#199 『ルージュ』
夫が、ワイシャツの背に赤いルージュを付けて帰って来た。
電車で付いたんだと夫は言う。とても言い訳めいていたが、私は努めて平静を装い、「あなたが浮気しているなんて想像もしてないから」と無理に笑った。
その晩は悔しさで眠れなかった。リビングでシャツに付いた赤い唇の跡を見つめながら私は朝まで泣いていた。
翌日、夫はまたシャツにルージュを付けて帰って来た。夫は私が握り締めている昨日のシャツを見付け、「どうしたの?」と言う。私は咄嗟に、「洗っても落ちなかった」とそのルージュを見せ、白々しい嘘を言った。
翌日、近所のスーパーに出向いて買い物をして帰る途中、白いワンピースを着た女性とすれ違った。なんとなく、爬虫類を想像させる女だった。嫌らしいぐらいに赤いルージュが艶めかしく、日陰にもかかわらずそれがぬらぬらと輝いて見えるぐらいだった。
ふと、夫のシャツに付いたルージュを連想させた。振り返ればその女も同じようにして私を見ている。女は手を後ろにしながら、右に左にと身体を揺らしながら微笑んだ。瞬間、私は確信した。間違いなく夫をそそのかしたのはこの女だと。
私は家に帰ると、二枚のシャツを乱雑にバッグに詰め込み家を出た。同時に夫に電話を掛ける。出るやいなや、「悪いけど今夜は家に帰らないで」とだけ言って切る。夫の顔を見たくなかったからだ。
シャツは近くの河原まで行って、ライターの火で燃やした。近くを通り掛かる人々は私の行動を見て何か言いたそうではあったが、燃えて灰となって行くシャツを見ながら笑う私に、誰も声を掛ける者はいなかった。
軽快な電子音が鳴る。夫からだ。見れば簡素に一言、「お祓いに行って来る」とだけある。
一体なんの事だろう。いやむしろどうでもいい。大概、私は彼に愛想が尽きたらしい。こんな事ならば同棲生活時代に見切りを付けておけば良かったなとさえ思う程だ。もう完全に元の形が分からないほどに炭と化したシャツを足で踏みにじり、私は軽い足取りで家へと帰った。
玄関のドアを開ける瞬間、ふと背後に誰かが立ったような気がして私は振り返る。するとそこには一人の女性の姿。なんだかどこかで逢ったような記憶もあるが、全くそうでもないような気もする、そんな人。
「どちらさまですか?」と私が聞けば、その女性はやけにぬらぬらとした赤いルージュの唇で、「アオイです」と、声には出さずにそう言った。
「どうぞ、お上がりになって」と、私は玄関のドアを開けながら笑う。どうやら彼女もまた、ウチの夫には愛想が尽きた様子だ。
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