人形の公爵
うたふ兎
一 出生
明治三十八年の夏の京都では、日露戦争の最中で世情何かと落ち着かない中でも、都の旧い仕来りがおろそかにされることはなかった。
二条通を東に進んで鴨川に行き着き、右手に見える小路から南に折れると、その角から築地塀がしばらく続き、塀が切れたところで黒い冠木門が森閑と扉を閉ざしていた。門前には円錐形の屋根を載せた巡査の警備のための小屋があって、この家に出入りする者は、巡査の誰何を経た後に、門の脇の通常口から塀の内に進むことになっていた。
紺絣の着物を着た、毬栗頭の小学生が、風呂敷包みを胸の高さに奉持する女中に付き添われて、門に近づいた。
女中は巡査に、
「
と告げると、巡査は右手を制帽の庇に挙げて敬礼した。
梧桐とは、この少年のお印として定められた、いわば別名であった。お印とは、御所や公家の仕来りで、貴人の名前を直接呼んだり記したりすることを敬して避けるために定められるもので、たとえばその貴人の持ち物には、そのお印の意匠が施されるのであった。その仕来りどおりに、この少年は本来の名前である
少年と女中とは、通用口から入ると、正面玄関の式台から屋敷に上がった。
少年は、小学校から帰ると、必ず祖父の部屋に通って、挨拶をすることになっていた。
祖父の夏の座敷は、鴨川に面した東南の角にあり、障子を開け放たれた縁側越しに、紫色の東山が遠望された。
祖父は、入室して正座した少年を前にして、口を開いた。
「祇園さんのお祭で表は賑やかなことやろうな。そろそろ学校も夏の休みやろう。夏の間に、漢詩の作り方を教えましょう。」
少年は、祖父である
貞望は、深草宮家の四男に生まれた。母君は、賀茂の神社に仕える社家の娘で、宮家に家女房として出仕していて、深草宮のお手がついた側室であった。深草宮家では、長男が宮家を相続し、その他の男子は門跡として僧侶になる慣例となっていて、貞望は九歳になると伯父君にあたる醍醐寺の門跡の付弟として寺に入った。
あたかも時は幕末であり、十九歳の時に伯父君を継いで門跡になった貞望は、公武合体論を唱える岩倉具視を援助し、一時は尊王派が主導をとった朝廷から疎んぜられ、禁裏への出入りを禁止された。貞望が島原遊郭に微行を重ねて、幕府の朝廷への目付役である京都所司代に睨まれたのもこの時期であった。貞望は、後になって、当時の乱行はあえて政治的野心のないことを朝廷および幕府に示すために、心ならずも行ったものであったと述懐した。やがて岩倉具視が朝廷で復権すると、彼の禁裏への出入りも前の通り許されることになった。彼は、王政復古の時に復飾還俗するよう勅旨を受けて、臣籍に降下し、古歌から「いつかし」という言葉を採って、
貞望は、思うところあって、東京奠都には随行することを謝絶して、京都に残った。彼は復飾還俗したとはいえ、深く仏教に心を入れ、一族の義務とされた軍務に就くことを厭ったのであった。彼はいつも和服で袴を着けて暮らし、生活に西洋風の文物が混じることを嫌った。彼は毎朝看経し、天地神祇を拝し、書道、歌道、雅楽、茶の湯を嗜む日々を送った。
貞望は正室を置かず、島原で馴染んだ花魁を身請けして側室とした。彼は側室との間に三男二女を設けたが、うち男子二名と女子一名は夭折した。残った男子の義望の成人を待って、貞望は隠居した。
