五 暴発
その次の日の夕方、厳橿家の別荘で、同家とごく親しい人を招いた小宴が開かれた。
小宴の主賓は高房夫妻で、良房と公子も出席した。軽井沢に来ていた九重公爵夫妻、吉池子爵、高房夫人の桃子の兄の加賀侯爵夫妻、現職の内務大臣の城所氏が出席し、山本も末席に連なることを許された。
宴席は芝生の庭園にしつらえられ、料理は三笠ホテルからコックが出張して調理した。
出席者は盛夏ということで、平服であった。常望と良房は、学習院の夏の制服を着た。九重公爵は、白い薄絹の単衣に絽の羽織袴をつけ、夫人は藍色の紗の単衣であった。その他の出席者は、男性は白や薄茶の麻の背広、女性は洋装であった。
篝火が焚かれる戸外は、日没とともにひんやりとした微風が吹いて、梧桐の木の下の、一同の会する大きな食卓のテーブルクロスを揺らした。
席上、九重公爵と吉池子爵と城所氏の三人は、あたりを憚るような小声で会話を続けた。常望は、時折耳に聞こえてくる言葉から、彼らが貴族院の運営についての話をしていると察した。
加賀侯爵は、梅子と桃子を相手に、狩猟の話で夢中であった。
「ご婦人方は、ピストルが扱いやすいでしょうが、自分は銃身の長い銃で狙うのが好みです。これは、いざというときに敵を撃つための稽古になっているのですから、どんどん鳥を撃つというのは、お国のためでもあります。田畑を荒らす動物を退治しているから、百姓のためにもなります。殺生がいやという方もおられますが、そういうお方も大抵は魚や肉は召し上がるわけですから、理由にはなりませんな。」
そして加賀侯爵は、常望に向かって言った。
「あなた様ももうそろそろ、銃の稽古をされたほうがいいでしょう。先日差し上げたピストルはお試しになりましたか?よろしければ、手ほどきをいたします。そうだ、あさっての猟に初陣として出られるというのはいかがですか?」
常望は答えた。
「加賀さん、お申し出ありがたく存じます。僕は勉学中の身ですから、もうしばらくは遠慮いたします。」
「おや、梅子さんだってピストルの稽古をなさっているでしょう。ねえ。」
加賀が梅子の方を振り向いたので、梅子が答えた。
「わたくしのは、婦人用の銃身の短いピストルで、ベランダから木の幹を狙って稽古しています。わたくしの部屋に置いてございますから、わたくしが留守でも、いつでもお使いください、と申しあげているんですが・・・・」
「お母様も稽古されているのですから。あなた様はおいやとおっしゃっても、この先、軍務に就かれるようになれば、役に立つかと存じます。もっとも、自分は外人と付き合う方が性に合っていて、軍務は遠慮いたしましたので、あまり偉そうに説教もできませんかな。英国でも、イタリアでも、王家の方々と狩猟をご一緒したことがあります。」
加賀侯爵はそう言うと、はっは、はっはと、芝居の大名が立てるような笑い声を立てた。彼は、外務省に籍を置き、在外公館の経験が長いのであった。在外公館での生活は、日本とは比べられないぐらい出費がかさむので、本人か夫人が華族や財閥の一員でないと、務めるのは現実的にむずかしかった。その点、幕政時代は外様の雄藩であった加賀家は、外交官となるのにふさわしい条件を備えていた。
梅子が言った。
「外人でも、シュトルツ博士は、誘っても狩猟にはいらっしゃらないわ。なんでも、血を見ると、治療しなきゃいけない気になって、楽しめない、っておっしゃっているらしいわ。」
加賀侯爵が尋ねた。
「シュトルツ博士は軽井沢に来られているんですな。」
「今、三笠ホテルに泊まっておられるわ。お招びすればよかったわね。」
このような会話が続くなか、山本は吉池の横に席を与えられて、慣れないナイフとフォークと格闘していたが、始終無言であった。
食事が終わると、一同は屋内に席を移した。
常望は、年長者を先に屋内に入れるため、食卓にとどまっていた。山本も、ほかの客に遠慮して、食卓の傍のベンチに座って、他の客が屋内に入るのを待っていた。
常望は山本に声を掛けた。
「山本さん、ずっと黙っておられましたね。僕もあまり話しませんでしたが・・・」
「このような席にお招きを受けただけで、一生の思い出です。」
「退屈したでしょう?」
「いえ、俳句を考えていましたから、退屈はいたしません。」
「どのような俳句ができましたか?」
「そこの梧桐で蝉がたくさん鳴いていましたので・・・」
山本は、ポケットから封筒を取り出した。封筒の裏に、鉛筆でつぎのような俳句が書かれていた。
蝉時雨 星の数ほど なみだかな
常望はその文字を読み取ると、空を見上げて言った。
「なるほど。今日は霧が降りて来ないから、星がよく見えます。空から降ってくるみたいです。」
「そのとおりですね。お集りの皆様はどなたもお空をご覧にならないで、もったいないと思いました。それから、」
山本はひと呼吸置いてから、続けた。
「皆様には、笑顔がありません。」
山本はそう言うと、常望ににやりと笑ってみせた。そして彼は続けた。
「よろしければ、この封筒は献呈いたします。」
常望は、山本に笑顔を作ってみせようとこわばった表情で、受け取った封筒をポケットにしまった。
食事が終わった一同は、迎えの馬車や人力車が来るまで、しばらく思い思いに時間を過ごすことになった。九重公爵夫妻と加賀侯爵夫妻は、ブリッジの卓を囲んだ。桃子夫人はピアノでレパートリーのチャイコフスキーの「舟歌」を弾き始めた。常望は良房と公子を伴って自室に戻った。その他の出席者は、応接でコーヒーを飲んで談笑を続けたり、チェスに興じたり、図書室で書物を覗いたりした。
