第5話



(……ーーーーおいで)


 …………声が、する。頭の中に反響はんきょうする静かな声。

 呼んでいる。……だれ。誰が、呼んでいるのだろう。


(…………さあ……おいでーーーー)





 ーーーー唐突とうとつに。

 今まで重く閉じられていたかなめの瞼がかすかに震え、ゆっくりと持ち上がる。そのまま起き上がり、扉へと向かう。その瞳に感情はなく、ただ虚空こくうを見つめるのみ。


「え……枢殿?」


 見張りをしていた兵士が、突然中から扉が開いた事に対し、驚きの声を上げる。しかし、こちらには目も向けずに歩き出す枢。兵士二人は配目し合い、戸惑とまどい混じりに枢に手を伸ばした。


「か、枢殿?お待ち下さい。今、芽依めい様をお呼び致しますので。どうか、まだお部屋に……。枢殿?……っ!……う、あ……」


 兵士が枢を止めようと肩に触れると、急激な眩暈めまいに襲われ、その場に倒れる。

 枢はそんな兵士達を気にする事もなく、その場を後にした。






 …………声がする。

 市場の端、閑散かんさんとした民家を抜け、河川敷かせんじきにたどり着く枢。

 すると、今まで生気せいきの無かった瞳が、ある一点の違和感に向けられた。枢と川をはさんだ向かい側、そこにフードを目深に被った人物が立っていた。


「………………だ、れ……」


 つたない言葉の問い掛けに、ふっと笑う気配。


「…………あぁ、良かった。来てくれて……」


 男の者だと思われるその声を聞き、枢の瞳が生気を取り戻す。

 この、声……。


「………………貴方、は……」


 男と枢の目が交差こうさする。フードの奥の瞳がすうっと細められた。眼光がするどさを増し、周りの温度が冷たく感じる。


「……貴女のそのけがれ、必要なのでもらいます。ーーーーしばらく、ここで寝ていて頂けますか」

「え」


 男の手が自分の両目をおおかくす。

 この一瞬で目の前に来た男に驚く間もなく、枢の意識は再び闇に落ちていく。

 ーーーーと、同時に。ドクンドクン、と重く心臓がみゃくを叩く。


「っ、……ぁ…………ぁあ……っ!!」


 枢が苦しげな叫び声を上げ、地面に倒れ込む。胸元を締め付けてもだえる彼女の体から、穢れがあふれ出し、辺りに充満じゅうまんし始める。

 フードの男が右手から黒い何かを取り出し、川辺にそっと置く。すると穢れがその中に吸い込まれていく。


「………………」


 男はそれを確認すると、くるりときびすを返し、市場から一瞬にして姿を消した。








 竜樹たつきが数人の部下を連れて戻り、準備が整った頃、芽依達は市場に向かって歩き出した。

 芽依は隊の先頭を歩く竜樹の隣に並び、女性から聞いた市場の寒さについて彼にも説明した。


「……穢れに触れて寒くなるのは珍しくありません。ですが、空気がそこまで冷たく感じるのは、それだけ濃い穢れがそこに集まっているあかしです」

「それだけ濃い穢れなら、それが他の地域にもれ出てしまうのでは……」

「そうですね……。ですがおそらく、何者かが、その空間だけに穢れを集め、閉じ込めている可能性が……ーーーー」


 ーーーー刹那せつな


『…………ぁ……ーーーーっ!!』

「「!!」」


 つんざくような悲鳴が聞こえ、芽依と竜樹は、はっと同じ方向へ顔を向ける。


「芽依様……この声」

「…………枢の……」

「っ……芽依様は俺の側を離れないで。三番隊、走るぞ!ついて来い!!」

「はい」

「はっ!」


 竜樹の号令に、芽依と兵士達の返事が重なる。竜樹達は声のしたほうへ走り出した。




 市場の奥へ走ると、黒いもやと共に、地面に倒れる女性を発見する。


「枢っ!」


 芽依は枢の姿を確認するなり、側に駆け寄って彼女の上体じょうたいを持ち上げる。

 胸に手を当て、鼓動こどうを確かめる。正常に呼吸を繰り返す彼女に、芽依はほっと息を吐いた。

 どうやら気を失っているだけのようだ。外傷も特に見当たらない。

 そこまで確認した芽依は、ふと、枢の体の変化に気付き、かすかに目を見張る。


「………………穢れが……」


 枢の中にあった宝珠ほうじゅの穢れが、一切無くなっているのだ。


「どうして……」


 芽依は辺りを見渡す。すると、川辺に一点、黒い靄がひときわ強く集まっている場所があった。


「…………あれは」

「ーーーー芽依様」