義望は明治五年の生まれで、六歳になると東京の駿河台にあった伯父君の深草公爵の屋敷に寄宿した。深草公爵も、厳橿公爵同様に、宮家から臣籍降下した家であった。高房はその屋敷から学習院に通い、十六歳になると海軍兵学校に入学して軍務に就いた。成人するまでの義望は、厳橿公爵家の将来の当主と定められてはいたが、東京では親戚の家の居候であり、京都の父親からの仕送りで生活する身の上であった。彼は、普段の食事は深草公爵家とは別に摂った。当時神田錦町にあった学習院へは、学年が彼より一つ上であった深草高房は人力車で通ったが、彼は徒歩で通った。高房は、社交的な性格で、いつも取り巻きの華族の子弟に囲まれて賑やかに遊ぶことを好んだが、義望はいつも取り巻きの中に溶け込めず、高房とも会話をすることが少なかった。彼は中学生になるとドイツ人の宣教師夫人からドイツ語を学んだ。彼は植物学に興味を示し、ドイツ語が多少身についた頃になると、丸善で取り寄せたドイツの植物図鑑を読んで過ごすのが楽しみであった。彼は学習院を終えると海軍兵学校に進学した。海軍兵学校は、義望の入学の年から江田島に移転したので、彼は一足先に入学していた高房と共に、深草家から江田島の宿舎に移った。彼は海軍兵学校を卒業すると、海軍軍人として艦隊勤務となった。
義望が成人して厳橿公爵家の当主となって二年後、旧摂家の九重公爵家の三女梅子との縁談が持ち上がった。彼が初めて九重公爵家を訪れたのは、五月の終わりの陽気のよい日であった。江田島から鉄道の駅のある広島に出て、二日間列車に揺られて上京した彼は、深草家から新橋駅に馬車を回してもらうことはできず、彼は新橋駅に着くと、駅前で客待ちしていた人力車を雇って、赤坂氷川台の公爵家に向かった。
旧幕の京都では、宮家は無官であり、公家の最高位にあった摂家には一歩遠慮する立場であった。九重公爵夫妻は、その仕来りのとおり、銅の壺に立華の活けられた床の間の前に、義望と同列で対座した。公爵はややずんぐりとした血色のよい体格で、フロックコートを着用し、夫人は細面で髪を束髪に結い、朱鷺色の京友禅の和服に金糸で燕の文様を散らした帯を締めていた。義望は、艦隊勤務で黒く日焼けした細身の体格で、海軍の蛇腹の制服であった。彼は、当時上流婦人に流行していた金縁の眼鏡越しに自分の品定めをする夫人の視線に、居心地のよくない思いをしながら、大きな牡丹の紋が織り出された金襴の座布団に端座した。
九重公爵は、左の掌に載せた茶托から、右手の指先で九谷焼の華奢な煎茶碗をつまみ上げながら言った。
「閣下は、海軍でお船に乗られて家をお空けになることが多いのではと拝察いたしておりますが、婚儀がまとまりましたらば、海軍大臣になるべく陸上のご勤務となりますよう、申しあげねばなりますまい。」
義望は、九重公爵が若い義望を、厳橿公爵家の当主として、閣下という敬称で呼ぶことに、面はゆい思いがした。
九重公爵は貴族院副議長の要職にあり、海軍大臣に頼みごとをすることは、雑作もないことであった。義望の父の宮中席次は九重公爵より高いものであったが、九重公爵のように政府の要人に直接物事を頼むことのできる立場ではなかった。
ベルリン留学が長かった九重公爵は続けた。
「閣下は、海外留学遊ばされますよう、ぜひお勧めいたします。婚儀の後、しばらくいたしましたならば、ドイツかイギリスにご渡航遊ばして、できれば梅子も伴っていただきたいですな。渡航の費用は、宮内省からの分だけでは到底足りますまいから、九重家からも些少ながら支出させていただきます。」
公爵夫人が言った。
「梅子は、本来であれば然るべき見合いの席でなければ閣下にお目にかかるわけにはいかないところではございますが、今日はその襖の向こうで様子を伺っておりますから、少しだけお目通りを願いましょう。」
夫人の合図で、女中が竹に虎の絵柄の襖を開けると、次の間に、矢絣の着物に女学校に通う海老茶の袴を着けた、小柄な若い娘の姿があった。
夫人は言った。
「今日は内々でのお引き合わせで、他言無用にいたしましょう。どうぞ、お声をおかけくださいませ。」
義望は、軽く会釈すると、