食堂の鳩時計が午後八時を知らせて、一同がそろそろ帰る心づもりをはじめたころ、突然、別荘内に銃声が響いた。
常望は、自室で良房と公子とハナの四人でトランプをしていた。
そこに銃声が轟くと、公子はきゃっと言って、常望にしがみついた。
良房は言った。
「今の音は銃声だ。強盗が入ったのかもしれない。」
常望は、咄嗟の判断で、手元用のランプを残して、部屋の灯を消した。
食堂では、日露戦争で陸軍中将として師団長を務めた経歴があって、修羅場に慣れた城所が、銃声に驚く一同に、命令調で言った。
「静かに。賊が入ったかもしれない。ご婦人方は食堂にいてください。そこの女中、君は電話で警察に連絡してくれ。そっちの女中は、従僕の控室に言って、全員を食堂に呼んでくれ。今から自分と加賀侯爵とで、邸内を確認します。」
城所は、食堂の暖炉の火かき棒を握ると、ランプを持った加賀侯爵と連れ立って、銃声の聞こえたあたりをめざした。軽井沢にはまだ電気が引かれておらず、廊下は暗かった。加賀侯爵はこの別荘には何度か来たことがあるので、建物の位置関係をだいたい把握していた。
二人は、廊下を進んで、別棟にある梅子の部屋の前に来た。部屋の扉は開け放たれていて、部屋には手元用のランプがついていた。
まず城所が梅子の部屋に続く附室に入った。彼はゆっくり慎重に足を運んだが、三歩ほど歩いたところで、柔らかい物に足がぶつかった。
後ろからついてきた加賀侯爵がランプをかかげると、その物体は、人間の体であった。
城所は、しゃがんでその顔を覗き込んだ。
それは山本であった。
城所は山本の首筋に手を当てた。山本はこと切れていた。
床にはおびただしい血痕があった。山本の体のそばには、狩猟用のピストルが落ちていた。
「加賀侯、これは末席に座っていた若者ですな。」
「吉池子爵の秘書と聞いています。」
「銃声はこのピストルでまずまちがいないですな。」
「まちがいないでしょう。」
「賊が撃ったのであれば、まだ邸内に潜んでいるかもしれません。もう少し建物を調べましょう。」
二人は梅子の部屋の奥まで確認した。ついで廊下に戻ると、常望の部屋に入った。
彼らは常望たち四人が無事そこにいることを確認した。
常望が尋ねた。
「何事かありましたか?」
城所が答えた。
「閣下、末席に座っていた若者が、梅子様の部屋の手前の附室で死んでおりました。」
常望は、さっと血の気が引くのを感じた。彼は、心中に、昼間山本が口にしていた「心中」という言葉を思い出していた。
「倒れていたのは山本さんだけですか?母は?」
加賀侯爵が答えた。
「梅子さんは部屋にはいらっしゃらなかった。」
急に城所が声を低めて言った。
「しっ!静かに。廊下で物音が聞こえる。誰か歩いている人がいる。」
その足音は、少しずつ近く聞こえるようになり、やがて常望の部屋の前で止まると、扉をノックした。
城所は火かき棒で身構えた。
ノックした人物は、つぎのように部屋の中に呼び掛けた。
「常望さん、そこにいるのか?」
その声は男性の声であった。
常望が答えた。
「はい。高房公爵でいらっしゃいますね。」
「そうだ。」
城所が扉を開けると、そこには高房と梅子とが立っていた。城所はただちに火かき棒を体の横に下げると、言った。
「閣下と梅子様、ご無事でいらっしゃいましたか。」
高房が言った。
「庭で星を見ていたら、急に大きな音がしたので、心配して、とりあえず子供たちのところと思って、常望さんの部屋に来たんだ。」
梅子が言った。
「わたくしも、シャンパーニュを頂きすぎて、気分が少し悪くなったので、外で風にあたっていたの。大きな音がして、離れに戻ろうとしたときに、高房さんと出会って、ここに来たのよ。何があったの?」
城所が言った。
「吉池子爵の秘書が、こともあろうに、梅子様のお部屋の手前の附室で、倒れておりました。」
梅子は、城所の話を聞くと、顔を両方の掌で覆って言った。
「まあ、なんてこと、どうしましょう・・・」
城所が言った。
「まだ建物に賊が残っているかもしれません。とりあえず、お二人はこの部屋にいらしてください。」
城所と加賀侯爵は、建物の中をくまなく点検したが、賊らしい者の姿はなかった。
彼らが食堂に戻ると、警察官が五名ほど駆けつけていた。
城所は手短に警察官に事情を説明した。警察官は、城所が内務大臣であり警察の長であることを知っていた。
「大臣閣下、とりあえず本官ほか五名は、皆さまの護衛にあたります。」
城所は、考えるところがあり、警察官につぎのように指示した。
「三人の公爵閣下がご臨席である。通常の事件ではないので、貴官らは独断で動かず、すべて自分の指示に従え。」
そして城所は、家令の林に命じた。
「三笠ホテルに逗留のシュトルツ博士に、深草公爵閣下ご臨席の会合の最中、銃創の患者が発生したと言って、往診をお願いしてほしい。」
間もなく地元の警察署長がさらに十人ほどの警察官を従えて到着したので、城所は言った。
「本日臨席の方々は国家枢要の方々であり、極めて微妙に取り扱うべき案件である。自分が全体の指揮をとる。たとえ貴官らの上司の照会といえども、内務大臣である自分の許可なく報告してはならない。」
城所は食堂の一同に向かって言った。