 竜樹が警戒のこもった声で名を呼ぶ。後ろを顔だけ振り返ると、穢れに触れた兵士数名がよろめき、片膝を地面につける姿が確認出来た。


「…………竜樹殿。兵士の方々はここから離れたほうが良い。私はここの穢れを一掃いっそうしますので、枢をお願いします」


 そう言うと竜樹に枢をあずけ、芽依は立ち上がる。


「起き上がれる者は残りの兵を連れて市場の外まで退却たいきゃく。枢殿を聖宮へお連れしろ」

「はっ」


 兵士達が言う通りに下がって行くのを見届け、竜樹は芽依を振り返る。

 芽依は、穢れをはらおうと口を開くーーーーが。


「…………え……?」


 すっと吸い込まれるように、市に溢れた穢れが消える。

 穢れが消えた場所。

 あそこは、芽依が先程さきほど気になっていた黒い靄の場所だ。


「………………」


 芽依はそっと、それに近付いていく。


「…………芽依様?」


 芽依の後に続く竜樹が、いぶかしげに声をかけてくる。

 この黒い靄は、える者にしか分からないはず。竜樹には恐らく視えていないのだろう。

 芽依は黒い靄の側まで行くと、膝を地面につき、じっと目をらす。

 何か、ある。

 靄で隠されていて分からないが、その奥に、何かが……。


「………………何が…………」


 すっと黒い靄に手を伸ばす。

 芽依の手がそれに触れようとした、その瞬間。

 バチッ!


「!……っ」

「芽依様!?」


 突然、強い電気がちゅうを舞い、竜樹は慌てて芽依の側に駆け寄った。


「芽依様、お怪我は!」

「…………っ、心配、要りません。……少しはじかれただけです」


 芽依は靄から手を離し、厳しい面持おももちになる。

 芽依は竜樹を振り返った。


「ーーーー竜樹殿」

「はい」

「市場に住む民をこの場から離れた所に避難させて頂けますか」

「……ーーーー分かりました」


 竜樹が離れると、芽依は再び靄に向き直る。


「…………太陽神、力を……」


 右手に神経を集中させ、芽依はゆっくりと靄に向かって手を伸ばす。

 バチバチと弾かれはするが、先程のような強い拒絶きょぜつはない。


「…………何が……」


 芽依は靄の奥へさらに手を差し入れる。

 その黒い正体へ手が届くまで、あとわずか。

 もう、届くーーーー。


 ーーーーその時。

 直接、脳に声が響く。



『……………………姫ーーーー』



 ドクン……と強い衝撃が芽依の脳裏のうりつらぬく。徐々に見開かれる瞳。

 その目は、靄を通り過ぎ、どこか遠くを見つめる。




 ーーーー床に手をつく少女。目の前に立つ青年。彼が持つ剣。それが振り上げられる情景。頬を伝う涙。見開かれる瞳ーーーー。




 走馬灯そうまとうのように視ているそれは、自分ではない彼女の記憶。

 芽依の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちる。


「…………そ、……んな……」


 黒い靄から微かに感じるこの気配。芽依は……いや、『彼女』は……知っている。間違える訳がない。

 この、懐かしい……この…………声、は。


「ーーーール……?……」


 無意識に、芽依の口から、その名前がつむがれる。

 ーーーー刹那、黒い靄がさらに空間に吸い込まれるように消え始めた。


「っ!まっ……!!」

「ーーーー待って」


 芽依は必死で手を伸ばす。しかし、その腕をトキがつかんだ。その間に、黒い靄は跡形もなく消える。


「ーーーー……」


 芽依はトキを見つめる。数秒間の沈黙の後、トキは掴んだ手をそっと離した。


「………………あの靄、少しだけど、リーフィアの気配がした。……触らないほうが良いと思う」

「………………え」


 芽依はもう一度、靄のあった場所を見る。

 リーフィアの気配なんて、トキに言われるまで感じ取る事も出来なかった。

 そもそもどうして、二人の気配が同時に存在しているのか。


「………………ねぇ、トキくん」

「何?」

死神しにがみは、二人一組で行動するって、前に言ってたけど……」

「うん、そうだよ」

「…………じゃあ、リーフィアにも、パートナーがいるって事だよね」


 先程感じたあの気配。

 もし、彼が本当に今もここに存在しているのであれば……。



「………………死神…………に、なったの…………?」


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