#229 『のっぺらぼう』
懐かしい人と逢う、そんな夢を見た。
どこかの居酒屋だったと思う。僕よりも年上の男性だ。僕は差し向かいでその人と話を交わし、近況を報告しあっていた。
だが、目が覚めると同時にそれがどこの誰だったのかを忘れてしまっている。間違いなく僕自身にとっての大切な存在だった筈なのに、一向に思い当たる人に記憶が行き着かない。しかもその人の顔と言うのが完全に夢の中で抜け落ちていて、さながら“のっぺらぼう”そのものなのだ。
夢の内容はしっかりと覚えているし。それなりに交わした会話も覚えている。ただ、その相手と言うものが誰なのか。そこだけがもどかしいぐらいに分からないのだ。
その日は一日、もやもやとした気分で夢の内容を反芻していた。あの年上の男性は確実にこの世に存在している人であり、僕にとってはかなり重要な位置にいる人であると言う事は理解出来ているだけに、余計に自分の記憶力のなさに苛立ちを感じるのだ。
夢は、その晩も見た。やはり昨日と同じどこかの酒場で、内容もまんま昨日の続きかと言わんばかりに酷似している。だがやはりその男性はのっぺらぼうのままで、目を覚ましても全く誰なのかに行き着かない。
三日目、僕はその夢の中で泣いていた。その男性にひたすら感謝の言葉を述べ、心からの礼を伝えているのだ。
起きたら枕までもが濡れていた。何だろう――僕は確実に、忘れちゃいけない人を忘れていると、自分の情けなさに嫌気が差した。
夜、家で悶々としているのも嫌なので、行きつけの居酒屋のカウンターで、一人呑みをしていた。そこそこ酔いも回ったなと思った頃である。ふと、視線の先にテーブル席で酒を酌み交わす会社員風の男性二人がいる事に気付いた。
瞬間、「あれだ」と感じた。右側に座る三十代ほどの男性には見覚えないが、その向かいに座る白髪交じりの男性は、間違いなく僕の夢に出て来た“のっぺらぼう”そのものだったからだ。
おそらくは元上司と、元部下なのだろう。若い男性はひたすら向かいの男性に頭を下げ、あの時はこうだった、ああだったと、昔話をしているのが耳に入って来た。すると突然、その若い男性の方が感極まったかのように泣き始め、「あなたがいてくれたからこそ――」と、礼を言い始めたのだ。
あぁ、なるほど。確かにそんなシーンだったと僕は思い出す。あの子は、見ず知らずの僕なんかに念を飛ばすぐらいには、真剣に感謝していたんだなと思いつつ、僕はサワーのジョッキを傾けた。
ただ一つ夢と違うのは、その元上司だったであろう男性は、決してのっぺらぼうなどではなく、とても嬉しそうに笑う初老の男性であったと言う事ぐらいだった。
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