「まことに憂慮すべき事件が起こりました。皆さまお疲れでしょうが、もう一時間ほど、安全を確認するために、この場に待機してください。それからはお帰りいただいてさしつかえございません。」
城所は家令の林に、警察官を二名連れて常望の部屋に行き、人々を食堂に案内するように命じた。
シュトルツ博士が到着すると、城所は警察署長を伴い梅子の部屋に行き、部屋の灯をつけさせた。
「博士、死因は銃創とみて間違いないですね。」
「そのとおりです。ピストルの弾が心臓を貫通しています。」
「これは他殺ですか?ピストルの暴発ですか?」
シュトルツ博士は、上流階級の顧客が多く、この世界に必要な勘がよく働いた。彼は即座に、つぎのように答えた。
「ピストルを握っていれば、ピストルの暴発か自殺でしょう。握っていなければ、自分には判断できません。ピストルを握っていなくても、本人が撃ったピストルを取り落とすこともあります。」
城所は、うんと頷いて言った。
「ピストルは遺体の至近の場所に落ちていたので、本人が取り落したものと思料される。署長、本件は暴発事故として、処理を行え。」
署長は城所内務大臣に敬礼して、
「ご命令のとおり、暴発事故として処理いたします。」
と答えた。
城所は食堂に戻ると、一同に言った。
「山本保君は、不幸にもピストルの暴発で亡くなりました。一発の銃弾が心臓を打ち抜いており、即死であったと断定されます。警察は暴発事故として処理します。梅子様、ピストルは警察がお預かりしますので、ご了承ください。皆さま、お疲れ様でした。もうお引き取りあそばしてさしつかえございません。」
常望は、城所のこの宣言を聞いて、紙のように白かった母の梅子の表情に、赤みがさしたことに気が付いた。高房は、この宣言を聞き終わるなり、ただちに椅子から立ち上がって、妻子を促して車寄せに向かった。
常望は立場上、玄関で客を送らなければならなかった。彼は家令の林と相談し、帰って行く客のひとりひとりに、つぎのように短く挨拶した。
「本日はとんだことになりましたが、どうか悪しからずおぼしめされますよう、お願い申しあげます。」
帰って行く客は、いずれも社交界の人に戻って、事故だからいたしかたない、閣下も梅子様もお疲れが出ませんように、といった挨拶を手短に返して、車中の人となった。
吉池子爵と城所は、ほかの客が帰った後も、厳橿家別荘に残った。
「城所さん、山本は、自殺するような様子はなかったので、暴発事故とうかがって納得いたしました。おおかた、ピストルを初めて触ったんでしょう。」
「事故ですから、深草公爵閣下にも皆さまにも疵のつくようなことはございません。自分が居合わせて、本当によかったです。」
「どうです。私の旅館に立ち寄られて、飲みなおしませんか?」
「それはまことに結構。今夜はそちらの旅館に泊まらせていただこうかな?」
「部屋を用意させましょう。」
二人は連れ立って車寄せで人力車に乗って帰って行った。
食堂には、梅子と常望の二人が残った。
常望が言った。
「お母様、とんだことになりました。」
梅子は、ひどくやつれて見えた。
「わたくしは疲れました。もう休みます。」
彼女はそう言うと、女中に命じて客用の部屋に布団を用意させて、食堂から退出した。
常望は、事件ですっかり頭の中が興奮してしまって、とてもすぐに寝付くことができなかった。そこで、自分の目で出来事を確かめようと、まだ警察官が番をしている梅子の部屋に行った。
すでに山本青年の遺体は運び去られ、床の血痕はきれいに拭い去られていた。窓の外からは、秋の虫としては真っ先に活動を始める鉦叩きの音が響いてきた。
つぎに常望は、山本青年が泊まっていた客室に行ってみた。
彼が部屋に入って灯をつけると、山本青年の荷物は警察に持って行かれた後で、畳敷きの部屋はがらんとしていた。しかし、文机の下に、彼は見覚えのあるノートを発見した。それは山本青年の小説の原稿であった。
彼が原稿を開くと、山本青年と最後に会ったときから、ずいぶん書き進まれていた。
続きはつぎのようなものであった。
大病院の院長夫人の珠子は、山岡との関係を断ち切ることができず、息子が山岡の子であって夫の中里博士の子ではないことに罪悪感を持っていた。彼女は秘密を抱えていることに耐えきれなくなっていた。山岡は、留学から帰った後、医局で助教授の地位が待っていると信じていたが、中里博士が医学会に工作を行ってその邪魔をしたことから、医局に居づらくなり、かといって独立の病院を開く元手はなく、鬱々と毎日を過ごしていた。珠子は、夫が上海の学会に出張している半月の間、疲れ切った神経を湯治で癒すために、伊香保温泉に逗留することとなる。珠子は、孤独に耐えかねて、山岡に旅館まで訪ねて来るように手紙を書く。はたして、山岡が旅館に訪ねて来る。珠子は、山岡に心中を持ち掛け、山岡は承諾する。文章は美文調で次のように続く。
「折しも秋はたけなはの、もみぢの道を踏み行きて、鹿ぞなくなる水澤の、さらに奥へと彷徨へる、二人に交はす言葉なく、心にかかる時雨雲、互いに冷ゆる手を握り、つたなき定めの道行きに、あの世の幸を願ふこそ、浅墓なれどあはれなれ。」
そして、二人は榛名湖へ登る道中の藪の中で、珠子が持参した毒薬をあおってこと切れる。
常望は、ほぼ完成したと思われるこの小説の結末まで読み終わって。考え込んだ。
彼は思った。山本青年は、母の梅子に心中を持ち掛けられていたのではないか?
