四 舟遊び



 梅子は、牡丹鑑賞の園遊会が無事終わってほどなくして、軽井沢に別荘を購入した。そして、七月になると、ほかの上流階級の人々と同様に、軽井沢に本拠を移し、用事のあるたびに東京に出て来るという生活に入った。常望は、学校が夏休みに入ると、梅子の言いつけ通り、九重公爵家の逗子の別荘で海水浴をして過ごしていた。

 八月に入って、逗子の別荘に滞在する常望に、梅子から、軽井沢に来るように連絡があった。深草公爵の一家が軽井沢に行くことになったので、一家と同行するようにとのことであった。

 常望は女中のハナを伴って東京に戻り、上野駅の貴賓室で深草公爵一家と合流した。そして一同は急行の一等車に乗って、軽井沢に向かった。一等車は深草公爵一行のために一両貸切であった。

 車中では、常望は良房と公子とトランプで遊んだ。高房は横浜に船便で一か月以上遅れて届くフランスの新聞を読み、夫人の桃子は洋装の写真の掲載されたやはり舶来の雑誌を読んだ。ハナは二等車両に乗っていて、時々常望の世話をするために一等車両に来たが、一同のなかで彼女一人が和装であった。

昼時になると、深草公爵家の女中がサンドイッチの入った籠を一等車に運んだ。

 桃子が高房に言った。

「パンは、うちが音羽に引っ越してから、いいものが簡単に手に入るようになったわね。関口の天主教の教会で、外国人向けに焼いているのが、日本で今手に入るパンでは、いちばんあちらの本物に近いわ。」

「うん、九重さんも、教会から時々取り寄せているっておっしゃっていたな。うちは歩いてすぐで、毎日女中に買いに行かせることができるから、九重さんよりも条件がいい、と言ったら、羨ましがっておられたよ。常望さんの屋敷は教会から近いから、やはりこのパンを取り寄せているんだろう?」

 常望が答えた。

「母がうちに居りますときは、いつも朝はパンですが、うちの者がどこから買ってきているのかは、自分は存じません。」

「そうか、梅子さんも毎朝パンか。うちと同じだな。」

 桃子は、高房の口から梅子の名前が出たので、高房の顔にちらっと冷たい目を向けたが、すぐに元の調子に戻って、高房に言った。

「軽井沢には、外国人向けのパン屋が開業したそうよ。麹町の方のパン屋の出店らしいわ。」

 高房は、桃子の冷たい目に気が付かないふりをして答えた。

「うちは洋食が多いから、パン屋があるのは都合がいいな。」

「ホテルでパンの用意はありますから、町場で買うことはたぶんないわ。」

 一同の乗る急行が碓氷峠を越えて軽井沢駅につくと、深草公爵の一家は馬車で三笠ホテルに入り、常望とハナは出迎えの人力車で厳橿家の別荘に向かった。

 常望を載せた人力車は、唐松林の中を抜けて、兵舎のような簡素な平屋の洋館の前で止まった。

 梅子に従って先に別荘に入っていた家令の林は、いつもの通り、影のようにぴったりと常望に付き添って、応接間へと先導した。

 梅子は先に応接間に来ていて、ソファーに座っていた。

 梅子の後ろの壁際には、背もたれのない木製の椅子があって、そこには長身で色黒の若い男が座っていた。

「梧桐さん、よく来られました。道中はいかがでした?」

「はい、高房公爵のご一族と参りましたので、楽しく道中を過ごしました。」

 常望は、母親の梅子との会話では、いつもこのように、形の上では非のつけどころのない受け答えをすらすらと行うのであった。

「こちらは、吉池子爵の書生の山本さん。わたしが軽井沢にいるものだから、吉池子爵との連絡はいつも山本さんがなさるのです。梧桐さんがお着きになる少し前に到着されました。あす夕方には東京に戻られます。そうだ、明日、雲場池へ行って、山本さんにボートを漕いでもらうといいわ。」

