#197~198 『口紅』
ある夏の日。営業から帰り、部署へと戻ると、事務のM美と言う女の子が、「浮気の証拠付けて来てるわよ」と、僕の背を指で弾き、笑いながらそう言った。急いでシャツを脱いで見ればそこにはべったりと赤い口紅。それを見た上司もまた、「仕事しないで何やってたんだ?」と僕を茶化した。
帰ってすぐに、妻のS子に、「電車か何かで付いたんだと思う」と弁明したのだが、S子は笑って、「あなたが浮気しているなんて想像もしてないから」と、盛大に笑われた。
S子とは半月前に籍を入れたばかりで、いわゆる新婚と言うものだったのだが、それまでの同棲生活が長かったせいであまり“結婚をした”と言う実感は無かった。
翌日、得意先を回った後で部署へと戻れば、「二日続けて女遊び?」と、M美。見れば今度は胸のポケット辺りにべったりと口紅の跡が付いていたのだ。だがさすがにこれには覚えが無い。満員電車に乗った記憶も無ければ、女性が僕にぶつかって来たと言う記憶も無いからだ。
家に帰り、「また付けられた」とそのシャツを見せれば、S子もまた昨日のシャツを僕に見せ、「洗っても落ちなかったの」と言う。そこには昨日のままの赤い口紅が、べったりと付いたままだった。しかも何故か昨日とはその唇の形が違って見えているようで、その形は笑っている唇の形のように感じられた。
その異変は三日続けて起った。今度は右の肩辺りに付いていたのだ。部署へと戻ればM美はちらりとそれを見て口をつぐむ。いつもは「どこで遊んでいた」と茶化す上司も何も言わない。どころか部署全体がやけに僕に冷たく、本気で外で遊んで来ていると思われているかのような疎外感さえあった。
外回りをして会社へと戻ると、身に覚えの無い口紅の跡がシャツに付いていた。そしてそれは三日続けて起こった。
僕が疎外感の中仕事をしていると、突然、部署に響き渡る悲鳴。女子のロッカーの方からだ。女性達が数人、ロッカールームへと飛んで行く。その中にはM美の姿もあった。やがて皆が戻って来ると、M美は僕を呼び付け、「シャツ脱いで」と命令口調で言うのだ。
逆らわず脱げば、肩に付いた口紅の跡の横に、取り出した赤い口紅でサッと縦に線を引いた。それは同じ色のようで、赤い唇と赤い線がそこにあった。それを見た女性達数人が、更に悲鳴を上げて逃げ出した。
そこに電話が掛かる。表示を見れば妻のS子からだ。出てみると、「悪いけど今夜は家に帰らないで」と言う。理由を尋ねるが、電話は早々に切られてしまった。
「お祓いに行って来い」と、上司に言われる。M美もまた、同意したかのように頷く。意味は分からなかったが、指示通りに近隣にある神社へと行ってお祓いを済ませ、会社へと戻る。そこでようやく全ての意味が分かったのだ。
十日ほど前から会社に来なくなってしまった“アオイ”と言う名の女性事務員が、自宅で自殺体として発見されたらしい。それを聞き、彼女のロッカーを片付けようと開けた女性が、空っぽのロッカーに一つだけ、その赤い口紅が立てて置かれてあったのを見付けたのだと言う。
アオイの部屋には、遺書と日記があったそうだ。自殺の原因はどうやら僕の結婚の報告だったらしく、日記には僕の妻への恨みつらみがびっしりと書き込まれていたと言う。
翌日、家へと帰れば、何事もなかったかのようにS子が「おかえり」と笑いかけて来た。
つい今し方まで誰か来ていたのだろうか、リビングのテーブルにはティーカップが二つ置かれ、空いている席のカップには、べったりと赤い口紅の跡が付いていた。
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