でも、なぜ山本青年だけが死んだのだろうか?
常望は、もっと不思議なことに思い当たった。高房は、普段、機械やスポーツには造詣が深い一方で、星に興味を持つようには思われないのに、その高房が、なぜ星を見るために独りで戸外にいたのか?
山本青年は梅子の部屋にピストルがあることを、先ほどの夕食の席での梅子の発言から、知っていたのかもしれず、自分でピストルを取りにいったのかもしれない。あるいは、ピストルは梅子が取り出して来たのかもしれない。
それにしても、大勢が別荘にいる時を選んで、心中をするというようなことが、ありうるのか?
彼の胸の内には、このような疑問が矢継ぎ早に湧き起こった。
そして常望は思った。山本青年が死んだことについて、本日の出席者一同にとっては、迷惑な事態ではあったが、誰も山本青年の死を悼む様子がなかった。そのことは自分の住んでいるこの世界では、よくあることだ。誰もが体面と、周りの者の定めた日程との中で、努めて予定外の物事を避けて、予定の通りにこなしてゆく生活が当たり前だからだ。しかし、自分としては、自分と話が合いそうな山本青年が死んでしまったことは、自分としてはとても悲しい。いったい、本当のところ、何が起こったのか?自分は誰かを警察に捕まえてもらいたいわけではない。ただ、本当のところをはっきりと自分限りで認識することが、山本青年への供養になる気がする・・・
そして、常望は、本当のところがはっきりするのを待ったうえで、山本青年の遺作を出版したいと思った。
その時、ノートから一枚の便箋が床に落ちた。常望が拾って読んでみると、つぎのように仮名文字ばかりで歌が一首、ペンでしたためられていた。
ゆふやみに きゆるさだめの くもなれど いまこのときぞ あけにこがれむ
歌の脇に、鉛筆で漢字を使って「夕闇に 消ゆる定めの 雲なれど 今この時ぞ 朱に焦がれむ」と付記してあった。
常望は、鉛筆の筆跡は母のものであるが、ペンの筆跡は母のものではないと思った。彼は、ペンの筆跡はどこかで見た覚えがあったが、思い出せなかった。彼は、便箋は、ごく上質の和紙であり、普通には山本青年が自身のために購入するような品物ではないことにも気づいた。彼は、この便箋が艶書であることは、明白だと思った。
常望は自室に戻ると、深夜にも関わらず、自分の手元に溜まっていた来信をひとつひとつ取り出して、先ほどの便箋の筆跡と比べて行った。彼は、その便箋は女性からのものと思ったので、女性の来信ばかりを調べていたが、筆跡の似ているものはなかった。そこで、念のため男性の来信も比べてみることにした。
やがて、常望は、
「あっ」
と声を上げた。
その筆跡は、高房のものと酷似していた。
常望は、男性の高房が同性の山本青年に艶書を出した可能性を考えた。彼は、男性同士の恋愛ということは、まま耳にしていたので、その可能性は排除できないと思った。
彼は考えた。高房が山本青年には今日が初対面であったはずだ。少なくとも、山本青年が軽井沢にいるときはこの別荘にいるか、自分たちと外出しているかであったから、彼か高房に軽井沢で面会する機会はなかったはずだ。それでは、東京で面識があった可能性はないか?いや、高房は政治向きのことからは隔離された身の上であり、吉池子爵とも社交の席上で顔を知っている程度であろう。よしんば山本青年が吉池子爵の使いで高房のもとを訪ねたとしても、常識的には使用人が対応するはずだ。
では、この便箋は誰に宛てられたものか?
