#165~166 『いくみちゃん』

 数年前の事だが、私はベビーシッターの仕事をしていた時期がある。

 一応は派遣なのだが、保育士の資格を持っているおかげでかなり優先的に仕事を回してもらえていて、それほど仕事にあぶれる事は無かったのだ。

 ある時、M上さんと言う家の娘さんの世話を頼まれた。仕事はとても楽で、M上さんの奥さんが夜遅くに帰って来るまで、そこの長女の“まなみちゃん”の食事やお風呂、そして寝かしつけまでの面倒見るだけだった。

 夕方から深夜までと言う時間帯に少しだけ抵抗はあったのだけれど、時給の良さだけは驚くほどだったのでとても満足していたし、まなみちゃん自身もとても素直で大人しい子だったので、私が手を焼く事は全く無かった。

 ただ一つ困るのが、まなみちゃんの会話に時々出て来る、“いくちゃん”と言う存在の事だ。

「今日ね、いくちゃんがね、こんな事言ってたの」

「そうだね、今度いくちゃんにも聞いておくね」――と、まるで私がその“いくちゃん”を知っているかのような前提で話されるので、いつも私は返事に困っていた。

 ある晩の事だった。まなみちゃんが大人しくクレヨンでお絵かきをしていたのだが、そこには三人の姿が描かれていて、真ん中に立つ背の高い女性はお母さんなのだと言う。そして右側がまなみちゃん。「じゃあこっちは?」と私が左側の女の子を指さして聞けば、「いくちゃん!」と、彼女は答えた。

 それ以降、“いくちゃん”と言う存在は、まなみちゃんにとって非常に身近な人なのだと言う事を理解した。いや、むしろ身近どころかこの家の隣にでも住んでいるのではないかと疑うぐらいに、頻繁に名前が出て来るのだ。

 ある晩、まなみちゃんが寝た後に帰って来たお母さんに、いくちゃんと言う子供について尋ねてみた。

「なんだかとても親しくて、いつも一緒にいるみたいなんですが」と話せば、お母さんはしばらく考え込んだ後、「実はあの子には姉がいたんです」と、語り始めた。

 ある晩私は、帰宅したお母さんに、“いくちゃん”の事を訊ねてみた。するとお母さんは、「実はあの子には姉がいたんです」と、語り始めた。

 当時八歳だったその子は、不幸にも学校帰りに轢き逃げに合い、亡くなったらしい。「名前は“いくみ”と言います」と、お母さんは言う。だが、まなみちゃんはそれ以降に生まれて来た子なので、いくみの事は知らない筈だと話してくれた。

 ある晩の事、まなみちゃんと一緒にテレビを観ていると、突然パタパタパタッと二階を走る足音が聞こえて来た。それを聞いてまなみちゃんは、天井の方を向いて「いくちゃん」と呟く。瞬間、私はぞっとした。ようやく違和感の原因に気付いてしまった。彼女の言う“いくちゃん”は。親しいのでも身近なのでもなく、この家で一緒に暮らしているのだと言う事を。

 以降、妙な事がしばしば起きた。さっきそこに置いた筈のものが無くなって、全く別の場所から出て来たり。誰も使っていない筈の水道から水が出ていたり、突然勝手にテレビが点いたり、料理をしている最中に背後を誰かが走り抜けたりと、細かい怪異が次々と起こった。

 ある晩、まなみちゃんを寝かしつけている最中に自分が寝てしまっていた。あぁいけないと目を覚ませば、いつの間にかまなみちゃんの姿が無い。どこだろうと探せば、隣の部屋から声が聞こえる。但しそれは、“二人”の女の子の声だった。

「まなみちゃん!」とドアを開ければ、まなみちゃんは慌てて、「いくちゃん!」と、“何か”を追い掛け部屋を出て行く。あぁ、もう限界だと思った瞬間だった。呼んでも探してもまなみちゃんの姿が見付からない。私はお母さんが帰って来るのを待ち、「申し訳ありませんが、他の方を頼んでください」と、家に逃げ帰った。

 それから数年が経った。私は派遣を辞めて託児所の仕事を見付け、そこで働いていた。

 偶然にも、そこで働いている人の中に、M上さんの家の近所に住んでいる方がいた。私が名前を出せばすぐに分かってくれた。

「M上さんの知り合いなの?」と聞かれて曖昧に濁したのだが、意外にも私が聞きたがっていた話を向こうから振って来てくれた。

「M上さんも大事な方を交通事故で亡くされていて――」と。私は咄嗟に「いくみちゃんって子ですよね」と聞けば、「子供なんかいないわよ」と、返事がかえって来る。なんでも亡くなったのはご主人らしく、轢き逃げに合い即死だったらしい。

 いくみちゃんはともかく、まなみちゃんと言う名前の子は、終始、話の中に出ては来なかった。

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