#114 『セツさん』

 二階へと向かう階段の踊り場に、“セツさん”と言う女性がいる。

 セツさんは天井から逆さまに頭だけ出していて、その長い髪がだらぁんと床近くまで垂れ下がっている。私はいつもその髪に触れながら、小声でセツさんに挨拶をして通り過ぎる。するとセツさんはいつも小刻みにふるふると震えてそれに応えてくれる。私がまだ物心付く前よりの儀式みたいなものだった。

 家族中、私以外は誰もセツさんを見る事が出来ない。不思議な事に他の人がそこを通ると、霧か霞のようにふんわりとセツさんを通り抜けてしまうのだ。

 私はようやく、セツさんが「人ではない」と知るのだが、やはり依然として怖くは無い。変わらず毎日、セツさんとのコミュニケーションは守られている。

 私が小学校六年生の時だ。一度だけセツさんの態度が変だった時がある。夜中にトイレに立ち、階段を降りていた時だ。セツさんは私を通すまいと言わんばかりに髪を振り乱し、その髪の先端が私の顔にぶつかって来た。それがあまりにも激しく、とうとう私は「ねぇ、いい加減にしてよ!」と叫んでしまった。

 同時に、階下で物音がした。走る靴音に、バリバリと何かを踏みしめる音。私の声に家族中が起き出して来て、そこでようやく泥棒に入られた事が分かった。要するにセツさんは、私を守ってくれたのだ。

 そして十年もの時が経ち、私は実家を離れて東京で一人暮らしをしている。

 実はセツさんはまだいる。付いて来たのか、それとも分裂でもしたのか、それ以降、私が借りた部屋と実家の踊り場の二カ所でセツさんを見掛けるようになったのだ。

 ある時、交際間もない彼氏を部屋に呼んだ際、その彼はセツさんを見て悲鳴を上げ、逃げ出した。もちろん彼氏とは別れる事になってしまった。

 その時はセツさんを恨んだものだが、どうやらあまり素行の良くない男性だったらしい、以降、彼の良い噂を聞く事が無かった。

 今付き合っている彼氏は、まるでセツさんが見えていない。どうやらセツさんは今も付き合う人を選び、私を守っていてくれている様子だ。

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