常望は、この便箋は、高房から梅子に宛てられたものであろうと結論づけた。山本青年がなぜこの便箋を入手したかはわからないが、少なくとも、山本青年は、自分のほかにこのような便箋を梅子に送るような男性がいることを知ったことは、まちがいなかった。
彼の頭の中には、かつて小説で読んだ、三角関係の構図が描かれていた。そこで、彼はつぎのように複数の仮説を組み立てた。
ひとつは、山本青年が梅子と心中の段取りを話し合っているところに、高房が来合せて、制止しているうちに、ピストルが暴発した、ないし高房が撃った、という仮説である。彼は、宴席で大勢が集まっている最中に心中するはずはないので、心中の段取りを話し合っていたのであろうと思った。
もうひとつは、心中ではなくて、高房と山本青年が梅子を巡って口論になって、山本青年がピストルを持ち出して暴発した、ないし高房が撃った、という仮説である。
常望は、このように仮説を立てたが、そのうちのどれが真実であったかは、決め手がないことに気付いた。もしも心中の失敗であったとすれば、梅子が後を追う可能性があったが、ピストルは別荘には一丁しかなかったはずであり、それは警察がすでに預かって持って行ったので、常望は、この夜中に梅子の無事を確認することは控えておくことにした。すでに夜明けが近く、窓の外はほの白くなり、野鳥のさえずりが始まっていた。彼はため息を一つついて、推理をそこで一旦打ち切ることにした。
朝食はいつもの通り、午前七時に食堂で供され、常望は母の梅子と向かい合って洋食の朝食を摂った。
常望が言った。
「お母様は昨晩はお休みになれましたか?」
梅子は、何事もなかったかのように、にっこりと笑って答えた。
「すっかり疲れたので、かえってよく休めました。梧桐さん、あなたは?」
梅子は常望をお印の名で呼んでこのように尋ねた。常望は答えた。
「僕は明け方までよく眠れませんでした。」
「あら、梧桐さんにしては珍しいわね。」
梅子はほほと笑った。常望は、梅子が普段よりも機嫌がよく見えることに、一抹の不審を抱いた。
「梧桐さん、今日は予定通り東京にお帰り遊ばしてください。」
常望は、自分が今日は東京に帰る予定になっていることを忘れていた。
「そうでした。荷物をまとめなくてはなりません。」
「この別荘は、もう手放しましょうね。」
「その方がよいかもしれません。自分にはこだわりはありません。別荘を持つより、ホテルに泊まる方がよろしいかもしれません。」
常望は、京都に住んでいるときに、祖母のイトが、
「屋敷いうものは、旅館を一軒持って、ぎょうさんに雇い人を抱えて、馬車まで置いて、それをお客なしにやってゆくようなもんで、よろず物入りなもんどす。」
とよく言っていたのを思い出したのであった。
梅子は、常望の答えには気を留める様子がなく、つぎのように言った。
「梧桐さんはお歳のわりに大人びてしっかりしているから、安心しています。わたくし、近々もう一度欧州に出かけたいと思っています。九重のおじい様のご了解がとれましたらば、秋に出発します。」
「そうですか。僕もそのように心得ておきます。」
二人の会話はそこで途切れた。
食後の紅茶を飲み終わると、梅子は珍しく常望に手を伸ばして、彼の頬を軽く触った。
「わたくしは、今日はもうお目にかかることはございません。お気をつけて東京にお帰り遊ばしますよう。」
「お母様もお気をつけて。」
常望はかすかな違和感を抱いて、食堂を後にした。しかし、彼は、その違和感を、敢えて突き詰める気にはならなかった。それは、梅子は彼に懸念を抱かせる余地のないほど、見たところは昨晩の事件などなかったかのように、普段にもまして機嫌がうるわしく見えたからであった。そして、常望は、そういえば昨日の朝も、梅子がやはり上機嫌であったことも思い出していた。
東京に戻った常望は、自分の鞄から二体の人形を自分のベッドの脇の定位置に戻して、自分の日常に戻った。
彼は、人形につぎのように話しかけた。
「おまえたちは、人間とちがって、いなくなったりしないから好きなんだ。生きた人間は、みんな自分を置いてどこかに行ってしまうのだから。」
次の日の夜の八時頃、女中のハナが、夕食を終えて学校の宿題に取り組んでいる常望を呼びに来た。
「軽井沢の林から電話が入っています。直接お伝えしたいと申しています。」
常望が電話に出ると、林の動顚した声が聞こえた。
「実は、本日の午後、梅子様は高房公爵ご夫妻と、狩猟にお出でになったのですが、お帰りになるはずの夕方になっても、お馬車までお戻りがございません。それで、実は、」
受話器の向こうの林の息がはずんでいた。
「これは内密にと深草公爵家から仰せつかっているのですが、高房様もお戻りがないのです。梅子様の姿が見当たらないので、高房様が、自分が探すからと仰せになって、桃子様は先にお馬車に戻られていたのですが、二時間経ってもお二方がお戻り遊ばさなかったそうでございます。現在、警察官が山狩りをしています。」
常望はそれを聞いて、しまったと思った。彼は、三角関係の存在までは気が付いていたのであったが、心中の当事者を完全に読み違えていたのではないかと思った。心中の当事者は、高房と梅子で、二人は前日に山本青年の制止で予定通りには成し遂げなかった心中を実行したのではないか、と思った。彼は、別荘内にはもうピストルもないことだからと思って、自分が予定通り帰京してしまったことを後悔した。
常望は努めて冷静な声で、林に言った。
「わかった。僕は明日朝の列車で軽井沢に行くから。」
「承りました。自分は、梅子様はもとより、高房公爵の身に万一のことがございますと、お国に関わることですので、雇い人の口から洩れたりしないよう、万全を尽くしております。」
「九重のおじい様には知らせたのか?」
「もちろんでございます。城所大臣が自ら山狩りの指揮を執っておられます。しかし、夜分で暗くなりましたので、今夜のところは山狩りは一旦終了として、あす日の出から再開する予定です。新たな情報が入り次第、お電話いたします。」
常望は体から血の引く思いであった。東京にいる自分に何もできないことに苛立ちをおぼえながら、彼は考えた。高房と梅子は、何か催しがある時にしか、会うことができない身分だ。別荘で夕食会があった後、二人はその数少ない機会を利用して、心中の段取りを話し合っていたのだろう。そこにたまたま山本青年が居合わせて、話を聞いてしまい、たぶん制止したのだろう。そこで押し問答の挙句、銃の扱いに慣れた高房が一発で山本青年を射殺したのではないか?
