#265~266 『ユキエさん』

 年に二、三度ほど、会って話をする間柄の友人がいる。名前を小野寺と言う。

 ある日、その小野寺から奇妙な電話が来た。酷く焦っているらしく、珍しい事に僕に向かってかなりの早口でまくし立てる。

 内容はごく簡単で、もしも音信不通になったら、俺のアパートから好きなもの勝手に持って行ってくれと言うもの。僕はそれを聞いて笑いながら、「とんでもない情報でも握ったか?」と聞いた。なにしろ小野寺はフリーのルポライターなので、可能性的に無くは無いのだ。

「いや、女絡みだ」と、小野寺は電話越しに苦笑する。僕はそれを聞いて安心し、「分かった、葬儀もあげてやる」と軽口を叩く。だが皮肉にも、予告通りに彼からの連絡は途絶えた。

 一ヶ月ほどして、僕は彼のアパートを訪ねた。大家の所へと行って小野寺の名前を出すと、大家はかなり憤慨した様子で、「あいつの知り合いか?」と僕に聞く。友人ですと答えると、ちょうどいいとばかりに一緒に部屋をあらためてくれと言うのだ。

 部屋の中は、かなり散らかっていた。何も置かれていないのは万年床の上だけで、他は脱ぎ散らかした衣類やビールの空き缶などが所狭しと床を埋めている。

 テーブルの上の灰皿には一本、置いたまま灰になっただろう煙草の吸い殻があり、その横には投げ出された電話の子機がある。僕はそれを充電器に刺し直し、リダイヤルを操作すれば、見知らぬ名前で“ユキエ”と登録している番号があり、その一つ前が僕の名前だった。

 大家はすぐに部屋の中を荒らして、金になりそうなものを取り分けて行く。もう既に大家にとって、小野寺は故人となっているらしく、「あんたも形見分けして何か持って行け」と言うのだ。

 僕は、比較的小野寺が愛用していたものを中心に持って帰った。ジャズのレコード数枚に、色んな秘密が入っていそうなノートパソコン。そして普段ならば当たり前のように着て歩く筈の皮のコートと帽子。それで全てだった。

 何か手掛かりがあればと思って開いたパソコンは、パスワードが分からず完全にお手上げ状態。仕方なくレコードは僕のコレクションに加え、コートと帽子は適当に壁に掛けて吊しておいた。

 真夜中、リビングから物音がした。何事かと思って見に行けば、壁に掛けておいた帽子が床に落ちているのだ。僕はそれを拾い上げ、再びコートと一緒に壁に掛ける。だがしばらくするとまた、ボトっと音を立てて落ちるのだ。

 そんな事が二日続いて起こった。とうとう三日目ともなると、さすがにこれはおかしいと思い始め、僕はコートを外してポケットの中をあらためた。

 胸ポケットに、それは入っていた。小野寺が仕事で使っていたボイスレコーダーだ。データを見てみれば最新は僕にあの電話を掛けて来た三日前のもので、僕はそのデータを自身のパソコンに移して聞いてみた。

 それは小野寺が誰かに質問をしている内容のものだったのだが、かなりノイズが酷くて質問者の小野寺の声自体がかなり不鮮明で聞き取り難い。だが所々で「ユキエさん」と語り掛けているのは分かる。だが不思議なのが、もう一人そこにいるであろうそのユキエと言う人の声がまるで聞こえない事。どれだけボリュームを大きくしても、ノイズを削っても聞こえない。それどころか小野寺の声と声の間には、イコライザーのモニターが何も反応していないのだ。つまる所、これは単に質問者が一人でしゃべっているだけのものなのだ。

 僕は後でもっと詳しい人に聞いてもらおうと思い、それをYoutubeに限定公開の設定でアップし、URLを友人何人かに教えた。

 それから少しして、小野寺の夢を見た。夢の視点はまさに彼の部屋の壁に掛かっていたコートの辺りからのもので、小野寺は貧乏揺すりをしながらイライラと電話をしていると言うだけの夢だった。

 目が覚めて思い出す。そう言えば僕は、あの受話器にあった“ユキエ”と言う名前の電話番号をメモしておいた事に。しかも小野寺からも直接聞いていた筈だ。「女絡みだ」という言葉を。

 僕は早速その番号に電話をする。少しして繋がる。相手は若い女性のようだった。

 名前を名乗り、ユキエさんと言う方に心当たりが無いかと訊ねると、その女性は「姉の名前です」と言う。僕は思わず小野寺の名前を出して関係を聞けば、「ちょっと言いにくいです」と告げた後、「姉はもう三年も前に亡くなっています」と言うのだ。

 僕は友人の安否を知りたいだけだと話すと、「一度逢ってお話ししましょう」と言われ、承諾した。

 それは想像していたよりもずっと綺麗で若い女性だった。名前は木根さんと言った。

「姉は、小野寺さんに付きまとわれていました」と、その木根さんは話してくれた。

 一時は付き合っていた時期もあったらしく、その際に小野寺から撮られたプライバシーな写真を脅迫の種とし、その後も長い間、交際を求められたと言うのだ。

「彼のパソコンさえ取り返す事が出来たなら」と、木根さんは悲しげに言う。僕はそれを聞いて、彼のパソコンなら僕の家にあると告げると、とても晴れやかな顔で紙片に何かを書き留め、「これでロックは外れる筈です」と、パスワードらしきものを渡すのだ。

「どうかその該当するであろうデータを消して下さい」と、木根さんは言う。しかしそれでは、お姉さんのプライバシーを、僕が侵害する事になりますよと言えば、「もう姉はいないので、大丈夫です」と笑う。

 帰り掛け、ふとした疑問が湧き上がる。彼女の姉であるユキエが三年前に亡くなったとしたならば、どうして今頃、小野寺が切迫した声で電話をしたり、ユキエと言う人に質問している内容のデータを残したのか。しかも三年前と言えば、彼にはまだ彼女がいた筈。あの熱烈振りから、彼が浮気をしていたとはとても考え難い。

 パソコンのロックは、渡してもらったパスワードで開いた。そして該当するであろうフォルダもすぐに分かった。意を決してそれを開けば、真っ先に目に飛び込んで来た写真は、小野寺と一緒に笑顔で並ぶ、先程逢ったばかりの木根と言う女性であった。

 それはもう木根さん本人そのもので、姉妹だから似ていると言う程度のものではない。僕は思わず電話を手に取り、すぐに本人に連絡を取った。

「えぇ、それ、私ですよ」と、木根さんは受話器越しに笑った。続いて言われた「私がそのユキエです」という言葉と共に電話を切る。もはやフォルダがどうのこうのと言っている場合ではない。僕はすぐにその小野寺のパソコンを初期化し始め、電話帳から彼女の番号を消去した。上手く説明は出来ないのだが、本能でこの件に関わってはいけないと感じたからだ。

 少しして、例の音声データを渡した友人から連絡が来た。あれ、シャレならん内容だなと言う返答だった。

 何事だろうとYoutubeを開けば、誰が情報を公開してしまったのだろう、閲覧数はいつの間にか二千を超えており、これはヤバい内容だと様々な憶測の混じったコメントが数多く寄せられていた。

 僕はすぐにその動画を消した。今となっては、そのデータを誰かがコピーしていないかだけが気掛かりである。

 小野寺とは、今以て連絡が取れていない。

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