#260 『裏木戸を叩く者』

 一風変わった、江戸後期の頃の怪談を一つ。

 商人の家の娘で、絹(きぬ)と言う若い女性がいた。ある晩、突然に家で怪異が起こった。使用人の女中が絹の所へと飛んで来て、「裏木戸の所に、又八(またはち)さんが来ております」と言うのだ。

 又八とは絹の家の遠い親戚筋で、これまた商人の跡取り息子。逢えばことある毎に絹を口説いて来る、そんな男であった。

 時刻は既に亥の刻(二十二時頃)。こんな時分に何用でしょうかと絹が裏手へと回れば、確かに閉まった裏木戸の向こう側から、又八のものだろう声が聞こえて来るのである。

 その又八、生まれが東北の最北端で、妙に聞き慣れない独特の訛りがある。声の質もやけに甲高く、良く裏返る。姿は見ていないものの、その声だけで間違いようもないぐらいに又八本人そのものだった。

「又八さん、こんな時分にどうなされました?」と、閉じた木戸越しに絹がそう聞けば、「おぉ、絹ではないか」と反応はするものの、どうにも話の内容にとりとめが無い。どこそこの豆腐が旨いと言えば、急にどこぞの寺の坊主がやけに癪に触るなどと、脈絡がまるで無いのだ。

 これは酔っているなと思い、絹ががらりと木戸を開ければ、何故かそこには誰の姿も見当たらない。

「これは何かありましたな」と、一緒に裏手まで来た、番頭の清之助がそう言った。

 時刻は遅いものの、虫の知らせを放っておく訳にも行かず、絹と清之助は提灯を持って一里ほどある又八の家へと向かった。

 するとその又八、亡くなったどころかとても元気で、酒に酔ったか赤ら顔のまま、「絹、どこへ行ってた」と、満面の笑みで出迎えた。

 だが驚くのはその又八の言動で、いつ祝言をあげるだの、仲人は誰にするなどと、今にも絹と婚礼をあげそうな勢い。どう言う事かと訊ねたら、なんと先程、絹が一人で家を訪ねて来て、嫁にもらって欲しいと言い出したのだと言う。

 流石に絹もそれは又八の狂言だと思い、「私には許嫁がおります」と、芝居ながらも隣に座る清之助の腕を取る。そうして呆気に取られた又八を置いて家を出たのだが、その一件がそうさせたのだろうか、又八はその晩の内に家の前の川へと落ちて亡くなってしまったのだと言う。

 それ以降、又八の霊が絹の家を訪ねて来るような事は一切無かったが、どうやら又八の言っていた話の内容は嘘ではなかったらしく、又八の家の人々もしっかりと絹の姿を見ていたそうなのだ。

 結局、あの晩の同じ時刻に二軒の家で起こった怪異については、何も分からないままであったと言う。

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