 梅子はそう言うと、後ろを振り向いて、山本に言った。

「ねえ、よろしいでしょ?」

 常望は、梅子の声の調子が、普段聞いたことのない、なまめかしさを帯びているのに気が付いた。しかし、彼は、梅子がたとえ山本とどうあろうとも、自分の立ち入るべきところではないと心得ていた。

 常望は、山本とハナを伴って、翌日の朝九時に別荘を出て、雲場池に向かった。

 小高い山を背にした雲場池は、朝のうちのひんやりした空気がこの時間になっても残っていた。

 雲場池には、あらかじめ三笠ホテルに準備させておいたボートが彼らを待っていた。

 ハナは、舟は苦手だからと言って同乗を辞退して、池の端で待つことになり、常望と山本の二人がボートに乗った。

 山本がボートを漕いで、岸から池の中ほどに漕ぎ出した。

「若様、ボートは初めてですか?」

「いえ、お友達の屋敷の池で乗ったことがあります。」

「ああ、お屋敷に大きな池があるんですね。お友達は大勢おられるのですか?」

「同級生ということであれば、親しくしている者が十人ほどいます。」

 それから山本はしばらく黙ってボートを漕いで、池の中ほどで手を止めた。

「若様は、どんな本を読まれるのですか?」

「まあ、人並みです。洋書も多少は読みます。」

「最近読まれた本で、気に入られたものはありますか?」

「それぞれに教えられるところがあります。」

 常望は、答えを優雅にはぐらかすと、今度は山本に尋ねた。

「今は、実際に作家の生活であったことを赤裸々に描くのがはやりですね。山本さんはどう思われますか?」

「はやりの自然主義のものは、自分は読んで楽しめることが少ないので、あまり読みません。芝居がかっていても、尾崎紅葉や泉鏡花が好きです。」

 早熟な常望は、自然主義の作品も、紅葉や鏡花の作品も、すでにいくつか読んでいた。

「山本さんは文章を書かれると聞きました。当家のありさまなど、小説に書きたくなりませんか?」 

「さしさわりがございますから、そのようなものを書くつもりはありません。」

「でも、興味があるでしょう。普通の家とはよほど変わっているから。ここは幸い周りの者がいませんから、お聞きになりたいことをお尋ねください。」

山本は、しばし言葉に窮したが、考えをめぐらせて、ようやくつぎのような質問を返した。

「それではうかがいます。公爵家であられますから、下々のようにはまいらないことは承知していますが、若様はお母様とお過ごしになる時間はあまり多くはないとお見受けします。お寂しいということはないのですか?」

「寂しいとはどういうことか、自分は研究したことがないので、わかりません。わたしの傍には、林もハナも、そのほか女中もついています。独りでいるということがありません。」

 常望は一旦言葉を切って、山本の表情を確認した。彼は、山本が自分の回答に満足していないことを表情から読み取ると、つぎのように続けた。

「あなたは、今の回答は、もっともらしいけれど、本当ではないと思っているんでしょう。それでは、自分からもお尋ねします。山本さんは、母のことをどう思われているのでしょうか?」

 山本はその質問にぎくりとして、言葉を選びながら、ぎこちなく答えた。

「梅子様は・・・政治向きのことをよく理解された、賢いお方と存じております。」

「ほら、あなただって、聞かれれば、もっともらしく答えるじゃないですか。」

 山本は、声変りしたばかりのこの少年の言葉に意表をつかれた。

「もっともらしいとおっしゃるのは、どうしてでしょう?」

「あなたは、どうして母のところに来るのですか?吉池さんのお使いだってことは、表向きの理由なんでしょう?自分は知っています。」

「知っているとおっしゃいますと?」

 常望はその質問を微笑みで優雅にはぐらかした。

「それで山本さんは楽しいですか?」

「・・・・」

「自分にわからないのは、そんなことが母やあなたが楽しいと思ってなさっているのかどうかです。そういう関係のことは、本で読んで知っていますが、それで幸せになった人の話はありません。どうしてそんなことをするのでしょう?あなたの雇い主のための間諜の仕事だからですか?」

