軽井沢で出会ったシングルマザーが俺の人生を変えた

春風秋雄

俺の車はBMW

「おい、雄太。あそこ見てみろよ」

モーニングセットのスクランブルエッグをトーストに乗せて食べていたら、テーブルの向かいに座っている柿沢健斗が俺の後を見ながら言った。俺は首をひねり、後を向くと、そこには母親らしき女性と、小学校低学年と思われる男の子がいた。母親はまだ20代なのだろうか、若いお母さんだ。そして、とても綺麗な人だ。

「あの親子、二人できているのかな?」

健斗が聞くが、俺にわかるわけがない。しかし、平日の軽井沢に家族で来られる父親は少ない。子供は夏休みだろうから、普通に考えれば母親と子供の二人で来ている可能性が高い。

「後で声かけてみようか」

健斗の悪い癖が始まった。綺麗な女性がいれば、既婚者だろうが、子連れだろうが、見境なく声をかける。そして、金持ちのボンボンという雰囲気を醸し出し、甘いマスクの健斗が声をかければ、大抵の女性は一緒に遊んでくれる。女性が二人連れの場合はいいが、女性が一人の場合は、俺と3人で遊ぶことになるので、俺は邪魔者みたいで楽しくない。今回の相手も女性はひとりだ。必然的に俺は子供のお守りを押し付けられる。

「おいおい、それより仕事の話はどうするんだよ。俺はそのためにここまで来たのだから」

俺はWEBデザインの会社を経営している。親父さんの会社で働いていた健斗が、今回子会社を作ることになり、そのホームページの作成を高校時代からの友達である俺に任せるというので、その打ち合わせをしようと言ったら、軽井沢まで来いと言われた。健斗は親父さんの会社が保有している軽井沢の別荘でバカンスを楽しんでいるらしい。俺は昨日の夕方に軽井沢に入り、その別荘に泊まって、簡単な打ち合わせをしただけで、詳しいことは明日にしようと言って酒盛りが始まった。別荘の近くにあるホテルのレストランでモーニングを食べたあとで打ち合わせをする予定だった。俺は今日中に東京へ帰らなければならないので、遊んでいる暇はない。

「ホームページの件は、すべて雄太に任せる。ロゴデザインも好きに作ってくれていい。俺はお前のセンスを信頼しているから」

「そんなのでいいのかよ?」

「大丈夫。お前が作ったものにクレームは絶対に出さないから」

確かに健斗は、親父さんの会社にいるときから何度か俺に仕事を振ってくれたが、出来上がったものにクレームを入れたことはない。

コーヒーを飲みながら、健斗は親子の食事が終わるのを待っていた。俺は手持ち無沙汰で、タブレットでインターネットの記事を読んでいた。


「お、終わったみたいだ。行くぞ」

健斗はそう言って立ち上がった。しかたなく、俺も後に続く。

「すみません、今日は親子二人で来ていらっしゃるのですか?」

健斗が話しかけると、母親は警戒心むき出しの顔をした。しかたがないので、俺がフォローに入る。

「ごめんなさい。可愛いお子さんなので、つい声をかけてしまいました。怪しい者ではないです。私こういう者です」

俺はそう言って名刺を出した。慌てて健斗も名刺を出す。母親は訝しみながらも二人の名刺を受け取った。俺の名刺はともかく、健斗の名刺には、上場こそしていないが、誰でも知っている企業の名前が入っており、肩書も常務取締役になっているので、少し警戒がとけたようだ。

