二 花相撲
毎年三月の下旬には、厳橿公爵の京都本邸の地主神である、桜木稲荷社の祭りが行われた。その「おうぼく様」の祭りの日には、本邸の庭が近所の住民に開放されることになっていた。
祭りの日の昼下がりには、赤いしだれ桜の下に、土俵がしつらえられて、十歳以下の近所の子供たちによる相撲の会が開かれた。
相撲の会といっても、取り組みはせいぜい十組程度で、優勝を決めたりするものではなかった。行司は毎年貞望が勤めた。勝者には、熨斗のついた包みで干菓子が与えられた。敗者には、熨斗のついていない包みで、勝者に与えられるのと同じ干菓子が与えられた。
相撲の会には、常望も毎回力士として参加した。彼は御所人形のようにくりくりと太っていて、体格が良いこともあって、毎回勝つのであった。
祭りの日の晩には、この土俵で、花相撲の会が開かれた。
これは、島原や祇園や宮川町や上七軒から、代表となる芸妓を出させて、緋桜色の襦袢姿で相撲をとらせるというもので、貞望は京都府知事を始めとした地元の名士を三十人ばかり呼んで、料理を振舞って見物させた。
土俵の周りには、篝火が焚かれ、見物人は土俵に近い座敷の縁側に緋毛氈を敷いた席に着座し、銘々に膳が配られた。
この相撲も優勝を決めたりするものではなく、行司は、呼ばれた名士が代わる代わる勤めた。
力士となる芸妓も、あらかじめ、自分も相手も無作法な姿になったり怪我をしたりしないよう、稽古を重ねていた。
芸妓が土俵に上がる時には、それぞれの付き添いの芸妓が音曲を付ける約束事になっていて、賑やかな催しであった。
子供の常望や、イトたちも、庭先でその様子を見物することが許された。
八分咲のしだれ桜の下で、篝火に照らされながら胡蝶のように様々な姿勢でひるがえる芸妓の有様は、常望の印象に残った。
義望夫妻は、明治三十六年の六月に日本に帰国した。二人は神戸で下船して、京都本邸に帰国の挨拶に立ち寄った。
常望にとっては、実の親に会うのは、夫妻が洋行の前に京都に挨拶に来て以来、初めてのことであった。前に会った時は赤ん坊であったので、物心がついてから会うのは初めてであった。
その面会の日、義望は海軍略礼装、夫人は洋装で京都本邸に人力車で到着した。常望は、紋服に袴姿であった。
義望夫妻は、床の間の前に座った貞望に挨拶の言上をした後、出入り口の襖近くにイトに抱かれて座った常望に向き直った。義望は、
「大きくなられて、まことに結構です。」
と声を掛けた。梅子は、
「イトさんのお蔭で、元気に育って何よりです。」
と、イトを労う言葉を口にしたが、常望には何も話しかけることはなく、自分の方に招き寄せることもしなかった。
常望、義望夫妻、そして常望は、昼食をはさんで二時間ほど席を共にしたが、五歳の常望にとっては、義望夫妻のドイツの土産話は何一つ理解できない退屈なものであった。
義望夫妻は、宿所に充てられた離れに退出して、その日の午後は休息の時間に宛てられた。
その日の夕食は、義望夫妻と常望とで摂ることとされた。
常望はイトに手を引かれて、離れの表座敷に向かった。
渡り廊下を通る時、常望は廊下のすぐ傍に植え込まれたあじさいの花を見て、イトに尋ねた。
「ばばさまは、あじさいは好き?」
「はい、好きですよ。」
「今日のお客様も、お好きやろか?」
イトは、渡り廊下の途中で立ち止まって、常望と同じ高さにしゃがんで、頭を撫でて言った。
「今日来られているのは、おもうさんとおたあさんどす。梧桐の君様はかわいらしうに静かにお座りやして、お行儀ようご膳をお上がりやして、楽しうお過ごしなさいませ。」
おもうさん、おたあさんとは、父と母とを指す京言葉であった。常望は、来客が父母であるということはわかったが、父母とはどういうものか、理解できなかった。
イトは、常望を表座敷に連れて行くと、自分は襖の向こうに正座で一礼すると、渡り廊下を戻って行った。
食事の席では、梅子が自分の膳の鮎の身を箸ではがして、汁椀の蓋に盛って、常望に与えた。
梅子が義望に唐突に言った。
「常望の顔立ちは、よく殿様に似ておいでです。」
殿様とは、梅子が夫を呼ぶときの敬称であった。
義望は、つぎのように答えた。
「今更言うまでもない、あたりまえのことではないか。」
彼は何も気にしない風で、自分の鮎を箸の先で口に運んだ。そして彼は続けた。
