#186 『介護』

 ケアワーカーの仕事に就いて三年になる。

 私が担当させてもらっているのは、自宅に赴いて家事や食事を面倒見る程度の比較的簡単な仕事ばかりだ。

 最近、私が新しく担当にさせていただく方で、Hさんと言う若い女性の方がいる。手足に軽度の障害を持っている為、食事の準備や入浴時の介助を必要としている人だ。私にとっては一日の最後の仕事がそのHさんの家の訪問となっていた。

「こんにちは」と、玄関を開ければ、もう既に玄関先にペットボトルや雑誌などが放り投げられている。今日も掃除のし甲斐があるなと苦笑しつつ、私は靴を脱いでスリッパに履き替えた。

 Hさんは居間のソファーの上で、呆然とした表情を作り私を出迎える。暴力性は無いと聞いてはいるのだが、部屋の荒れ具合と挙動不審な彼女の対応を見る限りでは、そうでもないような気がする。実際に私は、彼女から物をぶつけられそうになった事が何度かある上、「出て行け!」と怒鳴られた経験もある。そうなる時は決まって、彼女は極度の興奮状態となっていた。

 ある日の事、Hさんの家へと向かうと、何故か彼女は髪や衣服がひどく乱れた状態で、ソファーの上で泣いていた。どうしたのかと聞けば、Hさんは理由も説明せず、今夜はここに泊まって行って欲しいと言うのだ。私は咄嗟に、彼女に対して暴行を加える存在がいるのではと勘ぐった。私はそれを了承すると、いつも通りに食事の準備をし、彼女と一緒の夕食となった。

 しばらくは何事もなかった。いつ何時、玄関のドアが叩かれるのだろうかと緊張はしていたが、どうやらそんな心配も無いだろうと思った矢先の事だった。Hさんは物凄い形相で私をにらみ付け、荒い呼吸となり始めた。何を怒っているのだろうと思ったが、違った。Hさんの視線は私を通り越し、その背後を見ていた。そして私はそれに気付くも、振り向く事が出来なかった。確かに、確実に、背後に“誰か”がいるのだ。Hさんは手近なものを掴むと私の背後目掛けてそれを投げつけ、震える声で、「出て行け!」と怒鳴る。私は咄嗟に彼女に駆け寄ると、その身体を強く抱きしめ、「大丈夫だから」とささやく。だがHさんは尚も、「出て行け、出て行け」とうわごとのように呟き、そして涙を流した。

 後日、私はHさんをそこから連れ出し、自宅へと向かった。良く良く聞けばその家は、介護支援団体が好意で貸してくれている物件なのだと言う。

 Hさんの新居が決まり、引っ越しの荷物もあらかた片付いた頃、入れ違いのようにして車椅子の男性がその家へとやって来た。

 介護支援団体のスタッフと共に家の中へと入っていたが、私はその背に何も声を掛けてあげる事が出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る