第9話 真由

 次の日の放課後、僕は結局図書倉庫にやってきた。倉庫の扉を開けようとすると勝手に開いた。中から三穂田さんが開けたようだ。


「なんだ、やっぱり来たのか」


「どうも」


 軽く頭を下げて挨拶をした。


「今日は生徒会に行くからお前に構ってる暇はない。わりいな」


 近くにいた他の生徒がぎょっとした顔でこちらを見た。清楚な文学少女の見た目をした人が「お前」とか「わりいな」とか、その容姿に似つかわしくない言葉遣いをしているのだから仕方のないことだろう。


 そんな人と話をしている僕も奇異の目で見られている。恥ずかしくなって、三穂田さんがその場を去ると僕もすぐに図書倉庫に入った。


 昨日の僕と三穂田さんがいた場所のちょうど真ん中あたりの椅子に一人の女の子が座って本を読んでいた。三穂田さんよりも透明感があって白い肌、艶々していて背中に少しかかるくらいの黒髪、少し垂れ気味の大きな目、すっとした鼻筋、色素の薄い唇、本を読む表情はどこか儚げで、息を飲むほど綺麗だと思った。


 三穂田さんも美人だったけどそれは芸術作品のような美しさであって、芸術の素養が少ない僕はただ綺麗な人という印象しか抱かなかったが、この子は違った。芸術とかそんなものではなく、もっと生々しく可愛くて、綺麗で、夏の制服の上に薄桃色のカーディガンを羽織っているという些細なことでさえ愛おしく見えて、ダイレクトに僕の心を掴んで、一瞬で完全に心を奪われた。


 胸の奥底から名前を知らない感情が沸き上がってくる。むずむずして、ドキドキして、もっと見ていたいけどそれを悟られたくない。他人の未来を見ないように気をつけていた僕の注意をそらすには十分すぎるほどの衝撃で、当然、その子の未来が見えた。


 西日が差す図書倉庫に僕と三穂田さんとその子がいる。僕と三穂田さんの服装からして季節は夏だと思われるが、その子はまたカーディガンを羽織っていた。きっと寒がりなのだろう。


 僕とその子が笑顔で話していて、学校であるにも関わらずなぜかお菓子を食べていたりして、三穂田さんがまるで優しいお姉さんのようにそれを見守っている。ゆっくりと穏やかに時間が流れていて、空気が優しくて暖かい。ああ、僕はこの子と仲良くなれるんだ。そう遠くはない未来であんな風に笑って会話することができるんだ。そう思うと嬉しかった。


 その未来を実現させるのは簡単だ。僕は僕のまま行動すればいい。普段の僕がしないような余計なことをしなければきちんとその未来に行きつくことができるはずだ。


「こ、こんにちは」


 僕が挨拶をするとその子が気付いて会釈した。読んでいた本はそのままで僕の方を見て固まっている。きっと彼女も僕と同じように人見知りで、どうしたらいいのか分からないのだ。僕は苦手なりに思考を巡らせるが、それで良い答えが見つかるなら人見知りにはなっていない。  


 顔を見合せたまま僕は昨日と同じ椅子に座る。彼女も僕の動きに合わせて目線を移動させる。おそらく次の一手を僕にゆだねている。しばらく考えてやっと考えがまとまる。初対面なのだから自己紹介するべきだ。


「えっと、一年一組の安積望です」


 僕が立ち上がって自己紹介すると彼女は焦ったように開いた本を閉じて机の上に置いた。そして立ち上がると同時に体を僕の方へ向き直し深く頭を下げた。


「あ、あの私は一年三組の並木真由なみきまゆ、です」


 僕もつられて頭を下げた。顔を上げると並木さんは僕を見つめたまま、また固まっていた。


 とりあえず座ってみると並木さんも座った。次は何を言えばいいのか迷ってしまい、図書倉庫は静寂に包まれる。姉や健太たちだったらこうはならないのに、初対面の人が相手だと言葉が出てこない。ましてや綺麗な顔をした並木さんがじっとこちらを見つめてくるものだからなおさら緊張してしまう。


