#112 『タンゴ』
昼間の事だが、にわかに上階の部屋がうるさくなる事がある。それは完全に二人のペアによるダンスステップの際の足音で、とても正確なリズムを刻んでいる。
ある休日、旦那が天井を見つめ、「これはきっとタンゴだな」とつぶやいた。言われてみればなるほどそうだと思えるのだが、とにかくうるさくて仕方がない。だが生来のんびり屋の旦那は、夜中にやってる訳じゃないんだからいいじゃないと笑うばかり。私も仕方なく、黙認する事にしていた。
ある日の事、マンションエントランスで、大きな荷物を運べないまま途方に暮れている老婦人を見付けた。私は何気なく手伝いましょうかと声を掛けると、出来れば部屋まで運んで欲しいとそう言われた。
エレベーターを使い、部屋まで行ってみて驚いた。そこはまさに我が家の真上の階だったのだ。そうして部屋の中まで荷物を入れて更に驚く。なんとその部屋は老婦人の一人暮らしで、タンゴのステップを踏むような存在は誰もいなかったのだ。
老婦人が私にお茶を淹れてくれている間、そっと部屋の中を観察する。ふと、壁に掛かるダンスの写真が目に留まる。見るからに社交ダンスだろう、男女のペアがステップを踏んでいる写真だ。
「これは?」と聞けば、「娘夫婦ですよ」と、婦人は答えた。「娘さんは今どこに?」と続けて聞けば、「もう既に半年以上も連絡を取っていない」と答える。
私は直感する。きっとその娘夫婦が何かの鍵だと。私はお茶の間、ずっとその娘の存在を持ち出しては、遠回しに「連絡してみましょうよ」と持ち掛ける。やがて老婦人は私の説得に折れたらしく、「そうねぇ、今夜辺り電話してみるわ」と言ってくれた。
次の日から、階上からのタンゴのステップは聞こえなくなった。一体何があったのかまでは知らない。一週間後、その老婦人の所を訪ねると、婦人はもう既に引っ越しを終え空き室となっていたのだ。
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