「俺たち、これから軽井沢の近辺をドライブしようと思っているのですが、よかったら一緒にどうですか?」

健斗がダイレクトに誘う。母親は困惑した顔をした。

「白糸の滝はもう行かれましたか?」

俺が聞くと、母親はまだだと返事をした。

「あれは絶景ですよ。良かったら行きませんか?」

俺がそういうと、男の子がすかさず「行きたい!」と言った。

「白糸の滝までは車で30分程度です。往復でも1時間ですから、お昼頃にはここに帰って来られますよ。もし行きたいところがあるのであれば、そこまで送ります」

母親は子供とこそこそ相談していたが、やがてこちらを向き、

「じゃあ、ご一緒させてください」

と言った。男の子は嬉しそうだった。

親子はこのホテルに宿泊していたようで、チェックアウトしてから行くと言って、部屋に荷物をとりに行った。

チェックアウトが終わった親子と駐車場へ行く。親子は佐原さんと言った。息子さんは佑真(ゆうま)君と言うらしい。小学校2年生だということだ。

駐車場に着いたところで、健斗が言った。

「じゃあ、佑真君はそっちの車に乗って、お母さんは僕の車に乗りましょうか」

「嫌だ。僕もこっちの車がいい」

佑真君はそう言って健斗のポルシェを指さした。

「ごめん、この車は二人乗りなんだよ」

「じゃあ、ママがあっちの車に乗ればいいよ。僕はこっちの車がいい」

「佑真君、あっちの車もBMWですごい車なんだよ。あっちに乗ったら?」

「嫌だ。僕はこっちの車がいい」

俺の車はBMWと言っても、社用車を兼ねているので、3シリーズのセダンだ。佑真君からしてみれば魅力を感じなかったのだろう。小さい男の子からすれば、ポルシェに乗りたいというのは当然の結果だ。健斗は恨めしそうに俺を見ながら、渋々助手席のドアを開けて佑真君を乗せた。健斗が運転席に座ろうとしたとき、母親が健斗に

「安全運転でお願いしますね」

と念を押した。

車を走らせてすぐに佐原さんが話しかけてきた。

「朝岡さんはお休みで軽井沢へ来られているのですか?」

渡した名刺で俺の名前を憶えていてくれたようだ。

「いや、今日は仕事で来ていたのですよ」

俺はそう言って事情を話した。

「そうなんですか。じゃあ、今日東京へ戻られるのですか?」

「ええ、そうなんです。でも今日の仕事は終わりですので、帰るのは今日中で良いので」

「私たちも今日東京へ行くのです」

東京へ行く?帰るのではなくて?

「東京へ行く途中に軽井沢へ寄ったということですか?」

俺がそう聞くと、佐原さんは俺たちとはもう会うこともないという安心感からか、事情を話してくれた。


佐原さんは山口県の出身らしいが、東京の大学で知り合ったご主人と結婚し、ご主人の実家である滋賀県の大津市で義父母と同居していたらしい。姑に加え出戻りの義姉と折り合いが悪く、ご主人に実家を出ようとずっと言っていたらしいが、長男であることからそれは出来ないと言われ、我慢の限界に来たところで、東京にいる大学時代の友人が飲食店を開くパートナーを探していると相談され、自分がやると立候補したらしい。その後ご主人とは離婚交渉をして、先日正式に離婚が成立したということだ。

「それで東京へ行かれるのですね。でも、どうして軽井沢へ寄られることになったのです?」

「あそこのホテルはかなり前から予約していたのです。実は昨日は佑真の8歳の誕生日で、今年は軽井沢で誕生日を祝おうということになっていて、本当は主人も有給休暇を取って3人で来る予定だったのです。でも、こういうことになってしまったのでどうしようかと思ったのですが、キャンセルすると佑真が悲しむだろうし、二人で来ることにしたのです」

「そうですか。佑真君の誕生日だったのですか。それで俺たちの誘いにも応じてくれたのですか?」

「そうですね。二人だけで単に食事をして帰るのはつまらないなと思っていたところにお誘い頂いたので」

「でも、いきなり見知らぬ男からナンパみたいに誘われて警戒されたのではないですか?」

「ナンパみたいじゃなくて、あれはナンパでしたよ。そりゃあ警戒しましたよ。特に柿沢さんは遊び慣れているような感じでしたし。でも朝岡さんは真面目そうな方だったので、この人がいれば大丈夫かなと思いました」

「私はそんなに真面目そうに見えましたか?」

「最初に佑真のことを可愛いと言ってくれたのが好印象でした。子供を褒められて嬉しくない親はいませんからね。柿沢さんとは友達といっていましたけど、長い付き合いなのですか?」

「高校2年の17歳の時からの付き合いですから、もう17年になりますね」

「じゃあ、お二人は今34歳なのですね」

「年がバレてしまいましたか。佐原さんは今おいくつなんですか?」

「女性に年を聞くのですか?まあいいですけど。今年32歳になります」

「そうなんですか?てっきりまだ20代だと思っていました」

「8歳の子供がいるのに、20代はないでしょ。やっぱり言わなければよかった」

佐原さんは明るい性格で、ドライブ中よくしゃべってくれた。名前を聞いたら、亜由美さんというらしい。


白糸の滝に着き、しばらく見物をしてから、佐原親子は、この足で東京へ向かうということなので、軽井沢の駅まで送ることになった。健斗が朝岡は東京まで帰るのだから、車で送ってもらったらと言ったが、電車の方がはるかに早く着くので電車で帰ることになった。健斗がしつこく帰りはあっちの車に乗ったら?と、佑真君に言ったが、佑真君は帰りもポルシェに乗ると言い張った。