夜九時すぎに、林から再び電話が入った。
「お喜びください。お二人は無事でございました。お二人で歩いて馬車のあった場所にお戻り遊ばしたのです。道に迷われたのだとおっしゃっておられます。お疲れのご様子ですが、お二人ともすでに三笠ホテルにお入りになりました。」
「そうか。それはよかった。城所大臣には、常望が厚く礼を申していたと伝えてほしい。林の方で、後日何か手厚く礼を差し上げてほしい。僕が軽井沢に行く必要はないと思うが、どうか?」
「お出まし遊ばさなくてさしつかえないものと存じあげます。」
常望は、受話器を置くと、ハナに高房と梅子の無事を伝えた。ハナは九時の電話以降、二人の無事を祈って、観音経を小声で唱え続けていたが、無事の知らせに、その場に跪いて、「清水の観音様、ありがとうございます、おおきに、ありがとうございます。」
と泣きながらお礼を言った。
常望は思った。二人は本当に道に迷ったのであろうか。それであれば、自分の推測は振り出しに戻ることになる。
二人は心中しようとして、死にきれなかったのではないか。
しかし、常望は、よく考えると、二人に今更心中するような動機があったのか、という疑問が湧き起こった。二人とも、それぞれ別の伴侶と結婚して、すでに常望の年齢とほぼ同じ年数は経過していた。常望は、時間が経って冷静になるにつれて、自分の思い過ごしであったような気がしてきた。彼は深夜までベッドの中で、沈黙して並んでいる人形を隣にして、考え続けた。
常望には山本青年の事件の真相のわからないまま、夏は終わり、梅子も帰京した。
常望も梅子もお互いに軽井沢での話は一切せず、それ以前と変わらない日常が戻った。
九月になると、新聞に、吉池子爵が東欧のある君主国に駐在する公使に任ぜられたことが報道された。巷では、九重公爵が吉池子爵を政界から遠ざけるために工作したのではと噂され、一部の報道はそのような話を、根拠のない想像を交えて書き立てた。
常望は、この人事が軽井沢の事件とつながっているのではないかと思った。彼は、吉池子爵が山本を梅子に故意に近づけたことが、九重のおじい様の知るところになったのではないかと直感した。むろん、それを裏付ける証拠は何もなかった。
九月の彼岸過ぎに、九重公爵は親戚を集めて煎茶の会を催した。梅子と常望もこの会に招かれた。
煎茶の席には、九重家の数代前の当主が陶淵明の漢詩から「菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る」という句を採って隷書で揮毫した掛け軸が掛けられていた。煎茶道の宗匠が、煎茶道具の飾られた紫檀の華奢な棚を前にして煎茶の点前を披露し、江戸時代の清水焼の名工の青木木米作という、小ぶりな彩色のある茶碗に、極上の宇治の煎茶を大ぶりの橙ほどの大きさの紫泥の急須から注いで、一同に供した。江戸時代に流行した中国趣味に沿った席の飾りは、明治も四十年を過ぎたその頃には珍しいものになっていた。
煎茶席が終わると、一同は洋間に移動した。
九重家の一族は、煙草の名産地を領地としていたかつての外様の大大名の血を引く者が多いせいか、男も女も煙草を嗜む者が多く、室内はたちまち葉巻と刻み煙草の煙が立ち込めた。
九重公爵は煙草が苦手であった。彼は常望を促して、二人で庭園に出た。
作庭にも一家言ある九重公爵は、肝煎りの庭園を常望に見せて歩いた。常望は、九重公爵のすぐ次について、細い飛び石の道を歩いて行った。
九重公爵は言った。
「梧桐さん、そこで休みましょう。」
二人は池を見下ろす築山に登ると、そこにしつらえられた腰掛に座った。
常望は、九重公爵と二人で話す滅多にないこの機会を捉えて、尋ねてみた。
「おじい様、軽井沢ではいろいろございましたが、お疲れにはなりませんでしたでしょうか?」
「ああ、静養にはなりませんでしたな。城所君にはずいぶん世話になってしまった。全く、吉池が要らないことをしたもんだから。とんだプーシキンになってしまって・・・」
九重公爵はそう言いかけて、その言葉の次を飲み込んだ。
常望は聞き逃さなかった。
「プーシキンとおっしゃいますと、あの決闘で亡くなったロシアの詩人ですか?」
九重公爵は答えなかった。
「おじい様、あれは決闘だったんですね。」
九重公爵は、しばらく黙っていた。
常望は、九重公爵の口を開くために、思い切ってつぎのように尋ねた。
「よい機会ですから、お尋ねします。多分、お尋ねしないと、おじい様は事件の真相をお話になりにくいでしょう・・・僕は、深草公爵の良房さんや公子さんの兄に当たるのですね。」
九重公爵は、その質問を意外に思うような様子もなく、当然のことを尋ねられたかのように、落ち着き払って答えた。
「梧桐さんには、いずれお伝えしなくてはならないと思っていたところですが、いつどのようにお話すればよいのかと思っていたところです。ご自分でそこまでお気づきであれば、取り乱される気遣いもありますまい。お気づきの通りです。」
