#87 『信号機』
当時俺は、山を一つ越えて、隣の町にある工場まで通っていた。
通勤に使っていたのは愛用のバイクだ。と言うか、当時車は持っていなかった。
通勤用の道路は、まさしく峠道だ。慣れない人が走れば、先の見えないカーブの連続で、自然スピードを落とさざるを得ない。
ある時、そのルートにある長いトンネルで、内壁の補修工事が始まった。トンネルは全区間片側通行になり、その前後に警備員が立ち、案内をしてくれていた。
だが、片側車線しか通れないと言う事は、向こうから車が来ている場合は、それが抜けて行くまでこちら側は通れないと言う事だ。日中は警備員が立つので誘導は比較的スムーズに行われるが、早朝や夜間はそうは行かない。工事用の簡易信号がその前後に立ち、車の往来関係なく通行を遮断してくれるからだ。
とある深夜、長い残業を経てくたくたになりながらその峠道を走っていた時だ。向こうに見える工事用の信号が、青を表示していた。俺は内心ラッキーとも思ったが、次の瞬間、違和感を覚えた。なにしろ補修工事が始まって以来、停止する事なく青信号で通過した事など一度も無かったからだ。
本能が、次の青信号まで待てと知らせていた。俺は信号機の前で停止すると、それが赤になるのを待った。
だがしかし、なかなか表示は赤にならない。普段は赤信号ばかりが長く、青信号はすぐに変わってしまうと言うのに、何故かその夜だけは青信号がやけに長かったのだ。
行ってはいけない。ここでトンネルの中に入ってはいけない。その一心でバイクを停めていると、いつの間に背後に来ていたのだろう乗用車が一台、軽くクラクションを鳴らして来る。
「どうぞ」と、上げた腕で俺は道を譲った。だがその後続車もトンネルの中へと踏み入れない。やがてその車の主が降りて来ると、「どうしちゃったんですかね」と俺に聞いて来る。
「わかんないけど、なんか怖いんで中入れないんスよ」俺が答えると、「ですよねぇ」と、その運転手はうなづく。
やがて長い時間を掛けて信号は赤になった。次の青信号で、俺とその後続車はトンネルの中へと入って行き、無事にそこを抜けて家へと帰る事が出来た。
ただそれだけの話であり、怪異も何も無い話ではあるが、今まで生きて来た中であれほど怖かった夜は初めてであった。
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