#65 『水たまり』

 同じツーリング仲間二人と、とある廃旅館の中にあると言う温泉に行った事がある。

 確かに噂通りにそれはあったが、もう既に温泉と言う原型はとどめておらず、落ちた屋根の木片や吹き込んだ枯れ葉、そして周囲から流れ込んで来たであろう土砂が沈殿する、ただ温かいだけの水たまりでしかなかった。

 結局、その温泉には言い出しっぺのIが一人で入る事となった。裸体に腰タオルで、膝まで入っている所をカメラに収めるだけだったのだが、緑色に濁った沼のようなその水は、なかなかに不気味なものであった。

 異変は、その帰り道に起きた。温泉に浸かったIが、休憩ごとに妙な事を言い出すようになったのだ。

 ちゃんと入れば良かった。もう一回、あの温泉に行きたい。そうしてもうすぐ家だと言う頃になって、俺だけ戻って入り直して来るとまで言い出す始末。その日はなんとか俺ともう一人の友人であるKとで、Iをなだめて帰ったのだが、その日を境にIとは連絡が取れなくなった。

 Iが音信不通となって三日目。さすがに心配となった俺とKは、翌日の仕事を休んで例の廃旅館へと向かった。やはりと言うか、Iのバイクはその廃墟の前にあった。だが本人の姿は無い。一応温泉の方も探してみたのだが、Iはそこにもいなかった。

 やがて、妙な事をしている連中がいるとでも連絡が入ったのか、地元の人達が数人、僕らの行動を咎めに来た。最初は結構な剣幕だったのだが、事情を話し、友人が一人いなくなった旨を話すと、何故かすぐに地元の住職さんを呼んでくれた。

「馬鹿な事をしてるな」と、住職さんに怒られた後、何やら読経のようなものが始まり、その後はほとんど納得行く理由も聞かされず、「家に帰りなさい」と言われた。

「いや、まだ友人が見付かっていない」言うと住職さんは、「すぐに帰るから大丈夫」と、ほとんど無理矢理に追い帰された。

 Iのバイクは、後日、地元のバイク屋さんが軽トラで運んでくれた。それには俺とKも立ち会ったのだが、降ろしている最中に素っ頓狂な声で、「俺のバイク!」と、背後からIの声が聞こえて来た。

 今までどこにいたか、なんで連絡が付かなかったのかを問い詰めたが、Iはどの質問にも、「良く分からない」で答えて来る。どうやら実際、Iは全くここ数日の記憶が無いらしい。俺とKは廃旅館での経緯を話すが、やはりIは覚えていない。俺は未だに、水たまりに足だけ浸かってピースサインをしているIの写真を、本人に見せられないままでいる。

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