 山本はどう答えてよいものか、しばらく沈黙して考えていたが、やがて常望の目をしっかりと見ながら言った。

「若様、信じてくださるかどうかはわかりませんが、自分は梅子様とご一緒していると、楽しいのです。吉池の言い付けで参上しているのは事実ですが、それだけが理由ではありません。自分の知らない、雲の上の方々のお話や、西洋のお話をお聞きするのは、楽しいです。自分とお話される時の梅子様が、とてもうれしそうにされるのを見るのが好きです。少なくとも、寂しくありません。」

 常望は、その言葉を聞いて、ボートの外の水面の遠くに目を遣って言った。

「山本さん、自分のことで、母から聞かれていることはありませんか?」

「梅子様からは、お小さいときには京都のおじい様のもとでお育ちになったことや、小学校に上がられてから初めて梅子様とご一緒に暮らされることになったことは、伺っています。」

「それだけですか?何か変わった子供だというような話は聞いていないですか?」

「いえ・・・ただ・・・」

「ただ?」

 山本の性格には、大人になりきっていないような正直なところがあって、差し障りがありそうな答えをはぐらかすことはできないのであった。

「ただ・・・男の子さんなのに、人形遊びを好まれるのが不思議だ、といったお話は伺いました。たくさんの人形を集めておられると伺いました。」

「やはり、聞いていたのですね。自分はちっとも恥ずかしいとは思っていません。人様にあえて言うようなことでもありませんが。

先ほどの、寂しくないかというお尋ねですが、自分には、人形たちがたくさんいて、彼らが友達です。彼らは、なんでも自分の言うことを聞きます。勝手にいなくなったりしません。だから、寂しくありません。」

 山本は、その言葉を聞いて、常望の寂しさが、自分の寂しさとは桁の違う深刻なものであることを直感した。

「山本さん、一つだけ、この家の秘密を教えましょう。それは、本当のことを隠さないと、この家では生きてゆけない、ということです。本当のことは、他人だけでなく、自分にも隠すのです。そうでないと、お家に関わり、お国に関わることになります。京都では年寄りからこのことをしっかりと教わってまいりました。」

 山本は、常望の話を聞きながら、この坊やは生まれた時から子供であることを許されないで大きくなったのだ、と思った。大人のように何もかも承知しながら、御所人形のように何も言わないでかわいらしく座っている、そのようなことは、千年以上の家累代の伝統があって初めて可能な芸当にちがいない、と思った。そう思いながら同時に、彼は背筋に冷たいものを感じていた。彼は、それは池の水面を渡って来た涼風のせいではなくて、常望の、人間離れしたといえるほどの深刻な寂しさのせいだと気が付いた。

「山本さん、ボートを岸に返してください。別荘に戻ったら、あなたの書いたものを見たい。」

 山本は、ボートを岸に向けて漕ぎながら、生まれた時から寂しさを独り抱えて生きざるを得ない運命にあるこの貴公子が、自分の書いたものを読んで、何を言うか、興味が起こるのを覚えた。

 山本は、別荘に戻ると、風呂敷包みからノートを取り出して、常望の部屋に持参した。

 常望は、事務所にあるような簡素な執務机に就いていて、机の前の、木製で背もたれのない椅子を山本に勧めた。

 常望の部屋の奥にはベッドがあって、その上にはビスクドールが二体横たわっていた。

「山本さん、自分はこういう人形を集めているのです。この子はサラと言って、スコットランド生まれでパリ育ちです。こっちの子はキャシーと言って、ロンドンの下町の出身です。もっとも、そんな生い立ちは、元々は自分が勝手に作った話ですが、今はすっかりそういう子になっていて、もう作り事とは思えません。このように横になっていると、どちらも目をつぶっていますが、」

 常望はサラと呼んでいる人形にそっと手を添えて、静かに上体を起こした。

「こうやって起きると、目が開きます。姿勢の取り方や、光の当たり方で、いろんな表情になるのを、このスケッチブックに写すのです。秋にはドイツから小型の写真機が届く予定で、今度はそちらも試してみるつもりです。屋内では光が足りないので、いろいろ工夫しなくてはと思っています。」

