#238 『山中の煙』

 嫁と一緒に登った山で、道に迷った。

 持参した水もそろそろ底を尽きようとしていた頃、どこからともなく線香の匂いが漂った。

 気のせいかなとも思ったのだが、嫁の方は僕よりも先にそれに気付いていたらしく、空中を見上げながら、「向こうだ」と、煙の所在を目で辿っていた。

 すぐにそれは見付かった。まさについ先程供えたばかりであろうと言わんばかりな、火の点き立てな線香の束。しかもそれは思ったよりも多く、消えて倒れたものも含めて十束以上はそこにあった。

 何故こんな山中に? 普通に考えればとても異常な事である。見てはいけないものを見てしまった感が強く、僕と嫁はすぐにそこを後にした。

 そうしてどれぐらい歩いただろう、気が付けばまたしてもどこからか線香の匂い。ざっと草を掻き分ければ、またそこには線香の束が置かれた一画があった。

「どうなってんだよ、この山!」言いながらその場所に背を向けて進めば、しばらくしてまた、線香の束の置かれた場所に出る。

「これ……多分だけど、さっきからずっと同じ場所に来ちゃってるよ」と、嫁が言う。僕もそう思った。

 どうしようかと迷っていると、どこからか人の声がする。

「あぁ、着いた着いた」と、草むらを掻き分けて現れたのは、いかにも登山者然とした男女数人のグループ。そしてその人達は僕と嫁を見て、おかしいとも思わず「どうも」と会釈をしてザックから線香やら花束やらを取り出した。

 見ればその線香の供えられている場所は、登山者慰霊碑の前だった。僕と嫁は、今来た登山者さん達と一緒に下山し、事なきを得た。

「実は僕ら、迷ってたんです」と素直に話せば、「知ってたよ」と皆が言う。どうやらその人達も以前に同じように道に迷い、同じようにして助けられた過去があると言う。

 僕と嫁は自然に、その登山グループに参加する事となった。そして年に一度はその山に登り、慰霊碑を訪ねる事をするようになった。

 それから数年後。――僕が、ザッと草を掻き分ける。慰霊碑の前で、泣きそうな顔の男女が座り込んでいる。

「こんにちは」と僕は声を掛け、嫁はその横で水筒を取り出し、「良かったらどうぞ」と、笑顔でその二人に差し出す。夏の午後の日の事だった。

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