#195 『曼殊沙華』
春の山で遭難した。
道に迷った訳でもなく、足をくじいたでもない。突然の睡魔に勝てず、少しだけ休憩しようと木の幹に背を預けて眠ってしまった所、起きたら既に夜だったのだ。
仕方なく野営の準備をした。虫除け程度の一人用テントを張り、中に寝袋を敷いただけの簡単なものだ。何故か夜食は摂る気にもなれず、暖めた水を一杯だけ飲んで寝た。
翌日、目は覚ましたがあまりにも身体がだるく、ひどい目眩もあり、まだ少し寝る事にした。だが、うとうととしていただけのつもりが再びの夜を迎える事になってしまった。風邪でもひいてしまったのだろうか、身体のだるさは抜けてくれない。同時に胃でもやられたか口の中がやけに苦く、食欲はゼロ。何もする気になれず、その日は水を湧かす事もせず、直にペットボトルの水をがぶ飲みして寝てしまった。
その翌朝もまたひどいだるさで、起き上がるのも必死だった。だがいい加減下山しなければ、大概命の方が危うい。懸命にテントを畳み、荷物を担ぎ、頑張って歩を進めた。だがいくらも降りない内にひどい眠気が襲って来る。まばたきだけでぐらりと身体が傾くぐらいの眠気なのだ、僕はほんの少しのつもりで草むらに腰を下ろす。ぼんやりとした視界の中に、群生した赤い花を見たような気がした。だが次の瞬間、僕は身体を横たえ眠ってしまっていた。
夕刻、目を覚ました僕は、必死の思いでテントを張り、再び寝袋にもぐり込む。持参したペットボトルの水はもう空に近い。明日には絶対に下山しなければと心に誓うのだが、片隅にほんの少しだけ、“このまま眠っていてもいいかな”と言う思いもあった。
やはりその翌朝も、ひどいだるさで起き上がれずにいた。周りを見渡せば、僕を囲むようにして曼珠沙華の花が一面に咲いていた。それを見ながら、あぁいよいよ僕もお終いだと、どこか諦めの気持ちとなっていた。
ザックからメモ帳を取り出し、母と弟に伝言を書かなくてはと思ったのだが、それすらも気力が湧かない。おそらく今夜ここで眠ってしまったら、翌朝に目を覚ます事はないだろうと悟った時だった。少し下の方で、女性らしき登山者が一人、ふらつきながら木の幹に倒れ込む姿を見た。瞬間僕は弾けるようにして飛び起き、「寝たら駄目だ!」と叫び、荷物は全て置き去りのまま女性の所まで駆け下りた。
女性を担ぎ、懸命に山を下りる。気が付けば夜を待たずに下山出来た。どうやらその女性もまた、酷い眠気と目眩で、三日間をその辺りで過ごしたのだと言う。
「助かりました」とは言われたが、助けられたのはきっと僕の方だったと思う。
遭難者が出たとは聞く事の無い山だったが、僕とその女性が経験したあの出来事は何だったのか。とりあえず曼珠沙華の花は、春には咲かないと言う事だけは理解していた。
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