 山本は、常望の差し出すスケッチブックを開けてみた。

 どのページにも、まだ稚拙さが見られるもののしっかりとした筆致で、大まかな輪郭をうまくとらえた人形の姿がスケッチされていた。ある人形は腰を掛けて両足をぶらんと投げ出していた。ある人形はほかの人形の肩に頭をもたげていた。兵隊の人形同士が格闘しているような図柄もあった。どの絵も、目が活き活きとしていて、これは人形を描いた絵と言われなければ、日本や西洋の子供をモデルにした絵としか思えないものであった。

 山本が絵の一つ一つを丹念に眺めていると、やがて常望が声を掛けた。

「それで、あなたが書いたものは、持ってきましたか?」

 山本は、常望にノートを差し出した。常望は、山本の前で、そのノートを黙読し始めた。

「朝顔も萎れし夕方の路地の、奥から近づく駒下駄の音。清々と洗ひ上げたる白足袋に緋色の鹿の子の鼻緒の駒下駄の主は、本郷弓町なる中里病院の令夫人で、珠子と申し上げる。当年二十五歳、日露激戦の二百三高地に因み額高く結い上げたる髷に鼈甲の簪、江戸紫の涼やかなる紗の単衣の裾を翻しつつ、パラソルを小脇に抱え、今や電車道に華奢の歩みを進めて停車場に向かはむとするところである。」

 このように始まる山本の小説は、大病院の入り婿である中里博士が、柳橋の芸妓を愛人にして密かに神田和泉町の長屋に囲っていて、夫人の珠子は若い医学士の山岡の助けを借りてその事実を突き止めるが、珠子も山岡の親身なやさしさに魅了されて、一線を踏み外さないように日々苦悶する、という筋立てのもので、未完成であった。

 常望はノートを二十分ほどかけて走り読みすると、山本に言った。

「芝居としては、とてつもない悪漢が出てきて、中里病院を脅すとか、観客の驚くようなものを入れた方がいいでしょう。きれいな人がきれいに振舞うだけで終始しては、おもしろくありません。」

「ご指摘痛み入ります。自分でもそのように思案していたところです。」

 常望は、山本のことを、自分の周りの大人とは毛色が違って、自分の話し相手になれる人物だと思った。彼はつぎのように山本に言った。

「これからも、母を訪ねたときは、自分のところにも顔を出してください。またあなたの書いたものを見てみたい。」

「承りました。時間のようですので、本日はこれで御前を失礼いたします。」

 常望は、自分の前から辞去する人にいつもしているように、無言で頷いた。

 山本は、常望の部屋から下がって、自分にあてがわれた客間に戻ったが、今度は梅子に呼び出されて、梅子の部屋に向かった。

 山本が梅子の部屋に入ると、いつものように舶来の香水の香りが彼を出迎えた。

 梅子は言った。

「常望に会ったんでしょう。変わった子よね。人形遊びに付き合わされたんじゃない?」

「いえ、文芸にご興味をお持ちで、自分の書いたものを見たいとおおせになりましたので、ご覧に入れました。」

「ああ、あの小説ね。夫婦がお互いに相手に隠れて愛人を作っている話ね。教育には良くはないけどね。」

 梅子は、そう言いつつも、息子の教育に良いか悪いかはどうでもよいらしく、ふふっと笑った。

「あなた、今から東京に帰って、吉池さんにここで見聞きしたことを報告するのよね。それならば、吉池さんに伝えてほしいことがあるわ。」

 梅子は、再びふふっと笑った。

「山本さんとわたくしとの間には、吉池さんが想像するようないかがわしいことは、何もありません、そう伝えてほしいわ。」

 梅子は続けた。

「だって、あなたとわたくしとは、納得づくで、好き嫌い抜きで、ただ遊んでいるだけですもの。醜聞になるとすれば、それは吉池さんから漏れたということになるわ。それは吉池さんの信用に関わるでしょう。だって、吉池さんがけしかけたということも、明るみに出るんですもの。」