しばらく二人は沈黙した。
九重公爵邸にほど近い目白駅の方から、機関車の汽笛が聞こえた。二人は、それを合図とするかのように、腰掛から立ち上がると、散策を再開した。九重公爵が先に歩き、常望はその後をついて歩いた、
常望が言った。
「山本さんは、高房公爵がお母様に宛てた和歌を持っていました。」
九重公爵は、自分の孫ではあるが、宮中席次が自分より上である常望に、努めて丁寧な言葉遣いを心がけながら言った。
「梧桐さんの勘が鋭いのは、亡くなった貞望公譲りですな。何でもご存知のようだ。あの事件の晩、帰り際に城所君が、実のところ、落ちていたピストルは二丁だったと耳打ちしてくれたので、梅子を巡って男二人が決闘したとわかったのです。」
九重公爵は、事件の後になって、城所氏から自分の聞いた話をつぎのように要約して話した。
城所氏は、山本青年の遺体を発見した時に、同行していた加賀侯爵がピストルに気付かないうちに、咄嗟に二丁のうち、山本青年からより離れた方のピストルを拾い上げて、自分のポケットに入れた。それからしばらくして、彼は、山本青年の命を奪った弾丸が、その遺体の傍に残されているピストルのものと一致しないとすると、まずいことになると気付いた。そこで、彼はシュトルツ博士に、山本青年の傷口から弾丸を取り出させて、証拠品として自分が受け取り、密かに自分のポケットのピストルの弾丸とすり替えたのであった。
九重公爵は話を続けた。
「あの後、高房公爵と梅子とが道に迷って、山狩りをかけた時は、二人が心中でもしないかと随分気を揉んだのですが、あれは本当に迷子になったらしいのです。迷子の事件の翌日に、自分は梅子に、山本の事件は決闘だったのだろうと持ち掛けてみたところ、梅子はあっさりと何もかも自分に話しました。山本は梅子に本気だったんですな。」
九重公爵は、梅子から聞いた話に、自分の解釈と脚色を加えて、つぎのように話した。
その晩、山本青年を梅子の部屋に呼び出したのは高房であった。
山本青年は、前の日の昼過ぎに梅子の部屋に呼ばれた帰りに、部屋の附室で、和歌をしたためた和紙を拾った。山本青年は、その和紙は、明らかにある男性から、梅子に送った艶書であると思った。
山本青年は、夜になって梅子に再び呼び出された時に、彼女に尋ねた。
「梅子様にお心を寄せておられる方が、ほかにいらっしゃるのですか?」
梅子は答えた。
「『ほかに』って、あなたとのことのほかに、という意味?それでは、あなたとわたくしの間に何かあるみたいで、穏やかな話ではないわ。」
「自分は、梅子様に憧れています。それは偽りではないのです。自分はその方の足元にも及ばないつまらない者ですが、一人の人間として、本当に梅子様をお慕いしています。」
「山本君、そんなこと、言わないで・・・つらくなってしまうからって、わたくしは前から言っているでしょう!」
「梅子様は、その方のことをお好きなんですね。」
「・・・あなたに答える必要はないわ。」
「自分はその方の身代わりですね。自分は、それでもいいのです。こうして梅子様のお傍に来させていただくだけでいいのです。」
「もちろん、あなたは身代わりよ。でも、だんだんと、身代わりが身代わりでなくなってくるような気がするの。それはとてもつらいわ。山本君、もうこの話はわたくしの前ではしないで頂戴。」
事件のあった日、高房は厳橿家の別荘に到着してすぐに、桃子が子供たちと庭に出ている隙を見計らって、梅子と二人きりで立ち話をした。
梅子は、山本青年が高房の存在に気付き始めていることを高房に伝えた。
高房はかねてから、山本という男が頻繁に梅子を訪ねて来ることを、使用人からの伝聞で知っていた。高房は、梅子と山本青年との関係を薄々疑っていて、今日の機会に梅子に問い質そうと思っていたところであった。ところが、梅子の方から、山本青年が自分たちの関係に気が付く可能性を相談してきたのであった。高房は自分の顔が怒りで紅潮するのを覚えた。
二人は、人目を避けての立ち話を長く続けるわけには行かなかった。高房は梅子に短くつぎのように言った。
「自分は、その山本という男と話がしたい。夕食会の後、高房が話したいことがあるからと伝えて、あなたの部屋に呼び出してほしい。」
夕食会の後、予め知らせてあった通り、山本青年は梅子の部屋に来た。
部屋では、高房と梅子とが山本を待っていた。
ソファーに座っている高房と梅子の前に、山本青年が兵士のように姿勢を正して直立した。背の高い山本青年は、あたかも二人を見下ろすような形になった。
高房が言った。
「君が山本君だな。」
山本青年が直立不動の姿勢で、兵士が上官に奉答するように、自分の姓名を告げようとするのを、高房は手で制して、彼に言った。
「君は、吉池子爵の差し金で梅子さんのところに上がり込んだのであろう。これ以上梅子さんを誘惑するようなことは、やめてもらいたい。」
山本青年は直立不動の姿勢のままで言った。
