#278 『前世の彼』
私にはごく一部の場面だけではあるが、前世の記憶があった。
それはどこかの岩場で、彼氏に手を差し伸べられていると言うワンシーン。
その彼は、「大丈夫だから」と必死に叫び、私に向けて手を伸ばす。だが私は、自分自身を支えて落ちないようにするので精一杯。手を離して彼の手を掴む前に、落ちて行くであろう事は必至だった。
夢で見た記憶ではない。確実に、昔のどこかで実際に体験したであろう事実だとしか思えない程の鮮明な記憶。もちろんその彼氏である男性は、生まれてこの方、会った事も見た事も無い。
私はその記憶を勝手に、私が亡くなる直前のものだと思い込んでいた。きっと私は彼の手を掴む事なく、岩場から落ちて死んだのだと。
だがある日、その解釈が間違いだった事に気付いた。
とある友人達との旅行で、霊山とも呼ばれる場所にある神社を訪ねる事になった。
それは酷い岩場の山で、場所によっては上から垂れているロープを掴み、よじ登らなくてはいけない場所までもがあった。
「これって、落ちて死ぬ人とかいないの?」と友人に聞けば、年間に何人か亡くなっている、そんな場所だと言う。
そこまでしてお参りなんかしなくていいじゃんと思っていると、少し先にいた集団の中に、見知った顔の人がいるのに気付く。そしてどうやらその人も、同時に私に気付いた様子で、とても驚いた顔をして私を見下ろしていたのだ。
それはまさしく前世の記憶の中の彼氏で、しかも彼が立つ場所までもが記憶の中そのものなのである。
「あの――」と、思わず声を掛ける。すると向こうも同じようにして、「あぁ、ど、どうも」と頭を下げる。
どうやら説明は不要らしい。おそらくは私と同じ記憶を、向こうも持っているのだと確信した。
結局その記憶は、前世のものではないと知る。では一体それは何の記憶だったのだろう。
私と彼は特にその件に関して話さないままに、二人で頂上まで登った。そこで一応は連絡先を交換しあったのだが、家に帰って電話をしてみれば、流れて来たのは『お客様の都合により――』と言うガイダンスだった。
それっきり、彼と遭遇する事は無かった。
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