#285~286 『乗り込んで来た女性』
それはさほど遅い時間帯ではなかったと思う。
会社帰り、自宅マンションのエントランスでエレベーターの到着を待ち、乗り込んだ。
僕の住む階層は十三階。ボタンを押して上昇が始まるとすぐにエレベーターは停止した。
表示を見ると、四階となっている。扉が開くと同時に、血相を変えた中年女性が滑り込むようにして乗り込んで来た。
「これ、上に行きますが宜しいですか?」と聞けば、女性は指先を唇に当て、「静かに」と無言で合図する。女性はせわしなく“閉”のボタンを連打し、無事にドアが閉まって再び上昇を始めると、深い溜め息を吐き出した。そして急に思い付いたかのように、十一階のボタンを押すと、今度は僕が押した筈の十三階のボタンを二度押ししてキャンセルしたのだ。
「ここで降りますよ」と、停止した十一階で僕は半ば無理矢理に、手を引かれて降ろされてしまったのだ。
「私の真似をして下さい」と、女性は身を屈めて手摺りの上から見えないようにして歩く。僕は仕方なくそれに続く。そして階段で二階分を上った後、女性は僕の部屋がどこかを聞いて来る。
「何があったんですか」と聞けば、「ごめんなさい、もう少しして落ち着いたら話します」と、女性は手を合わせて拝むような仕草で僕に言う。だが、何らかの事件性は感じ取っていた。何しろ、先程停止して女性が乗り込んで来た四階のフロアの廊下には、照明が一切点いていなかったからだ。
部屋へと着くと、僕はその女性を落ち着かせようと珈琲を淹れる。そうして少し経った頃、ピンポンと家のドアフォンが鳴る。それを聞いて女性は跳ね上がるようにして驚く。モニターを見れば、三十代ほどの白い服の上下を着た男性が怖い表情で立っているのが見えた。
「助けてください、助けてください……」と僕に懇願する女性の肩をそっと叩き、僕はそのモニターの通話ボタンを押す。
「どちら様?」聞けばその男性は、迷う事なく「警察の者です」と言うのだ。
「そちらに背の小さな小太りの中年女性が来てないでしょうか」と聞く。僕はそっとその女性を見た後、「いやぁ、別に誰も来てはおりませんが」と返す。
「念のため、家の中を拝見させてもらって良いでしょうか?」言われて僕は咄嗟に、「お断りします」と答える。そして、「警察手帳、及び捜査令状がございますか?」と返せば、「また来ます」と男は立ち去る。その時、見てしまった。同じフロアのあちこちに立つ、同じ服装の男性達。その男性達は同じようにして「こちらに女性が来ておりませんか」と問い掛けているのである。
僕の隣でガタガタと震える女性。「トイレお借りして良いですか」と聞かれ、「どうぞ」と廊下の一角を指さすと、「少々長くなっても良いですか?」と言って、トイレに閉じこもった。
確かにトイレは長かった。心配になって時折、ドアの近くまで行けば、嘔吐でもしているのか「びちゃっ」と水の跳ねる音がする。
更に少しして、再び先程の男性がドアフォンを鳴らした。
「この女性、こちらにいますね?」と、モニター越しに女性の写真を見せる。それは確かに、トイレに籠もっている女性の顔ではあった。
「いません」と答えると、「いえ、こちらにいます」と男性。更には「あなたに身の危険が及びます。すぐにそこから逃げてください」とまで言うのだ。
「ぐえええええ」と、トイレから奇妙な声がして、そしてまた「びちゃっ」と水の跳ねる音が聞こえる。それはモニターのマイクにも聞こえたのか、「すぐに逃げてください。あなたまだ死にたくないでしょう」と、男性は言う。
僕はそっと足音を忍ばせ、トイレのドアの前を通り抜け、玄関へと向かう。しかしそれに気付かれたか、「待ちなさいよ!」と背後から女性の声が飛んで来る。
僕は慌てて玄関から転び出る。すると一斉に白装束の男性達が家の中へと突入して行った。
僕はその晩、近くのビジネスホテルで泊まる事となった。いや、むしろ強制的にそこへ放り込まれたのだ。
翌朝、例の白装束の男性が部屋まで来て、「ご協力ありがとうございました」と、僕の部屋の鍵を渡してくれた。
「あなた誰? あの女性は何者?」僕の問いは見事にはぐらかされた。「聞かない方が良いですよ」と。
家へと戻ると、いつもと変わる事のない、いつも通りの僕の部屋があった。
ただ一つ、トイレの壁紙が新しくなっていた。前のと良くは似ているが、全然別の壁紙が綺麗な作業で貼られているのだ。
あれからもう二度と、例の男性達と、あの女性と遭遇する事は無いのだが、時折エレベーターが四階で停まる事がある。
それはいつも決まって、会社帰りの夜。そして開いた四階のフロアは照明が点いておらず、真っ暗な空間がそこに広がっているのだ。
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