幕間のウイトラコチェ 3

 翌日の朝、カーテンの隙間からは柔らかな日差しが差し込んでいる。昨日までの熾烈な戦いを越えた、最初の朝だ。その日差しにはどこか、場違いなものと勘繰ってしまう。

 彼のスマホがけたたましくアラームを鳴らしていた。普段であればこの時間は、彼の仕事場への出勤時間であるからだ。いつもならすんなりと起き上がる彼だったが、やはりこれまでの疲労が蓄積しているのだろう、次第にその音量は上がってゆき、耳をつんざくほどのスヌーズと化した。

 これにはさすがに彼も起きた。このボロアパート、壁は案の定薄いため、隣人に騒音被害を訴えられては面倒だ、そう思うからこその行動だった。実際にはそんな心配は必要ない。そもそも彼の隣人は、住んでいるようで住んでいないからだ。彼は知らないが、その隣人はここを”愛人と密会するための拠点”として借りている。なぜ知っているかって?

 隣人の行動に興味をひかれたわたしはある日、ひっそりと魔術を使用して壁を透過して覗いた。隣人は男で、結婚もしている。こちらには仕事の都合で来たらしい。そしてここで彼の劣情を搔き立てた女がいた。男よりも十は若く、金目当てで近づいたんだろう。女と少しばかりボロ部屋で談笑した後、町のホテルへと向かう。いつものことだ。

 話しが逸れた。要約すると、彼の心配のし過ぎということだ。

 寝起きの彼はボサボサの髪をかき回すと、しばらくボーッとしていた。昨日までの事を夢かなんかだとでも思っているのだろうか?

「起きたか、小僧」

 わたしがそう声を掛けると、ビクンと体が反応して見せた。

「何を驚いている?」

「ごめん、ボーっとしてたわ」

「呆けてる暇があるなら、顔でも洗うんだな」

 彼はのそっとベッドから起き上がると、重い足取りで洗面所へと向かう。ボロアパートと言っても、室内の設備は割としっかりとしていて、風呂・トイレは別、台所に室内洗濯機置き場、そして洗面台と恵まれている。

 バシャバシャと冷たい水を顔に当て、眠気を飛ばし一日の始まりをその身に感じている。

 タオルで顔を拭くと、彼は朝食の準備を始めた。

 冷蔵庫から野菜を取り出してざく切りにする。フライパンで炒め、塩と胡椒で味をつけたところに卵を一つ。白飯と味噌汁と並べて出来上がり。

 簡単な朝食、それを頬張る彼にわたしは聞いた。

「それで、どうするか決めたか?」

 口の中のものを味噌汁で流し込んでから、彼は答えた。

「寝るまでさ、いろいろ考えたんだけど・・・・・・にだけ、このことを言っておこうと思う」

 アイツとは、彼の幼い頃からの友人である。小学校からの友人で、中学まで同じ学校に通っていた。高校は違えどその交友は続いており、とても仲が良い。

 その友人は少し、いや、かなりの変わり者だった。

 中学に上がった頃から、妙に”旅”というものにのめり込んでいて、長期休暇中には必ずどこかへと旅に行くほどだった。それも一人で。

 そんな友人だからだろう、彼が魔術の事、ゴエティアのことを打ち明ける気になったのは。

「家族はいいのか?」

 彼にも両親というのがいる。違う町に暮らしているが、大切な家族のはずだ。

「母さんたちは・・・・・・黙っておくよ。こんなこといきなり言ってもさ、頭がおかしくなったって思われるだけだろうし」

 それもそうだろうな。もはや彼は、人間の常識から外れた存在、その話には聞く耳を持たれることはないのは、一目瞭然だった。

 食事を終えた彼はボールペンと小さな紙を取り出すと、何かを書き始めた。横からそれを覗き込むと、それは正しく”遺言状”だった。

「家族には手紙一枚で済ませるつもりか?」

「まあね。その方が心配させないだろう?」

 心配、か。優しいやつだ、そう思っていたが彼の瞳は、少しだけ潤んでいた。

 言葉にはしない方がいいだろう。それは、彼の決意を乱す愚かな行為だ。

 一通り手紙をしたためると、今度はスマホを取り出した。画面を操作し、誰かに連絡を取っていた。

「よかった、会えるってさ」

 友人だろう、会えることを心から喜んでいた。

「ならば会いに行け。あの男の事だ、バカみたいにすんなり信じるだろう」

「ははは、それもそうだな」

 彼は気さくに笑って見せた。

 食器を洗い、出かける準備を始める。

 家を出る前には、したためた遺言状をテーブルに置いた。

 そして小さく「ごめん」と言うと、玄関へと向かい靴を履く。

 扉を開け、室内に光が入り込む。

 それは祝福か死への誘いか、それは誰にも分らないだろう。

 一歩前に踏み込む。扉の外へ出て、部屋の方へと振り返る。

「いってきます」

 覚悟を決めそう言うと、友人との待ち合わせ場所へと向かった―――――

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