#74 『トイレの靴』

 営業で外出中、腹を下した。慌てて近くの百貨店へと駆け込み、トイレを借りる事にした。

 男性用のトイレの個室は計三つ。私はその個室の一番奥へと閉じこもる。便器に座って間もなく、隣の個室との境にある衝立(ついたて)の下の隙間から、靴の先端が覗いている事に気付いた。

 それにはさすがに驚いた。靴の先端がそこにあると言う事は、隣室の人は衝立に沿ってこちら向きで立っていると言う事になる。

 おかしいな、入った時はトイレの中には誰もいなかったし、個室も全て空いていた筈。思いながら私はふと天井方向に目をやると、衝立の上部を掴む両手の指が見えた。

 完全におかしな奴が隣にいる。私は焦ったが、切羽詰まった生理現象には逆らえない。とにかく一刻も早く用を足してそこを出る事に努めた。

 そうして約十分後、私はズボンのベルトを固く締めると、意を決してドアを開けた。

 私はまたしても驚く。隣室には誰もいなかった。どころかトイレの中にはやはり誰の存在も無く、衝立の上下に見えた靴も、手も無い。

 気味が悪い。思ってトイレを出ると同時に、背後でダダダッと何者かの走る足音に続き、バタン! ガチャン!と、ドアの閉まる音。見れば今しがた私が籠もっていた個室のドアが閉まっていたのだ。

 おかしいな、誰もいなかった筈なのに。思わずその個室の隣まで行って中を覗き込んでみようかと言う気持ちさえ芽生えた。

 途端、あぁそう言う事かと自ら納得してトイレを出た。それ以降、二度とその百貨店には立ち寄ってはいない。

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