「いずれ、常望を東京に呼び戻すことがあるのではないかと思う。その時は母親としての務めを果たしてほしい。」
「ご心配はご無用に。その時は、九重の実家に、女中を増やしてもらいます。」
食事の時間が終わって、イトは再び渡り廊下を通って常望を迎えに来た。
帰りの渡り廊下で、常望はイトに言った。
「ばばさま、ぼく、静かにしていた。」
「よう辛抱なさいましたな。ええお子や。」
「あじさいがお好きかどうかも、聞かへんかった。」
イトは、渡り廊下から手の届くところに咲いていた、一輪の紫色のあじさいを摘むと、常望に渡した。彼はあじさいの花を目の高さに持って、イトに手を引かれて自分の寝所に戻った。
翌朝、貞望は自室に義望一人を呼んだ。
貞望は、和服の義望を前にして、尋ねた。
「義望に一度尋ねてはっきりさせておきたいと思うことがある。常望のことだ。」
「よい子にお育ていただいて、感謝いたしております。」
貞望は、低い声でつぎのように和歌を朗詠し始めた。
「筒井筒 井筒にかけし まろが丈・・・」
「何でございましょうか、伊勢物語のなかの歌のようでございますが?」
「単刀直入に尋ねる。常望の父親は高房なのか?」
「そのことでございますか。自分はシュトルツ博士を信用していますので・・・」
「博士は、本当のところは決め手がないと言っているのではないか?」
義望は、ため息をついてから、それまでの東京の軍人風の言葉遣いの中に、京育ちの若様の言葉遣いが次第に交じる言葉になった。
「おもうさん、常望は御所人形のようにふっくらして、自分のあの時分とはえろう違うように思います。」
「それは、義望は骨と皮ばかりやったな。桜木稲荷の相撲でも、勝ったこと一度もあらへんかったやないか。常望は負けたことがないによって。」
「ほんまのところ、たぶん高房さんの子やろうと思うてます。それはもう、自分は気にはしておりません。こっちは梅子さんとは常望の懐妊の後は部屋も別やし、梅子さんは自分を避けているようです。」
「義望はそれでよいのか?九重の家にものを言うたほうが、ええんちゃうか?」
「梅子さんはこっちがどこでどう遊んでも、何とも思うてしまへん。それはかえって気が楽や。九重のおもうさんのことも、おそろしおす。おもうさん、このまま、事を荒立てんと、するすると済ますのがいちばんやと存じております。」
貞望は、平安朝以来、このようなことは政略結婚にはつきもの、という古い常識をもっており、自分の本物の子孫が家を代々継いでゆくことには関心がなかったので、義望の言う通り、そのまま事を表沙汰にするにも及ばないと思った。
常望は、就学年齢になると、京都の地元の小学校に通うことになった。厳橿公爵家であれば、家庭教師を雇って小学校教育をさせることも許されるところであったが、貞望は、自分が幼少の頃、妾腹の四男として、宮家の家臣の子たちと一緒に、特別扱いのない生活をした経験があり、常望も市中の子弟と交わることが大切だと考えて、地元の小学校に通わせることにしたのであった。
貞望は、常望には京都では最先端の教養を身に着けさせることを望んだ。国学や漢学は、貞望が教え、外国の教養は、京都で美術を研究しているフランス人の学者や、京都に東方教会を開いたロシア人の聖職者を家庭教師として雇って、語学、美術、音楽を教えさせた。
貞望は、もともと雅楽や市井の音曲に通じていて、音楽を好んだ。彼は、義望から常望にオルゴールが贈られたのをきっかけとして、自らオルゴールの収集を始め、彼の書斎の棚は、それまでの漢籍や歌集が蔵に移されて、代わりにベルリン勤務当時の義望に依頼して入手した十数台のオルゴールが並べられた。また、彼は、ドイツ製のアップライト型のピアノを購入し、常望の部屋に備え付けた。常望はピアノを好み、ロシア人の家庭教師の指導のもとに上達して行った。
明治三十八年の夏の日、常望は小学校から帰り、いつものように挨拶のため祖父の夏の座敷を訪ねた。
祖父は、少年を認めると、口を開いた。
「祇園さんのお祭で表は賑やかなことやろうな。そろそろ学校も夏の休みやろう。夏の間に、漢詩の作り方を教えるさかいにな。」
その時、東山から一陣の風が座敷に吹き通った。
それと同時に、京都本邸の家令が、血相を変えて入ってきた。
