#271 『分岐点』

 私はただ煙草を吸うためだけに外へ出る事がある。別にヘビースモーカーでも何でも無いのだが、家で吸われると臭いからと言う理由で、嫁や娘に追い出されるのだ。

 マンションの五階から、エレベーターに乗って降りる。その際に同じマンションの住人と遭遇する事も多い。その中に、良く顔を見掛ける親子の姿がある。

「こんにちは」と挨拶すると、「こんにちは」と、その女の子は返してくれる。おそらくは小学校の五、六年生ぐらいだろう、可愛いと言うよりは活発な印象の子である。

 ただそのお母さんの方はと言うと、これがとても陰気で、会って挨拶をしても軽く会釈をする程度。後は終始うつむき加減で、その女の子の後を付いて歩くばかりなのである。

 それ以降も、何度かその親子と遭遇する事はあったのだが、その度に妙な違和感があった。

 あるとき、私はふと気付いた。あのお母さん、実際は私にしか見えていないものなのではないかと。

 これは私にとって良くある失敗なのだが、どうにも昔から生身の人間と霊体の区別が付きにくく、いわゆる幽霊と言うものに遠慮無く話し掛けてしまったりする事が度々あった。

 また今回もそんな感じなのかなぁとぼんやり考えつつ街中を歩いていると、向かいの店先に“一人”で買い物をしている、例のお母さんの姿が目に入った。

 私にとっては、「お母さんこそ幽霊だろう」と思っていた矢先の事だったので、驚きのあまりしばらくその姿に見入っていると、向こうも私の視線に気付いたらしく、いつも通りに伏し目がちに会釈をする。

「あの……娘さんは?」と、思わず私は聞いてしまう。するとそのお母さん、しばらく困惑した表情で私を見た後、「どうして娘の事を知っているのですか?」と聞くのだ。

 驚いた事に、娘さんは五年前に交通事故で亡くなり、その後にあのマンションへと越して来たのだと言う。

 幽霊は娘の方か――と、私は自分の想像が間違っていた事を知る。

 ある日の事、いつも通りにマンションの外の通りの向こう、工場のフェンスの前で煙草を吹かしていると、驚いた事に例の女の子が黒のワンピースを着て目の前を通り掛かるのだ。

「こんにちは」と、いつも通りに声を掛けられる。私はどぎまぎとしながら「こんにちは」と返し、ついつい「お母さんは?」と聞いてしまった。するとその女の子、少しだけ寂しそうな表情を浮かべながら、「さっき、お母さんの法事に行って来たの」と言う。何でもその子のお母さんは、五年前に交通事故で他界したらしい。

 どちらが本当の事を言っているのかは分からない。だがその後も、その二人にはごく普通に遭遇している。今ではあの陰気だったお母さんも、少しだけ微笑みながら挨拶をしてくれるようになった。

 娘さんの方は、つい最近中学生になった様子で、学校の制服を着て出掛けている。

 あれっきり、親子二人で歩いている所は見た事が無い。

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