#217 『ジェントルマン』
私がまだ小学校の頃の話だ。
同じ間取りの、同じ家が建ち並ぶ、密集した住宅地に住んでいた。
貧富の差の激しい時代で、裏の通りには大きな家ばかりが並んでおり、いつも我が家は日に陰ってばかりで暗かったのを覚えている。
近所に、ブロック塀の続く道があった。ある日の帰り道、そこを通っていると、曲がり角に人の影が写った。日暮れ時で、長い影が道路に落ちている。見ればどうやら男性のようで、背広姿に帽子をかぶっているのが分かった。
ただ、その男性は何故かその場に立ったまま動かない様子で、私はその曲がり角を進んで良いものかどうか迷っていた。すると向こうも私の事に気付いたのか、どうぞとばかりに手を差し出し、譲る合図をしたのだ。
安心して角を曲がる私。だがそこには誰の姿も無い。
それから度々、その男性の影をその場所で見掛けるようになった。時代が時代なので、背広に帽子の姿と言うのはあまり多くなく、そう言う格好をしている男性は「ジェントルマン」と呼ばれていた頃である。ついつい私もその影の事を、「ジェントルマン」と名付けた。
それ以降、そのジェントルマンの影を見付ける度、私は「ごきげんよう」と、スカートの裾を持ち上げて挨拶するようになった。すると向こうも帽子を持ち上げ、挨拶を返してくれたのだ。
それから少しして、我が家の引っ越しが決まった。引っ越し当日、私は時間に恵まれなかった。ジェントルマンの影が出来る時刻にそこを通り掛かる事が出来ず、結局なんの挨拶も出来ないままそこを離れてしまったのだ。
それから長い年月が経った。たまたま子供を連れて遠出した途中、昔この辺りに住んでいたなと思い出し、電車を途中下車し、子供の手を引きのんびりと散歩をしてみた。
昔住んでいた面影はまるで無く、特にあの“貧乏長屋”とまで呼ばれた住宅地は名残の一つも無いぐらいに変っていた。
「昔はこの辺りに川が流れていたんだよ」と子供に語って聴かせていた時だ。たまたま通り掛かった路地になんとなく懐かしさを覚え、そこを通ってみたのだ。
曲がり角に差し掛かる。傾き駆けた陽に照らされ、背広に帽子の姿の男性の影が伸びて見えた。
子供と一緒に、こっそり角から顔を出して見る。だがやはり、そこには誰の姿も無い。私は少しだけ嬉しくなって、スカートの裾を持ち上げて「ごきげんよう」とやってみた。
影の帽子が持ち上がる。子供はそれを見て、「誰?」と聞くので、「ジェントルマンよ」と、私は笑って答えた。
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