「御前様、たった今、電報が届いて、義望様のご病状が重いとのことでございます。」
義望は、日露戦争に従軍して巡洋艦に乗船勤務中に肺炎に罹患し、佐世保の海軍病院に入院していた。貞望は数日前にその連絡を聞いて、憂慮していたところであった。
貞望は、眉間に皺を刻んで、常望に言った。
「お前の父の病気が重いらしい。」
義望は、帰国以来、年に一、二回は京都本邸を訪れることがあったが、常望には、何度義望に会っても、この人が父親であるという実感が持てなかった。しかし、常望は、義望の「跡を継ぐ」立場であるということは、祖父母から毎日のように聞かされていて、子供心ながらに理解していた。常望は、義望の病気重篤の報に接して、自分の身の回りに大きな変化が起こるかもしれないと予感した。
八月の大文字焼も終わり、あちらこちらで蝉時雨の聞こえる地蔵盆に入った日に、義望の薨去が京都本邸に伝えられた。
義望の葬儀は東京で行われることになり、貞望は常望を連れて上京した。葬儀は深草公爵邸の庭に幔幕を張り巡らした屋外で行われ、残暑の中、大礼服の一族や将校が多く列席した、まだ名残の蝉時雨の中、神式で執り行われる儀式の間、常望は梅子の隣に座っていたが、長時間の儀式で列席者がうとうとし始める頃、こっそり白木の床几から降りて、幔幕の下をめくって、斎場の裏に出てみた。
そこには、小高い築山があって、頂上の藤棚の近くに白いブランコがしつらえてあり、ブランコには常望よりも少し年齢の小さい兄と妹が座っていて、一人の女中が籠をゆっくり揺らしていた。
女中は常望の姿を見とがめて、
「あんた、どこの子?ここはあんたなんかの来るところじゃないのよ。あっちへお行き!」
と一喝した。
常望は、自分の姿を珍しいものを見るように見送る兄妹の視線を感じながら、もとの幔幕の下にすべり込み、自分の床几に戻った。
葬儀が終わって、参列者が退席することになり、常望は京都から付き添って来たイトに手を引かれて、斎場を後にした。
しばらくして、常望は、帽子を斎場に忘れてきたことを思い出した。そして、彼はイトの袖を引いて言った。
「ばばさま、帽子を忘れました。」
イトは、帽子がこれからの参列者を見送る挨拶の小道具として必要なことを知っていたので、急いで常望と床几まで戻った。
斎場では早くも幔幕の撤去の作業が始まっていた。
金モールの巻かれた小学生の帽子は、あちこちを確かめたが、見当たらなかった。
イトが言った。
「梧桐の君様は喪主でいらっしゃいます。厳橿公爵を間もなくお継ぎになられます。これはええ練習の機会や。これから、お客様をお送りするご挨拶に臨まれますが、お帽子なしで、堂々とお振舞いくださいませ。何があっても堂々としてあらしゃるのが、梧桐の君様のこれからのお務めでございます。」
常望は、イトの言葉の意味はよくわからなかったが、帽子がないからと言って、こそこそしていてはいけないということだと合点して、屋敷に戻った。
一族は、参列者の客の格に応じて、玄関の式台まで、あるいは玄関の内側の小座敷の銀紙の屏風の前に並んで、見送りの挨拶をした。大礼服の男性の大人は、みな帽を脇に抱えて挨拶をしたが、常望は、あるべき帽子を抱えないで、自分に深々と挨拶する参列者ごとに、首をこっくりと縦に振り続けた。彼の挨拶は、玄関先の玉砂利を出立する最後の人力車の音がしなくなるまで、二時間ほど続いた。
一連の儀式の後、二日ほど経ってから、貞望は常望を深草公爵家の離れの自室に呼んだ。
「おまえは公爵の爵位を継がねばならぬ。九重公爵からは、厳橿公爵は東京で、お上のお傍にお仕えするべきではないかとの意見が伝えられている。そうしないと、梅子一人が東京に住むことになって、世間体がまことによくないからな。梅子も常望を引き取って一緒に住むと言っている。おまえは、これからは東京でこの家の当主として暮らすのだ。」
貞望はそう言い渡してから、京言葉で言った。
「自分は、ばばと京に戻るによって、つぎはいつ会われるかもわからへんな。うちには、自分の勝手いうもんはもともとあらへんさかい、せんないことや。おまえは当主やから、ようわきまえて、お神輿から振り落とされへんように、家の衆にかついでもらうんやで。」
常望は言った。
「学校も変わらなあかんいうこと?」
