#230 『落チル』

 時折、酷い目眩に襲われる事がある。

 僅か一瞬でしかないのでそれほど困る事は無いのだが、これが階段の上り下りだったり、自転車に乗っている時だと少々危ない。

 目眩が始まると、とりあえず目を瞑ってやり過ごす。これがまた妙な感覚で、まるで身体が天井方向へと向かって凄い勢いで飛んで行くようなイメージなのだ。

 気になって何度か脳神経科で相談をした事があるのだが、結果はいつも正常で、目眩の原因はまるで分からないのである。

 ただ一つだけ、気になる事はある。部屋で一人きり目眩に襲われる時は特に何も無いのだが、外で、しかも人の往来の激しい場所などで目眩が起こると、何故か「ざわり」と周囲の空気が変わる感覚があった。

 ある時、社員食堂で遅い昼食を取っていると、いつもの目眩が襲って来た。僕は普段通りに目を瞑り、目眩が治まるのを待つ。

 数秒の後、目を開けて食事の続きをと思っていると、ふと目の前に誰かが座った。見ればそれは時折その食堂で見掛ける事がある程度の、別の部署の女性社員だった。

「あなた、落ちてる自覚あるの?」と、いきなりその女性社員は聞いて来る。何の事だと聞き返せば、「あなた、落下してますよ」と、更に訳の分からない事を言う。

 名札には、“香取”とあった。その香取さんは、「あまり良く無い兆候だから、治しましょうね」とだけ言って去って行ってしまった。

 数日後、またしても昼食時に誰かが座った。見れば思った通りに、先日の香取と言う女性だった。その香取さん、無理矢理に僕のシャツの袖をめくると、左の腕に何かを巻いた。見ればそれは、ブレスレットのような、ミサンガのような、そんな雰囲気もありそうな藁で出来た注連縄(しめなわ)だった。

「なんですか、これ?」アジフライを箸に刺したまま聞くと、「縛り付けただけ」と、その香取女史は言う。そうして、「今後は落下する際には目を瞑らないでおいて」とだけ言って、出て行ってしまった。

 それから数時間後、その香取さんの言ってる事の内容がぼんやりと理解出来て来た。

 外回りで歩道をあるいていた時に、目眩は来た。いつもながらに「ぐらり」と視界が揺れて、そして天に向かって飛んで行くような感覚。但しそれは視覚的に見た場合、上下が逆さまだった。

 上から下に向かって落ちて行く自分。その視覚の中には、少し離れた場所に立つ僕自身の背中が見えた。

 もしかしたら落ちて行く僕が見えているのか、歩道を行く人々が「ざわり」と、声にならない悲鳴を上げていた。

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