 山本が遠慮がちに言った。

「自分には遊びということがよくわかりません。ただ梅子様のことをお美しいと存じているだけであります。」

 その言葉を聞いて、梅子は口調を強めて言った。

「山本さん、これは遊びということにしないと、お互いつらいのよ。わたくしも、つらくなりかけています。だから、あなたもそんなことをおっしゃらないで。」

 梅子はソファーから立ち上がると、テーブルの向かいに座っている山本の膝に腰を掛けた。そして、彼女は両方の掌で山本の後頭部を包むようにして、自分の頬を山本の頬にこすりつけながら、ささやいた。

「ほら、わたくし、つらくなってしまったわ。ねえ、あなた、どうするの?どうするのよ?」

 山本は、痩せて骨ばった両腕で梅子の肩を支えながら言った。

「自分には、わかりません。自分も、つらくて仕方がありません。」

「東京に帰るの、明日にできない?」

 山本は、努めて冷静を保ちながら答えた。

「御意のとおりにいたしたいところですが、たぶん、明日が明後日と逗留が伸びてしまって、きりがなくなります。また数日後にはこちらにうかがうことになっていますから、今日のところは帰京いたします。」

「そうね。ここは遊びに徹しなきゃいけないわね。あなたも、もっと大人になって、つらくなるようなことは、もう言わないでね。」

 梅子は山本の額に軽く接吻してから、化粧の移った山本の頬をレースのハンカチで丁寧に拭うと、彼の膝を離れた。

 その翌日、常望は、三笠ホテルに滞在している良房と公子と共に、離山までハイキングに出かけた。常望は自転車での遠乗りもよいのではと一旦は思ったが、付き添うはずの女中のハナが自転車に乗れないことに気付いて早々に諦め、徒歩のハイキングとなった。

 一同は三笠ホテルに集合し、常望と良房と公子のほかに、深草公爵家の使用人の男性二名、女中三名、厳橿公爵家からは女中ハナ一名が付き添い、別に現地で雇った駕籠が三丁付き添った。

 ところが、離山の東の入り口に着く頃には、公子や女中たちは慣れない外歩きで相当に疲労していた。一同の中で、駕籠かき以外には、和装で来ているのはハナだけで、ハナは草鞋を履いて、常望の弁当を担いで参加していたが、もうすでに鼻緒から血が滲んでいて、とても山頂まで歩ける状態ではなかった。

 良房は、山頂までハイキングを続行することを希望した。彼は、使用人二名と、山頂に向かうことになった。

 常望は良房に同行を誘われたが、ハナが麓で自分のことを心配して待っているであろうことを考えて、同行を断り、公子と女中たちと一緒に、麓でしばらく時間を過ごすこととした。

 良房は言った。

「常望君がついて来ないのは残念だな。」

 常望は、自分より年下であるが身分は上である良房に敬語で答えた。

「良房さん、自分は遠慮いたします。またいずれ、山頂の様子など、お聞かせいただければ、うれしゅうございます。自分は麓で公子様をお守りいたします。お戻りになるまで、麓でお待ち申し上げます。」

 使用人の一人が良房に言上した。

「山頂までの往復には時間がかかりますので、麓に残った方々は、先に帰っていただいた方がよろしいかと存じますが、いかがいたしましょうか?」

 良房が答えた。

「そうか。それならば、先に帰ってよいぞ。」

 常望は、良房や自分の栄養の状態が、使用人や女中とは異なることをよく知っていた。良房は、たぶん強行軍の早足でずんずん進んでいって、使用人達は、はぐれないでついて行くのがやっとになるであろうと予想した。良房は、普段から、自分に仕える人々の都合には何も気が付かないのであった。常望は、使用人の機転に内心感謝した。