「そうや。今度は学習院やな。おまえのおもうさんも通うてたんや。」
「ピアノやフランス語は続けてもええの?」
「それは続けられるように梅子に言うとくわ。女中のハナは東京に来ておまえの世話を続けられるよう、なんとか算段しよう。見ず知らずの人ばかりの中に入るのは、自分も寺に入ったときもそうやったが、心細いもんやさかいな。」
常望は、初めて梅子の部屋に呼ばれた。梅子の部屋は、洋室で、ベッドの脇に応接セットが置かれていた。この洋室には、靴をはいたままで入るようになっていた。
常望は、梅子付きの女中に手を引かれて、お客のように応接セットに座らされた。
梅子は、喪中ということで、黒に近い濃い紫色の洋装に、真珠のネックレスをして、常望の向かい側に座った。梅子が言った。
「梧桐さん、おじいさまからお聞きになったでしょ。今日からは、わたしと暮らすのよ。あなたには、京都から女中が来るらしいわ。それから、暮らし向きのことは、九重から連れて来た家令の林が受け持っているから、後で挨拶に伺わせます。わたしのことは、ここは京都じゃないから、おたあさんでなくて、お母さんと呼んで。あなたのことは、お印の梧桐さんで呼ぶわ。外向きには『当主』と申しあげますからね。あなたは、これまで、食事はいつもおじい様と一緒?」
「女中のハナと一緒です。おじい様やばば様は、お正月やお祭りには一緒です。」
「そうなの。ここでは、なるべく私といっしょに朝食を摂るようにしましょう。日中は、あなたは学校があるでしょうし、私もお付き合いで外出が多いから、夕食の時間も決まっていないし、せめて朝だけは顔を合わせましょう。」
常望は、京都でも、御所人形のように扱われて、まわりのお膳立て通りに、お行儀よくしているのに慣れていたので、梅子の話を聞いて、自分の暮らしは東京でもそんなには変わらないのだろうと思った。
「それから、深草公爵に、あなたと同じ年恰好の、良房さんと公子さんがいるから、時々遊んであげるといいわ。外国のおもちゃをたくさんお持ちなのよ。二人とも、パリで生まれたのよ。」
深草公爵家は、四年前に先代が薨去し、高房が当主になっていた。高房は、当主になる前年に梅子の従妹にあたる桃子と結婚しており、良房と公子の二人の子を儲けていた。二人は、梅子の言うように、高房夫妻がフランス滞在中に現地で生まれた。良房は四歳、公子は三歳になっていた。常望は七歳であったので、梅子の言うような、同じ年恰好というには、少し歳が離れていた。
常望は、義望の葬儀の後、改めて深草公爵家に挨拶に行くこととなった。
彼は家令の林に連れられて、応接間に通された。部屋にはグランドファーザー・クロックが重い振り子の音をたてて時を刻んでいた。壁には、畳二畳分ほどの大きな油絵がかかっていて、銀色の長い鬘をかぶった西洋の貴族と思われる肖像が描かれていた。
常望は、振り子の音を聞きながら、身動きをしないで、革張りの椅子に浅く腰をかけて、御所人形のように座っていた。彼はそうしていることに幼少から慣れていた。ただし京都では和室で正座であったが、ここでは洋間であることが相違であった。
常望が十五分ばかり待ったところで、高房と夫人の桃子、そして良房と公子が、女中に先導されて応接室に入った。
一同着座すると、まず家令の林が口を開いた。
「このたびは当主上京につきまして、ご挨拶に参上いたしました。来年公爵邸が関口に完成いたしますが、それまではこの離れで梅子様と暮らします。」
高房は、林の口上を聴きながら、ずっと常望の顔を見ていたが、口上が終わると、うんと頷いてから言った。
「友房君が亡くなったうえで、知り合いのいない東京に転居とは、心細いことであろうと察します。常望さんは、当家をぜひ我が家と思って、日々尋ねられますよう。」
桃子が言った。
「良房と公子のよいお友達になっていただきたいわ。梅子さんはお出かけが多いから、お留守の時はわたしがお母さんのかわりをいたしますわ。」
桃子の声は、この広い応接間に反響するような、かん高い大きな声であった。彼女は元大藩の外様大名の家に生まれ、自分の寝室だけで二十畳もある広い屋敷で育てられたので、女中を呼ぶのに大きな声を出していた習いが結婚後も抜けなかった。
