第10話 日常となる

 僕は本来の用事を思い出し職員室に向かおうと思ったが、三穂田さんのペンケースを見て入部届を書くなら筆記用具が必要なことに気が付いた。筆箱の入ったかばんは図書倉庫に置いてあるので抱きしめ合っている二人の間をすり抜けて部屋に入る。


 さっきまで僕の座っていた椅子とセットになっている机の上にピンク色で可愛いメモ用紙が乗っていた。【葵先輩の忘れ物を届けに生徒会室に行っています】と書かれたそのメモは職員室に言っていたはずの僕が戻ってきたときに、部屋に誰もいなくなっていて心配しないように並木さんが配慮したものだろう。  


 こんな気遣いができる所とか、部屋に戻ってきたときに僕がメモを見ていることに気付いてちょっと照れる所とか、彼女の一挙手一投足に心をくすぐられる。



 次の日、放課後が待ち遠しくて午後の授業はずっとそわそわしていた。帰りのホームルームが終わると誰よりも早く教室を出て図書倉庫に向かう。途中図書室で司書の資格を持つ先生が中学生向けとしてお勧めするコーナーにあった本を借りた。


 本を読むのが文芸部の活動である以上一応準備していかないと何をしに来ているのかと思われてしまう。僕の目的は並木さんに会うことだったけれど、体裁というものがある。


 僕がいつもの椅子に座ってぼんやりと本を読み始めると図書倉庫の扉が開いた。三穂田さんだった。並木さんかと思ったので残念だ。


「よう、早いな」


「あ、どうも」


 座ったまま顔だけ三穂田さんの方に向けて気のない挨拶をした。我ながらちょっと失礼だと思った。


「お前な」


「す、すみません」


 さすがに残念な気持ちが前面に出すぎた。一応もう一度ちゃんと挨拶しておこうと体を三穂田さんの方に向け立ち上がろうとしたとき、三穂田さんの後ろから並木さんがひょっこりと顔を出した。僕はその瞬間から三穂田さんじゃなくて並木さんの方を見ていた。


「こんにちは。えっと、安積君」


 僕はすぐさま立ち上がり今日一番のしっかりとした挨拶をした。


「こ、こんにちは。並木さん」


 三穂田さんはあきれたような顔をしながら僕の頭を軽く小突いていつもの窓際の椅子に向かった。軽く舌打ちしていた気がする。いや、気がするではなくしていた。


 並木さんは状況が呑み込めていないようで、不思議そうに僕と三穂田さんを見ながら、昨日と同じ真ん中の席に座った。それから三人とも自分の本を読み始める。


 並木さんと三穂田さんは同じ方向を向いて座っていて、僕は二人の横顔が見えるような向きで座っている。決して僕が並木さんの横顔をチラチラ見たいからこんな向きになっているのではなく、一昨日始めてこの部屋に入ったときからこうなっていたのだ。


 だから僕が自分の本に集中せず、並木さんの横顔を見てしまうのは仕方のないことだ。本と並木さんの横顔を往復し続けて二時間以上過ぎても僕は自分の本を十ページ程度しか読んでいなかったし、読んだはずのページの内容もほとんど覚えていなかった。


 そして並木さんを見ること数百回目、正面から視線を感じた。並木さんのものではなく、その奥から、もう本は読み終えてしまったのか三穂田さんが僕を見ていた。怖いので自分の本の方に目線を戻し、しばらくしてもう一度並木さん越しに三穂田さんを見てみるとすでに帰り支度を始めていた。並木さんも読んでいた本を読み終えたようだ。


「そろそろ終わりにして帰るか」


 三穂田さんは僕のことを見ていたのではなく並木さんを見ていたのかもしれない。本を読み終わる様子を見て、終わりにするタイミングを見計らっていたのだ。僕の都合は気にしていない。


 そう考えていたのだが、「ちょっと来い」と言いながら僕の腕をつかんで強引に図書室の方へ連れ出した。かなり強い力で、僕は抵抗を諦めてされるがままに図書倉庫を出た。


「しばらくお前の様子を見てたが」


 やっぱり僕のことを見ていたようだ。


「なんだよあれ、チラチラ真由の方を見やがって。気になるなら話しかけろよ」


 怒られているのだろうけど、なんだか変な感じがした。心配されているのか、応援されているのかとも思える声色だった。


「お前、真由とどうなりたいんだよ」


「どうって、そりゃ仲良くなりたいですけど」


「だったらお前から仕掛けろよ。真由はおとなしいからお前が何もしなきゃ、何も始まらねえぞ。いいか。土日の間にどんな話をするかしっかり考えてこい。月曜は絶対話しかけろよ」


「は、はい。分かりました」


 三穂田さんは僕を応援してくれるようだ。ありがたいことだけど、急に優しくされると少し不気味でもあった。三穂田さんが並木さんを溺愛していて、並木さんが三穂田さんに懐いていることは二、三日二人と過ごしただけでも分かっていた。そんな関係に僕が入り込んでしまっても三穂田さんは何とも思わないのだろうか。


 昨日僕は先に帰ってしまったから分からなかったが、三穂田さんと並木さんは一緒に帰っているようだ。三穂田さんの通学路の途中に並木さんが住むマンションがあるようで、そこで二人は別れた。並木さんはしっかり頭を下げている。きっと丁寧に別れの挨拶をしているのだろう。行儀が良くてとても可愛いらしい。


 軽く手を挙げて挨拶に応える三穂田さんも、頼りになるお姉さんのように見えてちょっとかっこいい。実際三穂田さんのような強い人が一緒なら、並木さんも安心して帰ることができているのだろう。不審者が後をつけたりして来ても並木さんを守って逃がしてくれそうだ。


 並木さんが住むマンションの前に着き、マンションの全体を見るように見上げた。普通の六階建てのマンションだ。特にこれといった特徴はない。でもここに並木さんが住んでいるという事実だけで特別なものに見えた。僕は満足してそのまま帰路に着いた。


 決して二人の後をつけていたわけではない。ただ僕の通学路も同じ道というだけだ。


 帰り道をしばらく歩いていると、偶然三穂田さんが家に入るところを見つけた。僕の家から割と近所で、ということは同じ小学校だったということになりそうだ。


 あんな美人で口の悪い人がいたら小学校でも話題になりそうなものだが、そんな記憶はなかった。違う学年だから知らなかっただけなのか、そんな人がいたら姉が話題にしないはずがないと思うが、中学に入るときに引っ越してきたのだろうか。

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