第4話 母の実家

 自分の部屋で目が覚めると時刻は十五時になろうとしていた。興奮しすぎて熱を出してしまったようだが今は平熱に戻っている。部屋を出てリビングに行くと母がいた。真剣な表情で誰かと電話をしている。


「もうすぐ娘が帰ってきますので、そうしたら三人でそちらに向かいます。ええ。お母さんとおばあちゃんによろしくお伝えください。八時くらいには着くかと。はい。朝連絡した通り息子が。娘の方はおそらく違うと思います。では」


 電話を切ると、僕に気づいた。


「望。熱は大丈夫?」


「うん。もう平気。それより、その」


「健太君から聞いた。本当なのね?」


 母はいつも優しかった。父親のいない姉と僕になるべく不自由なく生活させるためいつも遅くまで働いているのに、僕らの前ではいつも笑顔で、いつも優しかった。そんな母を姉も僕も大好きで、怖いと思ったことは一度もなかったのに、このとき初めて母に対して恐怖の感情を抱いた。


 真剣で、絶対に誤魔化したり、嘘を吐くことは許さないという表情。声は優しいのに、締め付けられるような感覚だった。僕は素直にうなずくしかなかった。


 母は「そう」と一言だけ言うとそれ以上は何も聞かず、僕に泊まりの準備をするように指示をした。


「どこに行くの?」


「おばあちゃんの家。お姉ちゃんが帰ってきたらすぐに出るから。着替えとかはお母さんが準備しておくから望は自分の持っていきたい物を準備しておきなさい」


 祖父の家は母の運転する車で二十分くらいの、僕らの家からそう遠くない所にある。二か月に一回くらい行っているが泊まったことはまだない。


 帰宅した姉も何が何だかわからないまま荷物の準備をさせられ、僕らは母の車に乗せられた。


 僕以上に状況が理解できていない姉は車内で母に色々と質問していたが、母は「着いたら説明してもらえるから」とだけ言って、それ以上は何も話さなかった。しばらくすると祖父の家に差し掛かったが車はそのまま通りすぎてしまった。


「あれ? お母さん、おじいちゃんの家過ぎちゃったよ?」


「あそこはおじいちゃんの家でしょ。今日行くのはおばあちゃんの家って言ったでしょ」


 確かにそう言っていた。うちでは祖父と祖母が住む家のことをいつもおじいちゃんの家と言っていた。おじいちゃんの家にはおばあちゃんもいるから何の疑問も持たなかったが、母は確かにおばあちゃんの家と言った。


 父親がいないからなかなか気づけなかったが、普通祖父と祖母は二人ずついるのだ。これから行くのはいつも行っている方とは違う祖父と祖母の方なのだろう。でもその違う方には今まで一度も行ったことがなかった。


 辺りがだんだんと暗くなる。車はどんどん山の方に近づいていて、街灯や建物が減り、陽が落ちるのよりもっと早く暗くなってきているように思えた。気が強くいつも元気いっぱいの姉も、山道に入るとどんどんと気が沈んできているようだった。そんな姉の姿を見て僕もより一層不安になってしまった。


 木々の間を通る山道をしばらく走り、開けた場所に出ると眼前に大きな黒い塊が現れた。どれほどかも分からないくらい大きな塊に、一か所だけ小さな明かりが灯っている。母はその明かりの方にハンドルを切った。


 暗闇で見えづらかったが、明かりに近づくと塊は石かコンクリートでできた塀で、明かりがついているのは塀の中と外をつなぐ門だった。周りが真っ暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がる様子がとても怖かった。


 母は門の近くに車を止め、僕らに降りるように促した。門には表札が付いていて、【片平】と書いてあった。聞いたこともない名前だ。母が門についている呼び鈴を鳴らすと門が開いて母と同い年くらいの女の人が出てきた。


「私、ここ来たことあるかも」


 中から出てきた人と母が話をしているのを待っているとき姉がつぶやいた。


「たぶん、パパが死んじゃったとき一回だけ」


 ということは僕も来たことがあるのかもしれないが、当時僕は一歳だったから覚えているわけがない。


「七年半ぶりくらいね。私のこと覚えてる? 萌祢もねちゃん、望君」


 母との話を終えた女の人が僕らに話しかけてきた。母のように優しい声だけど、小さな明かりの下で確認できる顔はとても張り詰めた表情をしていて、これから何か恐ろしいことでも始まるような、そんな雰囲気を醸し出していた。


「覚えてないか、まだ二人とも小っちゃかったからしょうがないね。それじゃ、着いてきて」


 塀の中は僕らが通う学校のグラウンドより少し小さいくらいの広さがあり、その半分ずつを芝生で整備されているエリアと平屋建ての建物で占めていた。人が歩きやすいように門から建物まで一直線に芝生が生えていない道が作られていて、その道の端に足元を照らすための電灯が設置されていた。


 建物の方はテレビなどでお金持ちの家としてよく見る立派な日本家屋であったが、庭にあたる芝生のエリアは、そういった家の庭によくあるような大きな池もなく木も生えていない殺風景なものだった。唯一小さな祠のようなものが門に比較的近い場所に設置されているだけだった。


 歩く間、案内をしてくれた女の人が自己紹介をしてくれた。名前は片平綾香かたひらあやかといい、僕の母の母の兄の娘、母のいとこで僕のいとこおばというものになるらしい。


 今この家には母の母である僕の祖母とそのまた母である曾祖母、綾香さんとその旦那さん、綾香さんたちの息子である僕のはとこの計五人が住んでいる。曾祖父と祖父、綾香さんの母はすでに亡くなっていて、綾香さんの父は畑仕事をしている最中に転んで足を骨折するけがを負ってしまい入院中らしい。


 家に入って靴をスリッパに履き替えると、僕らはそのまま一つの部屋に通された。


「おばあちゃん。お久しぶりです」


 母がおばあちゃんと呼ぶということは僕にとっての曾祖母だろう。部屋の壁際の真ん中あたりに置かれた大きなベッドの上に横になっていていたが、僕らが入ってきたことに気が付くと傍らにあったリモコンを操作し、ベッドの背中にあたっていた部分の角度を上げ、ちょうど僕らを正面に見据えた。


 真っ白の髪、しわしわの顔、細く今にも折れそうな体、当時の僕でもこの人が相当な年齢の人で、体の具合も良くないことは分かった。


 曾祖母はしゃがれた声で母に声をかけた。


「七年ぶりか、いや、あのときも、少し顔を見せただけで子供達を置いて行ってしまって」


「あのときは失礼なことをしたと思っています」


「勝手に家から出ていこうとするからばちが当たったんだ」


 母が責められている。何も悪いことはしていないはずなのに。僕と姉はその光景を前にただ立ち尽くしているだけだった。


「おばあちゃん。もうそのくらいにして……」


 綾香さんが助けてくれるまで、ずっと曾祖母の話を聞いていると本当に母が悪いことをしたみたいで、僕はこの場から離れたくなった。そろりと気づかれないように部屋を出ようとしたが、曾祖母は見逃さなかった。


「待ちな」


 それだけ言うと曾祖母はベッドから降り、右手で壁に取り付けられた手すりをつかみ、左手でベッドのそばに置いてあった杖を握り、ゆっくりと僕を見つめながら歩いて近づいてくる。  


 僕の目の前にたどり着くと、鋭い目で僕の顔を見て言った。


「望といったね。あんた、未来を見たのかい?」


 姿も動きも弱弱しいのに、表情や声は厳しく迫力があった。僕は気圧されてしまい逃げることもできず、ただうなずいた。

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