軽井沢駅までの道中で、友人とやる店は来月オープン予定だと聞いた。WEB関係のことで何かあれば格安で請け負いますよと言っておいた。


健斗は東京へ戻ってすぐにポルシェを手放したそうだ。そうとう悔しかったのだろう。

佐原亜由美さんから電話がかかってきたのは、2か月ほどした頃だった。知らない番号からかかってきたので、誰かと思ったら佐原さんだった。

「軽井沢でお会いした佐原ですけど、覚えていますか?」

「もちろん覚えていますよ。お店の方はどうですか?」

「それが、集客がうまくいっていなくて、それでWEB広告の相談に乗ってもらえないかと思って電話したのです」

「わかりました。じゃあ、一度お店にお伺いさせて頂きます」

俺はそう言って、店の場所を聞き、日時を決めた。お店は事務所からはそこそこあるが、俺のマンションからは車で10分くらいの場所だった。


お店はダイニングカフェで、綺麗な店だった。ただ、人通りが多い道から1本奥に入っているため、なかなか人目につかない場所だった。常連客を掴むまでは集客は難しいだろう。

「こんにちは」

店に入ると、佐原さんがすぐに出てきた。佐原さんの後ろから女性がひとりついてくる。共同経営者の方だろう。その女性と名刺交換をしてテーブルについた。共同経営者の方は、木村明美さんといった。

ホームページの作成デザインの要望を聞き、ショップカードの提案などをした上で、俺は一番の売りのメニューは何ですかと聞いた。

「うちは何でも美味しいです」

あっさりと木村さんが答えた。

「そうでしょうけど、お客さんからしたら、“これが美味しい店だ”とわかった方が興味をそそると思うんです」

「一品だけあげて、“これが美味しい店です”って言ったら、他のメニューは美味しくないみたいじゃないですか。うちはすべてのメニューが美味しいのが売りなんです」

俺は思わず助けを求めるように佐原さんを見た。しかし、佐原さんは何も言わない。どうやら共同経営者といっても、主導権は木村さんにあるようだ。

仕方ないので、俺はもらった情報だけでWEB制作することにした。概算で料金を提示すると、木村さんは「高い!」と言った。俺は佐原さんに格安でと約束していたので、通常ではありえない金額を提示したつもりだった。佐原さんがとりなしてくれ、何とかその金額で折り合いをつけた。俺はアドバイスとして、グルメサイトに載せて、ネット予約も出来るようにしたらどうかと提案したが、木村さんは割引とか、ネット予約の管理は今の状況では対応できないし、掲載料を支払う余裕がないと言って一蹴された。俺は先が思いやられると思った。

その日の夜、佐原さんから電話があった。

「今日は申し訳ありませんでした」

「いや、私はいいんですけど、なんか、大変そうですね」

俺は暗に木村さんのことを言った。

「明美は、今焦っているのだと思います。開業するのに二人で500万円ずつ出し合って始めたのですが、今月は給与も出ない状態で。特に明美は500万円を旦那さんから出してもらっているので、家に帰ると旦那さんに色々言われているみたいです」

「佐原さんは500万円の資金はどうやって調達したのですか?」

「私は亡くなった父が残してくれたお金があったので」

そうか、佐原さんのお父さんは他界されているのか。

「まあ、出来るだけのことはやってみます。それでどこまで集客が伸びるかわかりませんが」

「よろしくお願いします」


1週間後にホームページを立ち上げ、ショップカードを納品した。俺は、納品のついでにランチを食べてみることにした。パスタを注文すると、厨房で木村さんが料理を始めた。出されたパスタは見た目も味も普通だった。不味くはないが、これを食べにこの店に来ようと思える品ではなかった。しかし、コーヒーは美味しかった。独自のブレンドをしているのだろう。程よく酸味があり、コクの深い味だった。

集客が気になった俺は、4日後に再びランチを食べに行った。満席には程遠いが、それでも半数の席は埋まっている。佐原さんが笑顔で注文をとりに来てくれた。

「おかげで、集客が少し伸びました」

「それは良かった」

「この調子でお客が増えてくれればいいのですけど」

「料理は分担してやっているのですか?」

「それぞれが得意な料理を持ち寄って、それをメニューにしています」

「佐原さんの料理でお勧めは?」

「じゃあ、カレーを食べてみてください。母から教わった特製カレーなんです」

言われるとおりにカレーを注文して食べてみると、とても美味しかった。懐かしい味のようだが、食べたことがない味。程よくスパイスが効いているけど、子供でも食べられるような辛さ。癖になりそうな味だった。