高房は、そのかん高い大きな声を聞いて思い出すことがあった。それは、高房と桃子がパリに滞在中に、生前の義望と梅子と四人で会食した時のことであった。
その席で、豪放な桃子は、シャンパーニュのグラスを片手に、高房と梅子とを交互に見ながら、義望が同席しているのにもためらう風もなく、かん高い声でつぎのように言った。
「おふたりとも、お互い婚儀やら外遊やらがあって、ここ数年ろくに顔を合わしていないけれど、もうほとぼりは冷めたでしょうね。そうでないと、義望さんがかわいそうよ。」
その言葉を聞いても、義望は平然とフォークを口に運んでいた。しかし高房は、義望の目が、一瞬ではあるが細く鋭く光ったのを見て、冷や汗を流した。それと同時に、彼は桃子が自分と梅子との関係をとうにわきまえていることをはっきり知ることになって、本当のところかえって安心したのであった。
その夜、高房は、桃子に、常望が自分の息子と思われる旨を打ち明けた。桃子は言った。
「そのことは、私は婚儀の前から、周りの者の話で、大方そうではないかと察していました。そのくらいのこと、七十万石のお城が落ちるような話でもございませんし、この胸ひとつにしまって、しっかり心得て嫁いでまいりました。お心を悩まされるようなことではございません。」
彼女としては、嫁ぐということは、七十万石のお家のために出陣することであった。その信念は、彼女にとっては、大藩であった旧大名家の財力の限りを尽くした西洋風の育ちと、何の矛盾も来たすものではなかった。
高房は、このような回想から、再び現実に立ち戻って、常望の顔を改めて見つめた。
高房は、何事か桃子と小声で話した。彼らは、フランスに三年間住んで、フランス語ができたので、周りに聞かれたくないことを話すときは、フランス語で会話するのであった。
常望は、フランス語の手ほどきを受けていたので、ごく簡単な会話は聞き取ることができた。彼が聞き取ることのできた彼らの会話はつぎのようなものであった。
「あなたは、彼が私に似ていると思いますか?(エスク・ヴ・パンセ・キル・ム・ルサンブル?)」
「たぶんそうね。(プテートル)」
常望は、「ルサンブル」という言葉が日本語で「似ている」という意味であることを知っていた。しかし、彼は、それが高房と自分との特別な関係を表していることまではわからなかった。彼は、桃子の言った「ブテートル」という言葉に特に印象を覚えて、頭の中でこの言葉を繰り返した。
良房と公子は、それぞれ革張りの椅子に浅く腰かけていた。彼らも人形のように行儀よく座っていたが、桃子がパリから直接取り寄せたセーラー服風の子供服を着ていた。常望が御所人形のようであるのに比べて、彼らはフランス人形のようであった。
フランス生まれの良房と公子は、日本語より先に、子守りのフランス人からフランス語を覚えた。帰国後の高房と桃子は、二人とは日常は日本語で会話したが、朝食を摂るときだけは、フランス語で会話することに決めていた。
常望は、自分が西洋風にしてみせれば、この人たちに気に入られるのではないか、と幼心に直感した。彼は、いつも周りからもっともかわいく見えるように振舞うことを、無意識に身につけていたのであった。彼にとって、それが言葉の本当の意味で、生きるための術であった。
常望は、挨拶が済んで辞去する際に、良房と公子に、さようならを意味するフランス語で
「オ・ルヴォワール」
と声をかけた。
良房と公子は、反射的に
「オ・ルヴォワール」
と答えて、常望に手を振った。
高房と桃子はそれを聞いて目を合わせて頷いた。高房は呟いた。
「これならば、この子とはうまくやって行けそうだ。」
常望は、家令の林の先導で、自分の住まいとなった離れに帰りながら、京都でイトが自分に繰り返し言い聞かせた言葉がどこからか聞こえてくるような気がした。
「西洋の学問は、なんでも好きなように、身におつけあそばしませ。ただ、お忘れあそばしてはならないことは、このばばが生きているうちは、何度でも繰り返して申しあげますによって、よう肝に銘じとくれやす。お国というもんは、そのために死んだ人のお蔭さんがあってはじめて立ってゆけるもんどす。大砲や汽車はお国を助けますが、それだけでは立ってはゆけへんのどすえ。」
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