 良房達を見送った一同は、立木がまばらで比較的開けた場所を見つけて、そこで休憩した。

 常望は公子と周辺を散策した。彼らには公子付の女中が付き添った。

 常望が公子に尋ねた。

「公子さんはこういうお外を歩くのはお好きですか?」

「うちのお庭とちがって、本物の野山は広くて、知らないものばかり。」

 公子は、透き通るような白い面長の顔に端正に開いた、ビスクドールのような大きくて丸い目で常望を見上げると、尋ねた。

「常望さんは、お馬はこちらでは乗るの?」

「馬はこちらで借りられれば試してみたいです。」

 常望は、東京の自宅の厩舎に黒磯号という馬を飼っていて、毎朝乗馬の稽古をしているのであった。

「黒磯号はどうしているのかしら?」

「厩舎の職員が世話をしたり運動をさせたりしているから、大丈夫です。」

「お人形は、持ってきたの?」

「サラとキャシーを連れて来ました。別荘の自分の部屋にいます。」

「トレビアン、ジェーム・レ・プーペ・ボークー!」

 公子はフランス語で、それはよかった、私はそのお人形達がとっても好き、と言った。

 常望は、道端に、花弁の小さな赤い百合の花を見つけた。

「百合は花粉が洋服に着くと、とれにくいからね。」

「小さくてかわいらしいけれど、花粉があるから、髪飾りにはできないわね。」

 常望は、百合を摘んで公子にあげるのを諦め、歩きながら花を探して、撫子と薊を両方の掌一杯に摘んで、公子に差し出した。

「公子さん、このぐらいあればいいかな?」

「ありがとう。」

 公子は常望の積んだ花の中から、淡い朱色の撫子の花を選んだ。そして、三つ編みにした自分の髪の額に近い位置にその茎を挿した。そのほかの花は、公子付の女中が常望から受け取って、エプロンの大きな胸ポケットに入れた。

「ほかの花は母へのお土産にするわ。常望さん、サラやキャシーへのお土産はいいの?」

「公子さんと同じ、撫子を持って帰ってやろう。」

「ほら、あそこに咲いているわ。」

 常望は、公子の指さした撫子の一叢から、花を四、五輪摘んで、これは自分の背嚢に入れた。

「常望さんのお母様には摘んで差し上げなくていいの?」

「ああ、そんなことをしてもお喜びにはならないからね。いいんだ。今日はイギリス人と、鳥を撃ちに行くとおっしゃっていました。」

「まあ、かわいそうなことを。」

「まったくかわいそうです。おじい様が殺生はお嫌いだったから、自分も嫌いです。撃った鳥はお食事に上がるのですが、自分はどうも食が進みません。それに、母は鳥を撃つピストルの稽古を別荘の裏庭でされるのですが、その音が馴染めません。自分はこうして鳥の囀りを聴いている方がいいです。」