数日後に夕食を食べに佐原さんの店へ行った。店に入るなり、佐原さんに木村さんが強い口調で話しているのが聞こえた。早い時間だったこともあるが、店に客はいなく、隅の席に佑真君が座っていた。俺に気づいた佐原さんが水とおしぼりを持ってきた。俺がメニューを見ている間、一旦後ろに下がった佐原さんが木村さんに言った。

「佑真の食べた分は、ちゃんと払いますから」

それに対して木村さんは再び強い口調で言った。

「そんなの当たり前じゃない。私が言っているのは、他のお客さんが見たら、この店は子供が一人で食べにくるような街食堂のような店だと思うってこと」

どうやら佐原さんは佑真君の夕飯をここで食べさせようとしていたところ、木村さんはそれが気に食わなかったようだ。俺は思わず佑真君に話しかけた。

「佑真君、おじさんのこと覚えている?」

佑真君はウンと頷く。

「ご飯、おじさんと一緒に食べようか」

俺がそう言うと、佑真君はウンと頷いて俺の席に移動してきた。

「木村さん、これなら大丈夫でしょ?」

木村さんは何も言わなかった。

夕食を食べ終え、俺が佑真君を車で送って行くことにした。佐原さんから住所を聞き、ナビにセットする。俺のマンションの近くだった。佐原さんのマンションの前に着き、車から降りるとき佑真君が言った。

「おじさんの車も悪くないね」

「そうだろ?また一緒に食事をしたときは送ってあげるよ」

俺がそう言うと、佑真君はニコッと笑って手を振った。


佐原さんと電話で話し、佑真君をお店で食べさせるときは俺が付き合いますと提案した。すると佐原さんがおずおずと聞いてきた。

「いまさらなのですが、朝岡さんは独身なのですか?」

「そうですよ。だからほとんど外食ですので、家の近くで食べられるところが出来たのは好都合です」

「そうなのですね。だったら、週に1回でいいので、お願いできますか?」

「週に1回と言わず、夜遅くまで仕事が入っている時以外は大丈夫ですよ。何なら、マンションまで佑真君を迎えに行きますから」

そう言って、直接佑真君と連絡がとれるように、佑真君の携帯電話の番号を聞いた。

それから週に3回程度は佑真君と夕食を一緒に食べるようになった。食べるメニューを毎回変えていたところ、どうも木村さんの作るメニューより、佐原さんが作るメニューの方が美味しいことに気づいた。佑真君は毎回佐原さんが作るメニューを食べている。

お客はそこそこ増えていたが、満席になるほどではなかった。佐原さんに聞くと、赤字にはなっていないが、当初予定していたほどの給料はもらえない状況だと言っていた。


2か月ほどした頃、佐原さんから相談があると言ってきた。佐原さんのお店は日曜休みなので、日曜日に佐原さんが俺のマンションまで来てくれた。

「広い部屋なのですね」

「3LDKですが、リビングが20畳あるので結構広い方ですね。ひとり暮らしでこんな広い部屋は必要ないのですが、一時の気の迷いで購入してしまいました」

「実は、明美が店を閉めようと言い出したのです」

「そんなに経営が苦しいのですか?」

「お店自体は継続できますけど、自分たちの給料が雀の涙ほどしかもらえない状況が続いているのです」

「そうですか」

「それで、明美が言うには、もし私が店を続けたいのなら、明美が出資した500万円を返してくれるなら店の権利をすべて私に譲るといっているのですけど、どう思いますか?」

「なかなか虫のいい話ですね。それで、佐原さんはどうしたいのですか?」

「私はお店を続けたいと思っています。でも500万円を出すのは・・・」

「いくらなら出せるのですか?」

「せいぜい200万円です。それも手持ちがないので、融資を受けなければならないのですけど」

木村さんの性格で、200万円で納得するだろうか?仮に納得したとしても、お店がうまくいったら、後で追加でいくらか請求してくるのではないだろうか。

「佐原さんがお店を続けたいと思うのであれば、後でトラブルがないように木村さんの要望通り500万円を渡しましょう。そして、権利譲渡の契約書を交わしましょう」

「500万円ですか・・・」

「そのお金は私が出資します。それと、追加で100万円出資しますので、看板を変えてリニューアルオープンしましょう。あと、うちの顧問弁護士を紹介しますので、権利関係については弁護士を間に入れて契約しましょう」

