#189 『湖畔の濃霧』

 彼氏と湖までドライブに行った時の話だ。

 貸しボート屋があり、一緒にそれに乗ろうと言う段になって私が大学時代にボート部だった事を明かせば、彼氏はふざけ半分で競争をしようと言い出した。

 結局その挑発に私も乗ってしまい、一人で一隻ずつ手漕ぎのボートを借りる事となってしまったのだ。

 これじゃあデートらしくないなと思いながらも、二人でどんどん湖の沖の方まで漕ぎ出した。他にボートを出している人がいなかった為、湖上はほとんど私達二人の貸し切り状態であった。

 ふと気付けば、山側の方からかなり濃密な霧が押し寄せて来ていた。最初は気にも留めていなかったのだが、いつのまにか四方が白い壁に阻まれ、あっと言う間に私達は濃霧の中に閉じ込められてしまった。

「おい、俺から離れるなよ!」と、彼氏がどこからか叫んでいたが、この濃霧ではどこから叫んでいるのかも分からず、「うん」とは返事したものの、彼氏もまた私を見付けられずにいる様子だった。しかも時々彼氏が私を呼ぶのだが、何故かどんどん距離が遠ざかっているようで、やがてそれはかなりの遠さで聞こえるようになってしまった。

 急に恐怖がやって来た。一度怖いと思ってしまったが最後、悪い想像はエスカレートするばかりで、自然に身体が震え始めた。その内、湖に垂れたオールが水中に引っ張られそうな気がして、そっと船上へと引き上げて漕ぐのをやめた。霧はますます濃さを増し、伸ばした手の先までもがうっすらとしか見えないぐらいにまでなっていた。

 突然、「ゴン」と音がしてボートが揺れた。見れば私の乗るボートに、他のボートがぶつかって来たようだった。目を凝らして見れば、前方にうっすらとボートの輪郭と、それに乗る人影らしきものが覗える。

 普通に考えたら彼氏のものだろう。だが私には何故か、「絶対に違う」と言う確信があった。そして少しして遙か遠くから聞こえる彼氏の悲鳴。どうしようと思っていると、前方にいたボートはゆっくりとオールを漕ぐ音をさせて遠ざかって行った。

 霧はやがて晴れた。彼氏の乗るボートはやはり遠い場所にあった。私が近付いて行くと、彼氏は両手で頭をおさえ、ブルブルと震えていた。後でその理由を聞けば、彼の両側を避けて通って行く大勢のボート客がいたのだと言う。

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