第7話

 葵が帰ったら、スンって感じになり……。

 どこからともなく漂ってくる近所の家のカレーの匂いのように、不安が私を浸食しはじめた。


 不安。

 不安。

 不安。


 そしてその不安が、葵への怒りに変化するまでには、そう長い時間は掛からなかった。


 っていうかさ!

 葵!葵の奴め!


 来てくれたのは嬉しいし、ありがたいんだけどね。

 ミッションってなによ?

 は?

 何様なんですか?

 何目線なんですか?

 こっちが弱気になってるからって、エラそーにさ!

 すでにミッション1から、かなりインポッシブルなんすけど!

 ママに電話するとか、無理無理無理!


 どうせまた「離婚届の不受理申出した?」だとか「してないの?なんであんたはー!」とか「今すぐ慰謝料だけでも請求しろ!」とか「なんでそんなことも出来ないで、私に金せびるのよ!」とか、怒鳴り散らして私を責めるに決まってる。そしたら私、またぺちゃんこになって、立ち直れなくなっちゃうよ……。


 そもそも今の私は、悠人と関わるのがめちゃめちゃ怖いんだから。

 私をゴミを見るような目で見て去って行った男とやり直すとか、慰謝料請求するとかマジでしきらん。

 考えただけで胸がバクバクして、心臓発作で死んでしまいそうなんだよ。


 だからママに電話してお金もらうっていうのは……。

 現実的にハードル高すぎ……インポッシブルすぎ……。


 とか考えながら、グダグダし続けて3時間くらい。

 いつまでもグダグダしてても仕方がないと、やっとのことで勇気を出してスマホの電源入れると、ギャッ!!!

 驚いた!

 電源を切っていた2週間の間に、電話の着信101件だって!

 ワンちゃんの数で換算しても、すごいことになってるよ!


 恐々と確認したら、その全てがママからだった……。

 悠人からの電話も2件くらいないかな?って思ったけど……ない。0件。まぁ、あったとしたら、それはそれで怖いんだけどね。


 ラインの着信は3件。

 3件とも葵からで。

 1件は2日前で、『おーい、りっか、生きてんの?』という素っ気ないものだった。あとの2件はびっくりなんと、5分前。


『言い忘れてた!電話で(電話でも直接でもどっちの場合でも有効なんだけど)誰かと交渉する時は、事前にそのひとのいいイメージだけ思い浮かべていると、うまくいきやすいよ。「どうせ~って言われる」とかネガティヴな妄想はNG。電話し終わった後の自分が笑顔でいるって設定して。笑顔の自分を妄想するだけでいいから。で、ちゃんと自分が今この瞬間、いい気分になっていることを確認してから電話すること』


『あ、これはおまじないとかそういうんじゃなくって。脳科学で、ちゃんと根拠のあることだからね』


 はぁ~!?!?


 ちょっと……引くよね。キモくない?

 あなた、自分輝く系セミナーとかの講師ですか?みたいなさ。

 ちょっと、その何から目線かわからない押しつけがましい感じ、やめてくれますか?みたいな。


 会社に入社したての頃、70過ぎた嘱託のおっさんが、大量の数字を全部電卓で計算しているのを見て、びっくりおったまげたことがある。見かねて「エクセル使うと簡単ですよ」って教えてあげたら、「なんだお前は!若くてパソコンが使えるからって偉そうに!俺は俺のやり方でやってるんだ!指図すんな!」と激高していた……のを思い出してしまった。


 あの時のおっさんの気持ちが、今の私、すごいわかるよね。だから「偉そうだな!テメーの言うことなんか聞いてやらねぇよ、バーカバーカ!」と返信しようと思ったけど、やめた。


 悠人にボロ雑巾のように見捨てられてショック冷めやらぬ今日この頃なのに、その上葵からも見捨てられたら……ほんと、どうしていいかわからなくなっちゃう。

 正直に言うと、今までも葵から何かを指摘される時、ムッとして抵抗する気持ちがわくことが多かった。で、言い返したりしてた……けど、それはね、やっぱりね、図星だったんだよね。


 だから、勇気を出して、ほら!ほら!

 すごいじゃない。私。やればできる!

 着信履歴からママに発信するため、ふるふる震える人差し指を、ボタンにタッチ!


 ワンコールで、ママが出た。

 仕事中のはずなのに。あ、昼休みか。早っ!

 緊張しすぎて、心臓がでんぐり返しを繰り返している……。


「ちょっと!六花?あんた、何度も何度も電話してるのに全く出なくて!一体何考えてるの?離婚届の不受理申出の手続きはちゃんとしたの?え?え?え?」


 ほら、やっぱり……。

 喧嘩腰じゃないかぁ。

 葵は、「おばちゃんもひどいこと言ったって反省してるみたいよ」って言ってたけどさ。嘘だよね。反省の「は」の字も読み取れないくらい、すでに色々ひどいよ……。


「いやぁ、それがさ。私、実はウツ病になって全ての気力を失っちゃって……それで、電話にも出れなくてごめんね。ほんと、離婚届の不受理申出とか、慰謝料請求とか、それどころではなくて……」

 しどろもどろに答える私に、ママは容赦ない。


「だって、それじゃどうやって生きていくっていうの?今まで専業主婦だったのに!今は無期限で離婚届を不受理してもらえるみたいだし。一旦離婚を取り消してもらって、婚姻費用をちゃんと請求しなさいよ。それができないなら、きちんと離婚慰謝料の請求。どっちか選びなさい!」


 うつ病って言ってるのにさ。何でわかってくれないのかなぁ。


「ウツ病ってね、そんな病気、ただの甘えじゃないの。大体昔から、あんたはいつもダメな子だった」


 ……それ、今必要なこと?


「意気地がないのは、あの男にそっくりよね」


 いやいや、もうパパのこと関係ないでしょって!

 ……で、長々と続くママお説教を無理やりさえぎって、私はミッション遂行。


「ママ!今の私、ウツでなにも出来ないの!わかって!でね、引っ越すのにお金がないの!全然ないの!今月末にこのマンション引き払わないといけないのに!お願い!ちゃんと働いて返すから!お金を援助してください!」


 言った!

 言いましたよ、私!


 固唾を飲む。


 電話の向こうで、母も押し黙っているのがわかる。

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