「兄は自分も早く鳥撃ちに行きたいと言っていました。父も母も、年に何回か、鳥を撃ちに行きます。私は撃った鳥はどんなに羽がきれいでも、見るのはいやです。」

「あしたかあさって、厳橿の別荘にお出ましになれませんか?」

 公子は後ろに付いている女中の方を振り返って言った。

「常望さんの別荘に行けるようにならないかしら?」

 女中は慇懃に答えた。

「ご予定につきましては、母君様にご相談遊ばされますよう、願い上げます。」

 離山の麓に留まった一行は、ホテルが山歩きに都合のよいように気をきかせて作った握り飯の昼食を済ませ、引き揚げることになった。

 連れて来た駕籠三丁のうち、一丁には公子が乗った。

 常望は駕籠を進められたが、自分で歩くと言った。常望はハナが足を痛めていることに気が付いて、言った。

「ハナは駕籠に乗ったらどうか。」

 ハナは、

「滅相もないことでございます。ご主人がおひろいで、女中が駕籠に乗って帰ったならば、お屋敷でお叱りを受けます。」

と言って固辞した。

 常望は、咄嗟に足元の山百合を何本かちぎって、ハナに渡した。

「それでは、この山百合を、花粉のこぼれないように持ち帰りたいので、ハナはこれを持って駕籠に乗るように。それならば、言い訳が立つだろう。」

 ハナは、山百合を顔の高さに持って言った。

「ほんに駕籠に乗らせていただきますのは、若い時分に嫁いだ時に乗らせていただいてから何十年かぶりで、まことに畏れ多いことにございます。」

 そして彼女は駕籠の中に身を縮めて入り、山百合をやはり顔の高さに持った。

 それから四日ほど経って、山本がまた東京から軽井沢にやって来た。

 山本は、別荘に到着した翌日の午後、常望に呼ばれて、常望の部屋を訪ねた。

「山本さん、今日はこの間の小説の続きを見せていただけますよね?」

「はい、あれから幾日も経っていませんので、まだ完成ではありませんが、話は多少展開してまいりました。」

 常望は、山本の差し出した原稿を読み始めた。

 大病院の院長である中里博士の妻の珠子は、山岡と逢瀬を重ねた。ある日珠子は中里博士との夕食の席で気分が悪くなり、中里博士が診察を行った結果、妊娠していることがわかった。中里博士は、珠子と山岡との関係を知っていたが、自分も外に愛人を作っている引け目もあって、腹の子供が自分の子か定かではないにもかかわらず、自分の子として育てる決意をする。やがて男児が生まれ、中里博士夫妻の長男として育てられる。山岡はフランスに三年間留学する。留学を終えて帰国した山岡は、中里病院を挨拶のために訪ねる。中里博士は外出からの戻りが遅れ、応接間には珠子と男児とが現われて山岡の応対をする。珠子は世間的な挨拶を一通り終えると、山岡につぎのように尋ねる。

「山岡先生、この子の顔をご覧なさいませ。とくとご覧なさいませ。中里は、最近折に触れ、この子は自分に似ているか、と、このわたくしの目を覗き込みながら尋ねます。わたくしは、あなたさまはお父様ですからもちろんのことと、答えるにつけ、汗の襦袢にしみわたる冷たさ。山岡先生、あなたさまは、どのようにご覧遊ばしますや?」

 山岡は答える。

「フランス語に、プテートル、という言葉あり。婉曲に肯定を表現するものであります。」

「あなたさまはどちらに肯定をされますのでございましょうか?お答えがわたくしにもわかりますように、あらためてお尋ね申しあげます。この子はあなたさまに似ておりましょうや?」

 山岡は左手に持ち上げたティーカップを皿の上に戻すと、かすれた声を絞るようにして呻くかのように答える。

「プテートル」

 珠子のもとより白い顔から、さらに血の気が引いて、表情が蒼く凍り付く・・・

 常望は、山本らしい美文の気を帯びた文章をここまで読んで、顔を上げた。

「山本さん、母から何か聞いたのですか?」

「聞いたとおっしゃいますと?」

「この筋立ては、何か参考にした話があるのではないかと思ったものですから。」

「参考にした話はございません。自分独りの筆の先から出た話です。」

 常望は、自分が東京に来て、高房夫妻に挨拶に行った際に印象に強く残った、ルサンブルというフランス語から、高房が自分に似ているということの意味をすぐに悟っていた。自分が祖父のもとで育てられていたのは、自分の出生にまつわる経緯があったからだということもすぐに気が付いた。彼は、公子が自分の妹にあたるということも意識していた。

 彼は、もしも山本がそのような経緯を下敷きに小説を書いて、それを臆面もなく自分に読ませたとしたならば、彼は大変な無礼を働いていることになる、と思った。しかし、どこか子供のようなうそのつけない純粋さが残っている山本に、そのような芸当ができるとも思えなかった。常望は、山本の言葉を額面通り受け取ることにした。彼は、もしもこの話を山本が独りで考えたのであれば、山本は厳橿家に出入りしてその空気から影響を受けたからにちがいなく、それは山本が芸術家としての勘が鋭いことを意味すると思った。

常望は言った。

「悪いやつが出てくるような、派手な展開を期待していたのですが、現実的に込み入った話になりましたね。」

「そのとおりです。なぜこういう筋立てになったのか、自分でもよくわからないのです。しかし、このように書かないと、自分の気が済まなかったのです。」

「この後はどうなるんですか?」

「珠子と山岡とは心中事件を起こします。」

 常望はその言葉になぜか心臓がどきりとした。

「二人とも死んでしまうんですか?」

「それはまだわかりません。こちらの別荘にいる間には、わかってくると思います。」

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