#255~256 『民間伝承 スナコロベ・弐』
妻と六歳になる息子を連れて、田舎の実家へと車で帰省した時の事。
実家には年老いた実母が一人住んでいるだけ。しかも息子を連れて行くのは初めての事だった。
行きの車中、息子が車酔いをして何度も休憩を取ったのがまずかった。まだ残り三分の一も距離があると言うのに、日は暮れて普段ならばそろそろ寝ようと言う時刻。
「今夜中に着けるから、玄関のドアだけ開けておいて」と母に電話するも、今夜は来るな、明日の朝来いと言う返答。
「どうして?」と問えば、「スナコロベの話、忘れたんか」と言われる。馬鹿馬鹿しい、とにかく夜の内に行くからと、俺は電話を切った。
到着したのは完全に深夜だった。妻も子も後部座席で熟睡しているらしく、実家の前の庭先に車を停めても起きる気配が無かった。
少しの間だからいいだろうと、俺はドアを開けっぱなしのままで車を降りた。
田舎独特な磨りガラスの嵌め込まれた横開きのドアをノックする。「母さん、着いたから開けてくれない?」と、何度か声を掛け続けていると、真っ暗な家の中、ドア越しに誰かが向こう側に立ったのが見えた。
「馬鹿ったれ、今すぐ帰れ!」と、母の罵声。なんでだよ、嫁も息子もいるんだから早く開けてくれと言えば、「余計に開けられるか、今すぐこっから出て行け」と怒鳴る。
流石は田舎者だな、未だにくだらない地元の風習に縛られてる――と、呆れて背後を振り返る。嫁と息子がいなかった。後部座席は両側とも大きく開け放たれ、車内灯のともったシートの上には誰の姿も無い。
慌てて二人の名を呼び、暗闇の中で目を凝らす。すると家の裏手へと続く林の前で、手を繋いで後ろ向きに立っている二人の姿がぼんやりと見えた。
急いで駆け寄る。すると手を繋いでいる二人の間から、“何か”が見えた。それはまるで猿か何かのような体躯で、全身を毛で覆った何かの獣が二人の目の前に立っていた。
大声で追い払う。瞬時に獣は消えていなくなったが、どうにも二人の様子がおかしい。こちらに背を向けたまま振り向こうともしないのだ。
「おい」と、妻の肩に手を置こうとした所で、「やめんかい!」と背後から怒鳴り声が聞こえて来た。見ればそれはついさっきまで玄関を開けてくれなかった母の姿で、「東京はぁ行って馬鹿んなって帰って来やがったか!」と尚も怒鳴ると、無理矢理に俺の手を引いて家の中へと連れて行こうとする。
「嫁と息子も連れて行かなきゃ!」と手を振りほどくも、「いいから来い!」と、母はほとんど暴力的に俺を引っ張る。そうして家の中へと押し込まれると、玄関を上がった辺りに二人はいた。何故か二人とも凄く怯えた様子で、妻は息子の身体を強く抱きしめながら震えている。
母は浴槽に湯を溜め、大量の塩を混ぜながら、すぐに入れと言う。先に妻と息子を入れた後、俺も仕方なく湯船に浸かってのんびりとしていた。さっきのあれは何だったのだろうかと思い返しみたのだが、さっぱり分からない。
風呂から出ると、さっきまで居間にいた三人の姿が無い。探し回れば三人は仏間にいた。部屋の中央で母が倒れて、その母を妻と息子が手を繋ぎながら眺めている。
「どうした、母さん?」と駆け寄れば、母は手に数珠を持ったまま既に事切れていた。
「何があったんだ」と振り返ると、今度は二人の姿が無い。大声で叫べば、妻は息子を抱きかかえながら二階から降りて来る。どうして母を放っておいたのかを責めると、妻は風呂を上がってからはずっと二階の部屋で息子を寝かしつけていたので何も知らないと言うのだ。
翌朝、母が急死した知らせを受けて、近隣の住人がぞろぞろと集まって来た。そして俺の行動を責め、「お前が殺したようなもんだ」と、罵られた。
葬儀が済んだ後、妻からは離婚を迫られた。俺と一緒にいると息子が気の毒なのだと言う。
そうして一人暮らしに戻った後、何気なく手に取った風俗・民俗学の雑誌で、偶然にもスナコロベと言う土着信仰系の妖怪の事を知る。
背が高く下半身が魚の姿をしており、全身が赤と黒のまだら模様で、真夜中に人の気配を求めて彷徨い歩くと書かれていた。
前に俺が見たものとは、まるで違うのである。
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