「600万円ものお金、返せるかどうか・・・」

「貸すのではありません。出資です。だから利益が出れば配当を出してください。それと株主優待で、食事を割安でお願いします」

俺がそう言うと、佐原さんは安心したようにニコッと笑った。


リニューアルオープンに伴ない、お店の名前も変え、ホームページには佐原さん特性のカレーをメインに打ち出し、カジュアルなダイニングカフェといったコンセプトにした。グルメサイトにも掲載し、割引やネット予約もできるようにした。お店のレイアウトも変更し、厨房の横に個室を作り、佑真君がそこで食事や勉強が出来るようにした。俺も食事する時はそこで食べるようになった。

リニューアルオープンから1か月もしないうちに、佐原さんのカレーとコーヒーは評判を呼び、ランチ時間はほぼ満席で、今まではアイドルタイムだったランチ後から夕食までの時間帯にもコーヒーを飲みにくるお客さんが増えた。

俺は毎日のように夕飯は店に通い、佑真君を車で送って行っていた。ある日、車の中で佑真君がぼそりと話し出した。

「学校で、佐原の家はお父さんがいないのかよって言われた」

「そんなことでイジメられているのか?」

「イジメまではしてこないけど、なんか悔しかった」

「そうか」

「僕、そろそろお父さんが欲しいな」

佑真君はそう言って、俺を見た。俺は見られていることを意識しながら、真っ直ぐ前を向いてハンドルを握っていた。佑真君は、それ以上何も言わなかった。


その日は仕事が遅くなると、前もって佐原さん親子には伝えていた。10時前に家に着き、着替えていると佐原さんから電話がかかってきた。

「今家ですか?」

「ええ、さっき帰ったところです」

「夕飯は食べました?」

「今日はコンビニのおにぎりですませました」

「お店の余りものですけど、よかったら召し上がりませんか?」

「いいんですか?」

「今から行きますので」

そう言って電話は切れた。

電話が切れて3分もしないうちにインターフォンが鳴った。あまりにも早いのではと思いながらオートロックを解錠する。ドアチャイムが鳴ったのでドアを開けながら

「どこから電話していたのですか?」

と聞くと、

「マンションの前です。さっき車が帰ってくるのが見えたので電話しました」

「ずっと待っていたのですか?」

「ほんの15分ほどです」

そう言いながら佐原さんはテーブルに料理を並べる。美味しそうだ。とても余りものとは思えない。わざわざ作ってくれたのだろう。

食事を食べ終えると、魔法瓶に入れて持ってきてくれたコーヒーを入れてくれた。

「ご馳走様でした。お金を支払います。いくらですか?」

「お金なんかいいです。朝岡さんにはずっと良くしてもらっていて、いつも食事代を頂くのが気が引けているのです」

「まあ、今日はご馳走になるとして、お店で食べる分はそうはいきませんよ」

佐原さんは一瞬黙ったあと、おもむろに話し出した。

「この前、佑真が言っていました。父親がいないことを学校の友達にからかわれたと」

「この前、私も聞きました」

「そろそろお父さんが欲しいとも言っていました」

「私にもそう言っていました」

「朝岡さん、佑真の父親になってはもらえませんか?」

亜由美さんはジッと俺の顔を見た。

「私には、田舎に年老いた母がいます。いまは元気ですけど、いずれはこっちに呼んで一緒に暮らすことになると思います」

亜由美さんは俺の顔をみつめたまま黙っていた。

「私は亜由美さんのことが好きです。できたら佑真君のお父さんになりたいと思っています。しかし、亜由美さんが離婚した理由が姑さんと折り合いが悪かったからだと聞いていたので、思いを告げるのをためらっていました」

「朝岡さんにはお姉さんはいますか?」

「いません。弟がいるだけです」

「だったら、仮にお母さまと折り合いが悪くなっても、私の苦労は以前の半分ですみます」

俺は何と答えて良いのかわからなかった。

「もし、私とお母さまとの折り合いが悪くなったら、朝岡さんは、どちらの味方になりますか?」

「どちらも私にとっては大切な人です。一方的にどちらかの味方になるということは出来ません。でも、どうしても同居が難しくなったとき、私には離婚という選択肢はありません。その時は母を弟のところへやるか、弟のところが無理なら母を施設に預けます」

亜由美さんの目が涙でいっぱいになってきた。

「その言葉で充分です。あなたの大切なお母さまを、施設に預けるようなことがないよう努めます。だから朝岡さん、佑真の父親になってください」

「佑真君の父親になることはもちろんですが、亜由美さん、私はあなたを私の妻にしたいです」

亜由美さんは俺のところまで歩み寄り、抱きついてきた。そして、俺の耳元で囁いた。

「これからは、タダで私の料理を食べさせてあげます」

「じゃあ、これも食べさせてください」

俺はそう言って、優しく唇を合わせた。



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