「義望です。」
とだけ言って、それ以上の言葉を続けずに沈黙した。
梅子はいかにも社交慣れした様子で言った。
「梅子でございます。以前、深草公爵家の蛍狩りの時にお目にかかったことがございますが、覚えておいででいらっしゃいますか?」
義望は、ひと呼吸ほど間を置いてから、ゆっくりした口調で答えた。
「蛍狩りは覚えていますが、どの年でしたでしょうか。毎年、大勢のお客でにぎやかでしたので、梅子さんがおいでになっていたのは気づきませんでした。」
「閣下が高房さんと藤棚の下におられた時に、うちわでお二人のお膝の蛍を追ったのを覚えておいでではございませんか?」
「たしかに、洋装のご婦人がおられて、そのようにされたのは、朧げに覚えていますが、夜分でしたので、お顔をしかと拝見したわけではなくて、失礼いたしました。」
「さようでいらっしゃいますか。それならば、以後よろしくお見知り置きくださいますよう、お願い申しあげます。お船に乗られて屋敷を開けられることが多いと承っていますが、どうか私のことは気になさらず、公務に精励されますようお願い申しあげます。」
義望は、自分より三歳若い梅子の口からこのような言葉がすらすらと出て来るのに驚いた。しかし、彼は、相手を選り好みする勝手は自分には許されないことを十分承知していたので、この権門の娘には何とか自分が合わせてゆくしかないだろうと思った。
納采の儀を経て、婚儀は明治二十九年五月に京都の厳橿家本邸で古式のとおりに執り行われた。義望は束帯を着用し、梅子はおすべらかしの髪に十二単を着用して、御座所にひな人形のように並んで着座した。京都在住の旧公家の夫人や娘が出仕して、有職故実の通りに銀盤に三日夜の餅が盛られた。
二人はいずれ東京に新邸を構える予定であったが、予算の都合から、当面は駿河台の深草公爵家の離れで起居することになった。
深草公爵家では、九重公爵の令嬢の梅子を歓迎し、折にふれて義望と梅子とを本邸での食事に招いた。まだ独身であった高房は、横須賀の軍港での勤務であったため、東京の本邸に帰っていることが多かった。彼は幼少の頃から梅子とは遊び仲間で、義望が軍艦に乗って留守にしている間、梅子にテニスを教えたり、自分の演奏するチェロをピアノで伴奏させたりしていた。義望が離れにいるときにも、梅子だけが高房に呼び出されることもしばしばで、そういう時は、義望は趣味の植物学の洋書を読んで過ごした。
義望は、いつも深草公爵家の食事に招かれるのは心苦しいので、たまには離れで深草公爵家の人々をもてなすことを梅子に提案した。梅子は、その食事会の当日は、朝早くから準備を始め、実家から伴った三人の女中を使いながら、西洋料理を作った。
食事会は、十月の十六夜の月の明るい晩に行われた。出席者は、深草公爵夫妻、高房、高房の妹、深草公爵当主の妹の一家四人、そして義望夫妻であった。午後八時前には、食事会も無事終わり、出席者は離れの食堂から応接間に移動すると、ソファでたばこを吸ったり、食後のリキュールを嗜んだりした。
義望は、いつもそうであるように、一族の会話の輪からは一歩距離を置いて、静かにほほえんで会話に耳を傾けていたが、気が付くと、梅子と高房が、いつのまにか洋間からいなくなっていた。
義望は、そっと応接間を抜けると、食堂を探したが、二人はそこにはいなかった。彼は、秋の夜のしじまのなかで、かすかにきいきいという金属の擦れる音に気が付いた。彼は、それは庭の藤棚の傍のブランコの音であろうと察した。
彼は、音を立てないように食堂から庭に出る扉を開けて、庭に降り立ち、足音を立てないように藤棚への道をたどった。