 ソックスはきちんと上まで上げる。スカートは膝小僧が隠れるくらい。栃本先生をはじめとした先生たちが女子生徒に対してよく注意している服装のルールだ。


 先生の見ていない所ではソックスを下げたりスカートを短くして、先生に見られそうになると慌てて正しい服装に直す。そしてまた先生がいなくなると元に戻す。そんな光景は入学して二ヶ月でもう何人も、何度も見た。


 そんな中でも並木さんは先生の目がないのにも関わらずしっかりとした着こなしをしている。ルールを守って正しい服装をしている、それだけのことなのに魅力的に感じて僕の心は掴まれてしまう。今度はうっかり未来を見てしまわないようにこらえた。


 今度は並木さんが先に動いた。わざわざ立ち上がってから話し出す。


「文芸部に、入りますか?」


 僕も立ち上がって答える。


「は、はい。入ります」


「そ、そうですか」


 並木さんは少しうつむいてしまった。あまり歓迎されていないのだろうか。


「ダメですか?」 


「い、いえ。しゃべったりするのが得意ではないので、その、ちゃんと本のこととかお話しできるか不安で。あおい先輩は私に気を使って私から話しかけない限り、ずっと静かに本を読んでいるので」


 葵というのは三穂田さんの下の名前だ。昨日姉がそう呼んでいた。ずっと本を読んでいるのは気を使ってではなく、他の活動が面倒だと言っていたからだと思う。


「大丈夫です。僕も話すのは得意じゃないので」


「よかったです」


 僕らはまた椅子に座り直した。自分でも何が大丈夫なのかは分からなかったが、とりあえず並木さんは安心してくれたようだ。並木さんともっとお話ししたいけれど、話題が浮かばず気まずい空気が流れ出す。並木さんも本に戻ることもできずにまた固まっている。


 二人ともぎこちない笑顔で牽制し合う。耐えきれなくなった僕は態勢を立て直すことにした。


「あ、入部届出さなきゃいけないので、職員室に行ってきます」


 そう言って立ち上がり、図書倉庫を出る。直前に並木さんも立ち上がって行ってらっしゃいと声をかけてくれたのが何だか照れくさくて少しにやついてしまった。


 図書倉庫を出ると生徒会の活動に行ったはずの三穂田さんと出くわした。


「おう、どうした、にやつきやがって気持ち悪い」


「え、あの、生徒会に行ったんじゃ」


「忘れ物しちまってな。またすぐに行く。お前はどうしたんだよ。真由に会ったんだろ?」


「ええ、まあ。それで入部届を出さないとと思いまして」


「……昨日検討すると言って、もう一度見に来てすぐに入部決定。で、さっきのにやけ顔」


 三穂田さんはにやにやと面白いものを見つけたという顔で僕の顔を見る。


「な、なんですか? ダメですか?」


「さてはお前、真由に惚れたな?」


 核心を突かれた。そういう風には考えないようにしていたのに。


「ちょ、ちょっと、いきなりやめてくださいよ」


 そう言って周りを見渡す。幸い僕が図書倉庫に入る前まで周りにいた人たちはすでにいなくなっていたため誰にも聞かれていないようで安心した。でも、こんな言い方はほとんど肯定しているようなものだろう。


「そんなわけ」


「ないのか?」


 ないと答えるのは自分の気持ちに嘘をつくみたいで嫌だった。


「あるんだろ?」


 あると答えるのも恥ずかしい。三穂田さんはさらに僕を攻め立てた。


「真由と会って話したんだろ? どうだったんだよ? 印象は」


 可愛くて、綺麗で、動きとか声とか全部が僕の心にダイレクトアタックを仕掛けてきて、控え目で、おとなしそうな所とか、制服のルールをきちんと守ってたり、話すときちゃんと相手の顔を見たりする律儀だったり礼儀正しい所とかすごく良くて、人と話すのが得意じゃない所に親近感も沸いて、本を読んでいるときの儚げな表情が守ってあげたくなって。


