は気付いた。目を凝らせばその廊下はまだまだ先の方まで続いており、まるで果てが無いように思える。
戻らなきゃ――と思った。急いで取って返すも、やはりそちらの廊下も果てが無いだろうと思えるほどにとても長く、廊下の端はまるで見えない。
妙に、ねっとりとした空気が横たわっているかのような錯覚があった。廊下のあちこちには小さな照明が点いてはいるのだが、霞掛かっているかのような不透明さでとても視界が宜しくない。
次第に焦り始めながら廊下を急いでいると、突然目の前の病室のドアが開き、中から内科の医師であるN先生が出て来た。するとそのN先生、私の顔を見るなり、「どうやってここ来たの?」と驚いて、「駄目だよ、こんな所に来ちゃあ」と私の手を取り、急いで廊下を進んで行く。
何故か、あっと言う間に元の場所へと戻った。向こうにナースセンターの灯りが見える所まで来て、「今の件は誰にも話しちゃいけないよ」とN先生に釘を刺された。
それ以降、時折、同じような場面に遭遇する事があった。その時はすぐに取って返し、ナースセンターの前からやり直せば、ちゃんと目的地まで行けると言う事に気が付いた。
但し、あの夜の出来事と、N先生との約束だけは、今以て謎なばかりである。
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