はたして、藤棚の傍の白いペンキで塗られたブランコに、彼は高房と梅子との姿を認めた。十六夜の月が照らすなか、二人は対面でブランコに座っていた。二人はどちらもうつむいて、一言も言葉を交わさず、ただブランコをゆっくりと揺らしているのであった。
義望は、目を鋭く細めてその有様を見ていたが、やがて踵を返すと、食堂の扉から離れに入って、応接間に戻った。応接間では、義望が席をはずしていたのを誰も気が付いていない様子であった。
明治三十年十一月、義望は豪州親善のための遠洋航海に出発し、家を三か月の間留守にした。彼が一月末に帰国して間もなく、梅子が懐妊していることがわかった。梅子のために、九重家から、医師と看護婦が二人の起居する離れに派遣されて来た。医師の診断によると、早産が心配されるとのことであり、手厚い看護体制が敷かれた。梅子は、その年の十月末に男子を出産した。
義望は、生まれた赤ん坊を初めて見た時、早産にしては体格がしっかりしていることに気付いた。
九重家から梅子に付き添ってきた京育ちの女中は、義望に、
「早生まれのやや子さんやのに、大きなお産声さんで、おめでたい限りとお祝い申しあげます。」
と、喜んでみせた。
義望は、植物学を始め西洋の科学に親しんできたので、本件についても確かなところを知りたいと考え、上流階級の信頼の厚い、ドイツ人医師シュトルツ博士の邸宅を訪ねた。
義望は、ドイツ語で、つぎのように尋ねた。
「ドクトル、懐妊して十か月満たないで生まれる子供は、体格に何か特徴がありますか?」
シュトルツ博士は、この質問に、流暢な日本語で答えた。
「特徴と申しあげるべきものは、ございません。体格の大きさはさまざまです。」
義望は、内心で、博士の言葉を信用しようと自分に言い聞かせながら、博士の邸宅を辞去した。
義望の父の貞望は、義望から書状を受け取った。書状には、赤ん坊にとり祖父である貞望が染筆してあらかじめ東京に送った命名のとおりに、常望と名付けられたことが記されていた。その書状に添えられた私信には、義望によるシュトルツ博士の見解の要約が添えられていた。
貞望は、幕末の騒乱の中を自分の才覚を頼りに生き抜いてきた人だけに、勘がきわめて鋭く、私信にわざわざシュトルツ博士の見解が書き添えてあることにすぐに疑問を持った。彼は、義望に仕えている家令に、事情を最大もらさず書いて知らせるように、親展の封書によって命じた。
貞望は、家令の返信によって、昨年十一月以来の東京の厳橿家の人々の動きを知ると、家令にさらに返信して、深草公爵家と梅子との関係を、なるべく以前まで遡って調べるように命じた。
家令の再度の返信には、つぎのように始まる文章がしたためられていた。
「閣下御下問の儀、梅子様かねて御幼少にあらせられたまひし時分以来、深草公爵家にては園遊会等の都度何かと催し事のあるたびにお召し遊ばされ、若様におかせられましては実の妹君のごとく思し召され、下つ方にては伊勢物語の筒井筒さながらとの噂も耳にいたし候。」
貞望は、この一文で事情が呑み込めた。伊勢物語の筒井筒の話のように、幼馴染の関係があって、その微妙な事情がシュトルツ博士の見解の話につながっていると理解した。
貞望は、伊勢物語の冊子を開いて、筒井筒の章を久しぶりに再読した。
筒井筒 井筒にかけし まろが丈 過ぎにけらしな 妹見ざる間に
くらべこし 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰か上ぐべき
彼は、定家流の手跡で書かれたこの有名な歌の応酬を確かめると、さて、どうしたものか、と考え始めた。自分を粋人であると認識していた彼は、今更、確かめる術もない憶測で兄の深草公爵にねじ込んだりするつもりは毛頭なく、ここは王朝の流儀で雅に納めたいと思った。