「い、いい人だなって思いました」


 三穂田さんは怪訝な表情をする。嘘をつくんじゃねえとでも言いたげだ。とっくに僕の気持ちはこの人にばれているのに誤魔化しても意味がなかったかもしれない。


「まあ、気持ちはわかるぞ。真由は可愛いからな」


 三穂田さんには僕が誤魔化したのはやはりお見通しで、僕が並木さんに惚れたことを前提に話を進める。


「女のあたしから見ても真由はほんとに可愛い。お前に似て人見知りするから今は目立ってないが、環境に慣れてきて色んな奴と話せるようになったら男子はほっとかなくなるだろうな」


 いたずらっぽく三穂田さんが笑った。なんとなくその様子が姉とダブって見えた。いつも強気で、僕に対して遠慮がない。僕のことを都合のいい部下とでも思っていそうなのにたまに世話を焼いてくれる。姉のようだと思うと自然と言葉が生まれてきた。


「三穂田さんも負けてないと思いますよ。見た目は」


 三穂田さんは驚いた表情になった。まさか反撃してくるとは思ってなかったのだろう。


「見た目はってなんだよ。まるであたしの中身が悪いみたいじゃねえか」


「中身というか、言葉遣いを直せば三穂田さんのこと男子はほっとかないと思いますけど」


 言葉遣いを直せば……以降は昨日姉がぼそっと言っていたことだ。見た目のおかげで人が寄ってくるのにしゃべると皆離れてしまうそうだ。


「へえ、人見知りの口下手かと思っていたが、たった一日で言うようになったじゃねえか」


 三穂田さんは少し照れているようだ。この辺を突いていけばこれ以上僕のことを追及されないで済むかもしれない。


「姉ちゃん言ってました。葵は言葉遣いで損してるって」


 これは本当に言っていた。


「学校一いや町内一いや日本一可愛いとも言ってました」


 可愛いとは言ってたけどそこまでは言ってない。


「葵はとっても優秀だから一緒に生徒会やれて幸せだって」


 言ってないけど多分思ってるいだろう。


「葵の可愛さ、優秀さを広めて学校中の男を葵の虜にしたいって」


 これは言ってない。


「調子乗ってんじゃねえよ」


 鳩尾の近くを殴られた。一番痛い所には当たらなかったが結構痛い。三穂田さんは見た目に反して、口調の通り、結構力があるみたいだ。


 そんなこんなで三穂田さんとやりあっていたら僕の真後ろ、図書倉庫の扉が開いた。そこにいたのは当たり前だが並木さんだ。


「あ、葵先輩。ちょうどよかったです。筆箱忘れているみたいで、生徒会室に届けようと思ったんですけど」


 並木さん手には黒いシンプルなペンケースが握られていた。無機質で暗くて並木さんには似合わない。三穂田さんのものだと思えば納得だ。


「おう。ありがとな」


 そう言って三穂田さんはペンケースを受け取る。


「ところであたしらの話は聞こえてたか?」


 一応僕の気持ちを暴いた責任は感じて心配はしてくれているようだ。というか全部聞かれていたらまずいのではないか。


「えっと、はい。安積君が葵先輩は負けてないって言った所から」


 よかった。並木さんのことを話している所は聞かれていなかった。


「私は今の葵先輩の話し方も素敵だと思いますよ。強そうでかっこいいです」


 僕もあんな話し方に変えてみようか。


「ありがとなー。真由はほんとにかわいいなあ」


 そう言って三穂田さんは並木さんを抱きしめた。三穂田さんのあんな笑顔は初めて見たし、並木さんの自然な笑顔はとても可愛かった。

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