#211 『深夜喫茶』

 まだインターネットカフェや漫画喫茶と言うものがこの世に存在していなかった時代の話だ。

 馬鹿な飲み方をして終電を逃した。さぁ、どうやって翌朝までを過ごすかと言う状況になって初めて、前に先輩から教えてもらった、“深夜喫茶”と言うものを利用してみようと思ったのだ。

 果たしてその喫茶店は、あった。だが先輩の言っている通りなのかは分からない。半信半疑で店を訪れると、なるほど一杯の珈琲を目の前に置き、椅子寝している人が多いではないか。

 珈琲の値段はあり得ない程に高かったのだが、それで一夜を過ごせると言うのならば逆に破格な程に安い。僕は店の端の方の椅子に陣取り、湯気の立つ珈琲を置いたまま目を瞑った。

 そうしてどれほど眠ったのだろうか。ふと目を覚ませば何故か店内は真っ暗だった。

 消灯時間のある喫茶店なのだろうか? そんな馬鹿な――思いながら周囲を見渡すと、確かに自分以外の人の気配はする。だがしかし、窓の外から飛び込んで来る街の明かりしか光源が無い為、店内の様子はまるで分からない。

 目の前に置いた珈琲からは、まだ微かに湯気が立っているのが分かる。それほど時間は経っていないのだなと気付いた時だった。ゆらりと店の奥の方で、“影”が立ち上がった。この真っ暗な空間の中で影が立ち上がるのが見えると言うのもおかしな話だが、闇よりも更に濃い“何者か”がいる事だけは間違いないのだ。

 そしてその影はゆらりゆらりと揺れ動きながら、各テーブルを見て回っている様子だった。

 咄嗟に僕は寝たふりをした。やがてその影は僕のいるテーブルまでやって来たが、寝ている僕を確認した後、またゆらりゆらりと他のテーブルに移って行くのだ。

 これはマズいと、僕は思った。ある程度その影が離れたのを見計らい、僕はそっとしゃがんだ姿勢のままで店の出入り口を目指す。そうしてドアまで辿り着くと、勢い良くドアを跳ね開け、一目散に逃げ出した。

 そうして見覚えの無い路地をいくつか曲がり、やがて見慣れた街の繁華街へと出た。もうその晩はどこの店にも入る意志は無く、どこぞの雑居ビルの玄関先に腰掛けて一夜を過ごした。

 あれから何度かその喫茶店の前を通り掛かったのだが、店はその後も、何事もなかったかのように営業をしていた。

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