貞望は、常望を義望から引き離して、自分が養育することを考え付いた。義望と梅子とは家の都合でなった夫婦であっても、お互いに嫉妬したりされたりということは、あるかもしれないので、その火種は自分の目の黒いうちは自分の手元に引き取っておこうと思ったのであった。
彼は、再び義望に書簡を送り、常望に国学と漢学を修めさせ、神道に通じさせて、我が国の伝統を受け継ぐ者として育てるべく、常望を自分のもとに引き取りたい旨を伝えた。
義望は、この書簡から、父が自分の懸念に気が付いていることを読み取った。自分としては、艦隊の勤務が多く家庭を空けることの多い自分よりも、祖父の貞望が養育に当たった方がよいのではという気持ちもあった。彼は、父の申し出を承諾する腹積もりをしてから、梅子に相談した。梅子は、あっさりと、
「ご隠居様のおっしゃるとおりにいたします。」
と答えた。義望は、彼女が躊躇なく答えたことに内心驚くとともに、自分の懸念を裏書きされたような気がした。
それから二か月ほど後に、常望は乳母の胸に抱かれて鉄道に乗り、京都の祖父の本邸に引き取られた。彼の上洛には、父親の義望も母親の梅子も付き添うことはなく、乳母と義望の家令の二人が付き添うだけであった。
常望の毎日の養育は、貞望の側室であるイトがあたることになった。
イトは、常望を京都まで連れて来た乳母は東京に返して、京都で新しい乳母を雇った。
イトはもともと摂家の警護に当たる武士の娘であった。彼女の兄は、尊王の志士の一人であり、攘夷派の公家であった中山忠光に心酔した。彼は天誅組の義挙に参加するにあたり、まとまった金銭を調達する必要があり、イトは兄のために島原遊郭に身を売ってその金銭を用意した。天誅組の義挙は失敗に終わり、イトの兄は中山忠光に従って長州に落ち延び、そこで忠光とともに暗殺された。貞望がイトの客となったのは、その直後であった。貞望は、イトがただの遊女ではなくて、兄の義挙のために身を苦界に沈めた筋金入りの攘夷論者であることを知り、やがて自分の政治向きの判断に際しては彼女の意見を聞くようになった。
王政復古の後、貞望が東京奠都への随行を謝絶したのも、イトの意見を容れてのことであった。その時イトは貞望に尋ねられて、つぎのように意見を言った。
「王政復古は、それは結構さんなことでございますな。大砲やら制服やら、軍隊をそろえるのには、えろうおあしがかかりますやろうと思うてますが、異国からたんと借財せんならんとちがいますやろか。お国柄を守るために命を捨てはった方はあの世でどう思いはりますやろか。東京へ宮さんがお下り遊ばされる思し召しとあらば、それは思し召しの通りなさいませ。わてはこの王城の地で兄の菩提を弔わなあきまへんによって。」
貞望は、自分が東京で陸軍に入れられることになっていて、洋装にサーベルを下げるのが、自分の旧弊な美的感覚に合わないのを気にしていたのであったが、イトの言葉を聞いて決心が固まり、自分はお上が留守にされる京都を守りたいと政府に申し出て、東京行きを謝絶することにした。政府は、まだ幼い天子がおじ君たちの意見に左右されるようなことは未然に避けたいと思っていたので、貞望の希望をさしたる議論もなく受け容れた。
イトはそれから貞望の実質上の夫人として、本邸内を取り仕切っていた。彼女は、京都の街にも西洋人が訪れるようになり、西洋文化が入ってくるのを見ながら、西南の役が終わる頃までは旧幕時代と変わらない生活をしていた。しかし明治十年二月に、京都から大阪への鉄道の開通式が催され、明治天皇が臨席されることとなり、貞望とイトは宮内省から招待され、二人は初めて、蒸気機関車につながれた列車が京都を出発するさまを目にした。イトは、京都駅から本邸に戻ると、貞望につぎのように言った。
