#164 『鯉』

 僕がまだ高校生だった頃の話だ。

 ちょうど夏休みの真っ最中、親父と大喧嘩をして家を飛び出した。

 時刻は夜の十時頃だったと思う。まだスマホどころか携帯電話すらも無かった時代だ。友人に電話してこっそり泊めてくれと連絡出来るすべも無く、僕は仕方なく家から少し離れた公園へと向かった。あまり近所だと、おふくろか姉が迎えに来てしまうと思ったからだ。

 その公園は、周りの土地より少しだけ下がった辺りにあった。大きな浅い池があり、いつもそこには鯉が泳いでいた。僕はその池の近くのベンチにごろ寝して、朝を待つつもりだった。

 公園内の街灯はまぶしいぐらいに煌々と照っているので怖くは無かったのだが、途切れない水のせせらぎを聞きながら寝ると言うのは初めての事なので、目が冴えてなかなか寝付けそうになかった。

 目を瞑る。少しして、池の方からバシャバシャと、水の跳ねる音が聞こえた。

 目をやると何も無い。音も止んでいる。そしてまた目を瞑れば、少し時間を置いて再びバシャバシャと水の跳ねる音。それが何度か続き、とうとう僕はその音の主を確かめようとベンチに起き上がる。その時だった、いつの間にか僕の斜向かいに、街灯の明かりを背にしてベンチに腰掛けている男の姿があったのだ。

「うわぁ」と、思わず声が出た。男は完全に僕の方を向いている上、明かりを背にしているので顔が見えなく、それが余計に怖かった。

「もしかしてあなた、朝までここにいますか?」と、男は優しそうな声で言う。

 声を聞いて少しだけ安心する。僕は素直に、「そのつもりですけど」と答えると、「困ったなぁ」と男は言う。

「鯉に餌をあげに来たんですよ」と、男が池の方を指さす。なるほどと思って僕は、「あぁ、どうぞ。お構いなく」と返せば、「申し訳ないが、あなたがいると鯉は出て来ないのです」と言う。

 意味が分からない。だが男は僕を邪魔にしているのだけは理解出来る。面倒だったが場所を変えようと思い、「どうぞ」とだけ言ってそこを立ち去った。

 帰る直前に見たのだが、男は大きな麻袋を下げており、片手には金属製のボウルが握られていた。もしかしてあれ全てが鯉の餌なのだろうかとさえ思ったのだが、さすがにそれはあり得ない。だが、そこを去って少ししてから、池の方から盛大な水の音が聞こえて来た。振り返れば向こう側には立ち上る水飛沫までもが見える。

 あれは鯉じゃないと、咄嗟に僕は思った。怖くなった僕は結局急いで家へと帰ったのだが、不思議と親父もすんなりと出迎えてくれた。

 あれから何度かその公園の横を通る事があったが、どう見ても水飛沫を跳ね上げられるほどの巨大な鯉はいなさそうだし、それほどの深い池でもなかった。

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