#185 『帰って来れたんだね』

 人生で一度だけ、自分の部屋から出られなくなった経験がある。

 別に引きこもりになったとか、自宅警備員になったとか、そう言う類の話ではない。物理的に、そこから出られなくなったのだ。

 朝起きてすぐ、トイレに行こうとドアを開けた。開けた先はどこかの建物の廊下だった。

 きっとマンションのような所だと思う。左手側にドアが続く、ひたすら真っ直ぐに伸びた廊下だ。右手側の手すりの向こうはなんだかやけに煙って見える街並み。オレンジ色に照り返す夕焼けがやけに眩しい。

 慌ててドアを閉めた。完全におかしな空間に出てしまったと、直感で気付いた。自分自身の頭が変になった訳ではないと思いたいぐらいに、とんでもない事態だと思った。

 だが、部屋から出られないのは困る。ドアが駄目なら窓からだと、僕はベランダ側の窓を開け放てば、何故かベランダの向こうもベランダで、更にその向こうには鏡写しになった自分の部屋がある。これもまた直感で、向こうに行ってはいけないと咄嗟に窓を閉めた。

 残された手段は、ベランダの無い小窓だけだ。但しそこから出ると言う事は、そのまま三階から落下するしかないと言う事だ。

 別に死にたい訳ではないので、とりあえず顔だけ出して様子を見ようとした所、窓にはスーツ姿の男性が後ろ向きになって貼り付いていた。

 万事休す。もうどこからも出られない。いや、出られる事は出られるだろうが、まともな世界に戻れる予感はまるで無い。とりあえず会社に遅刻の電話を入れようとした所、電話機の表示は狂いまくり、文字かどうかも怪しい訳の分からないものが羅列されているだけだった。

 自分がおかしくなったのだと、僕はどこか観念したような気分になった。トイレに行きたかった事も忘れ、僕は再び布団にもぐり込んで頭まで毛布をかぶった。そうしてそのままどれぐらい経ったのだろうか、ドアの外に靴音が響き、僕の部屋の前で立ち止まる。ノックが三回。少し空けてまた三回。それが延々と繰り返された。

 あぁ、駄目だ。僕は完全に変になった。思った所で目覚ましのアラームが鳴り出した。

 夢だった! 僕は咄嗟にそう思った。アラームを止めれば目が覚めて、普通の世界に戻れると、何故かそう感じた。だが無情にも僕の手が時計を探し当てる前に部屋のドアが開いた。

 見る勇気は無かった。僕はただ、時計のアラームを止めるだけで精一杯だった。

「帰って来れたんだねぇ」と、部屋のどこからか姉の声が聞こえた。部屋に入って来たのは姉だったのか、それとも別の人だったのか。

 ドアが閉まる音を聞き、毛布をはね除けたのだが、何故か部屋の中は漆黒と言うほどに真っ暗闇だった。

 僕はそのまま失神をしたらしく、丸一日をまたいだ後の時計のアラームで目が覚めた。

 世界はごく普通の日常に戻っていた。

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