給るホヴィロン 3

 翌日、彼はいつものように働きに出かけた。早朝の閑散とした町並みに、靴音が良く響く。車は持ってはいない、不意に能力が発動して、車ごと燃えてしまう可能性を考えた結果だ。

 職場もそれほど遠くはなく、30分ほど歩けばつく程度だ。

 職場は地元の小さなパン工場、近くを歩けばそこから焼き立てのパンの香りが漂ってくる。

 彼はそこで、主にパンを焼く仕事をしている。働き始めてほんのわずかとはいえ、彼は実によく仕事の出来る者と評されている。

 そりゃそうだろう。万が一にでも焼くのを失敗しても、急速に窯の温度を上げたり、技術的に出来ない二度焼きをしたりと、そういった不可能な処理を、彼なら出来るからだ。他人の目から見えないように、こっそりと、念じるだけである。

 まあそれでも、そう毎度それがうまく行くわけではない。彼は一度だけ、それを失敗している。ある日の仕事で、うっかり窯の温度を上げるのを忘れていた彼は、慌てて能力を使用した。どんなものにも限界はある、窯だってそうだ。急いで温度を上げなければ、それだけを考えてしまっていたばかりに、その領域を超えた。100度・・・150度・・・200度と、窯の温度は見る見るうちに上昇する。250度・・・300度・・・400度・・・彼が気づいた時には時すでに遅し、窯の制御盤はけたたましい警報音を悲鳴の如く鳴らし、中で燃えるはずの炎は、窯の出口から噴き出した。

 まあ現場は大混乱、大慌てで消防を呼ぶ彼の上司、突然の出来事にパニックになるパートのばあさん、そして、窯の前で立ち尽くす彼を引っ張り、助け出そうとする先輩。

 幸いなことに、すぐに消防車が駆けつけ、瞬く間に炎は鎮火した。窯は使い物にならなかったが、別のパン工場が使っていた古びた窯を譲り受けることで、仕事はひと月ほどで再開した。それまでの彼はというと、もう二度とこうはならないように、さらに仕事に集中するようになった。

 ん?私欲のために使っているじゃないかって?

 生憎だが、どうあっても彼は人間だ。人間とはそういうものだろう?

 この日も出勤後、残業も無く9時間の後に、その日の仕事を終えた。

 辺りは夕暮れ、赤々とした炎のような夕日の日差しを浴びつつ、彼は帰路についた。

 仕事を終えた彼の体には、焼いたパンのにおいが染みついている。

 すれちがう子供たちの中にはその匂いに気付いて、「パンのにおいがする!」なんて言っていた。

 帰路について20分、夕日もすっかり沈んでしまい、辺りは暗くなってきていた。

 途中で必ず通り抜ける公園を歩いていると、普段の見慣れた公園とは少し違っていた。

 公園には似つかわしくない噴水があるのだが、夜間でも水が流れているというのに、その時は水が止まっていた。

 回る球体遊具のグローブジャングルは、ひとりでに回っている。

 そして何より・・・・・・命の気配がしなかった。

 大抵の人間であれば本能的に誰かいると思えるはずなものだが、それを感じなかった。

 それでも彼は公園の中を抜けようと、公園の真ん中らへんまで歩いた時だった。

「止まれ、人間」

 暗闇の中、噴水の向こうから何者かの声がした。水のように透き通るような声だった。

 彼が目を凝らすと、暗闇からそれは現れた。

 なめらかな水色のローブを纏い、その表面は揺れる水面のようだった。

「な・・・・・・なんですか?」

 彼が恐る恐る聞くと、間髪入れずに言葉が返された。

「それをなぜ、お前が持っている?」

「そ、それって、なんですか?」

「それはお前らが持っていいものではない」

「いや、だから・・・・・・」

 瞬間、空気がざわついた。

「返せ」

 突如、噴水から水が吹きあがったかと思えば、上空に舞い上がった水が弾丸のようになり、彼に襲い掛かった。

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