「閣下、自分は、本気であります。」
高房ははっきりと言った。
「自分は、君に身を引けと言っているのだ。」
「自分から引くつもりはございません。梅子様に遠ざけられれば、いたしかたないと存じます。それでも、自分の気持ちには変わりはありません。閣下の御意にそむくことは重々承知していますが、覚悟の上で御前に参上いたしました。」
高房は、他人から自分に面と向かって逆らわれたのは、生まれてこの方初めてのことであった。いつもは、彼がこうしろという意向を口にすると、周りの人は、たとえ最終的には意向に沿い難い場合であっても、少なくともその場では、するすると事なきように、意向に沿うかのように返事をするのが常であった。彼は、山本青年の言葉を聞いて、かつて経験したことのない苛立ちを覚えた。
高房は梅子に言った。
「自分と山本君と二人で話をしたいから、梅子さんは部屋の外に出てほしい。」
梅子は、話の雲行きが気懸りであったが、部屋から附室を抜けて廊下に出た。
高房は山本青年に言った。
「自分は、君の出現で、自分の誇りに傷がついたと思っている。悪いのは君であって、梅子さんではない。」
山本青年は答えた。
「自分は悪いことは何もしておりません。それは閣下と同じであります。」
高房はその答えに激高し、つぎのように口走った。
「君は、この高房と同列のつもりか。よし、わかった。梅子さんにどちらを選ぶかを尋ねるには及ばない。ここは男らしく決闘で決着しよう。」
山本青年はまるでこのような成り行きを予想していたかのように、落ち着いた様子で答えた。
「わかりました。決闘をお受けします。」
高房は梅子のベッドの脇机にあったピストルを山本青年に渡し、自分は上着の胸ポケットあら自分がいつも護身用に保持しているピストルを取り出した。
そして、高房は、梅子の部屋と附室との間の扉の位置から、それぞれが反対を向いて、歩数を二人同時に唱えながら五歩歩いたところで撃ち合うことで、山本青年に異存がないか確かめると、彼はこれを承諾した。
九重公爵は常望にこのように経緯を語ってから、つぎのように続けた。
「山本はピストルなどその時まで触ったこともなかったはずで、勝負はあっさりつきました。プーシキンの事件と違うのは、決闘を申し込んだのは文人の方ではなかったというところですな。
深草公爵は、鳥獣は銃でしばしばお撃ちになりますが、人間をお撃ちになったのは初めてで、やはり山本が死んだのには動揺されたもののようです。梅子によれば、深草公爵は、事件が決闘であったことは、仰せになりかねたとのことでした。
梅子から、深草公爵が自分のピストルを現場に残されたことを気にしておられるとうかがったので、自分から城所君にその件を改めて尋ねて、すでに然るべく処理がなされていてお心を悩ますには及ばない旨を聞き出して、梅子を通じてお伝え申しあげました。深草公爵は、ご自分のご懸念は、あのピストルがフランスでナポレオン皇帝の子孫から贈られたものなので、紛失すると外交関係に問題が生じないかということであったが、城所が所持しているのであれば、そのまま留め置いてさしつかえない、と仰せになったそうです。」
常望は言った。
「おじい様、よく教えてくださいました。」
「もちろん、ここだけの話です。暴発事故として処理は終わっています。」
「わかっております。僕は、山本さんが気の毒に思えます。彼は小説を一篇残したのですが、出版してやりたいと思っています。時代がかった心中の物語です。題名が書かれていなかったので、自分は『時雨雲』という題名をつけました。われわれの内情を暴露するような内容のものではなくて、美しい人々が美しく死んでゆく、ただそれだけの話です。」
「察するに、今どきの学生が好む、浪曲のようなものですな。そういう小説であれば、出版してもさしつかえないでしょう。」
それから、九重公爵と常望はまたしばらく庭園の池の畔を歩いた。そして、飛び石伝いに池の中島に上がったところで、九重公爵は立ち止まって、常望につぎのように言った。
「梧桐さんは実に勘が鋭くて頭がよく回られます。将来は、ぜひ貴族院を支えていただきたい。中学を終えられましたら、軍務に就かれるのではなくて、高等学校から大学へ進まれて、一旦はいずれかの役所で文官を経験されるのがよろしいと考えています。」
常望は、九重公爵の希望は、誰にも抗えないものであることを承知していた。
「それが僕の定めであれば、異論はございません。」
その時、庭園に出てきた他の一族の人々が、二人の姿に気が付いて近づいて来たので、会話はこれで打ち切られた。
その日から間もなくして、新聞に、
「内務大臣城所善之進閣下、伯爵に叙せらる」
という報道が掲載された。
十一月には、陸軍に軍籍のあった高房は、台湾総督府陸軍部参謀に転任することになって、家族を東京に置いて、単身で台北に赴任した。
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