「よう考えれば、日本の漢字も、着物も、太鼓や三味線も、海の向こうから船で渡ってきたものを、こちらで工夫して使うてきたもんどす。そういうもんを使うんは、お国柄をどうのこうのということとは関わりの薄いことやから、ええもんは使うてゆかなあきまへんな。」
それからのイトは、身なりこそ和服で通したが、ガス灯を手初めとして、新しい文物を本邸で試みるようになった。京都市に電気が引かれると、イトは市中の邸宅としては真っ先に電灯をともした。
しかし、イト自身は、常望には、折あるごとに、自室の小さな仏壇にある兄の位牌に燈明を上げながら、つぎのようなことを言うのであった。
「西洋の学問は、なんでも好きなように、身におつけあそばしませ。ただ、お忘れあそばしてはならないことは、このばばが生きているうちは、何度でも繰り返して申しあげますによって、よう肝に銘じとくれやす。お国というもんは、そのために死んだ人のお蔭さんがあってはじめて立ってゆけるもんどす。大砲や汽車はお国を助けますが、それだけでは立ってはゆけへんのどすえ。」
常望が乳離れしてから、乳母は帰され、それからの養育は、イトの監督のもと、女中のハナが担当した。ハナは寡婦であり、三十代半ばを過ぎであった。彼女は、京都の室町の小さな商家の娘で、音曲や書道に親しんで育ち、長じるに及んで内科の医師の妻となったが、子供のできないうちに夫に先立たれ、一旦は実家に戻っていた。それをイトに紹介する人があり、イトの眼鏡にかなって、女中として厳橿家に住み込みで勤めることになった。
常望にとって、ハナは母親代わりであった。彼女は、常望と起居を共にし、彼の身の回りの世話をした。彼女はイトの指示で、毎晩、桃太郎や金太郎を始め、子供向きの絵草子を常望に読んで聞かせた。手に入れた絵草子は十数冊であり、彼女は、同じ物語を、少し日にちを置いては、何度も常望に読んで聞かせた。物心のつき始めた常望は、ハナによくなついた。常望は、寝る前にハナに絵草子を読んでもらうのを楽しみとし、自然にその筋や書かれた文字を覚えて行った。
常望を京都の貞望に預けた東京の義望は、それから一年後に、ドイツに旅立った。義望はドイツの軍港キールの大学校で二年間学び、その後ベルリンの日本公使館で外交の現場を体験した。妻の梅子は、義望がベルリン勤務となった時に、渡欧して義望と暮らした。
当時三歳の常望のもとには、義望から、プロイセン軍の兵隊を象った人形や、オルゴールが送られてきた。ハナがオルゴールのねじを巻いて、音を出すと、貞望が珍しく常望の部屋に顔を出した。
「義望の送ってきた土産か。なかなか涼やかな音のするものであるな。」
オルゴールの裏には、ローマ字で、フランツ・リスト作曲リーベストロイメとあった。貞望は幕末に蘭学をかじったことがあり、ローマ字はある程度は読むことができた。
ハナが言った。
「義望様からのお手紙を先ほど拝読いたしましたが、この曲の名前は『愛の夢』というのだそうでございます。」
貞望は、その言葉に、常望の誕生の時の「筒井筒」の一件を思い出して、独り言を言った。
「ひとときの愛の夢であっても、一人の子供の命となって、永く続いてゆくものであるな。常望への土産にふさわしい曲名であるが、あわれやな。」
貞望はそのように呟いた後、常望の頭を撫でた。貞望が常望の体に触れることは、滅多にないことであった。
貞望は自室に戻ると、即興でつぎのような和歌を作り、手元の和紙に書き付けた。
筒井筒 上ぐべき髪のいとながく 玉の緒むすぶその夢枕
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