第5話

「玄関、鍵掛かってなかったよ」


 葵のやわらかい声が、弱った体にしみわたる。

 私はベッドの上に座って、ぽかんと葵を見つめるしかなかった。


 死ぬことばかり考えて思いつめていた非日常に、突然飛び込んできた日常――。

 思わず知らず、目に涙が盛りあがる。


「コンビニに行ったあと……閉め忘れた……かも」

「不用心だねぇ」

 唇をめくるように笑った葵の顔が、視界の中でぼんやりとかすんでいく。


「わーん!葵――!」


 壊れた蛇口みたいに泣きじゃくる私の頭を、葵が優しくなでながら言った。

「臭い。臭いし汚いね。ひげ生えてるよ」

 (言うことは優しくない……。)

「2週、間……近く……お風呂、入って、なくて……具合……悪くて……」

 私はえづきながら、なんとか言葉を吐き出す。ひとと話すのが、随分久しぶりのような気がする。

 葵が「サイアク!」と笑った。もっと心配しろよってムッとしたけど、葵らしいと言えば葵らしい。


「っていうか、葵、なんで……?」

「六花んとこのおばちゃんから今朝、電話があったんだよ。あんたと長いこと連絡つかないって、心配してた。私も電話してみたけど、つながんないし、ラインの既読もつかんしね。だから直接来てみた。仕事が終わらなくて遅くなったけど」

「スマホの電源……ずっと切ってるんだ……」

「サイアク!」

「ごめん……」

「別に私に謝ることじゃない」

「そっか……」


 なおも泣きじゃくる私の横に、葵がそっと腰をおろした。

「離婚したんだって?おばちゃん、あんたの気持ち考えず、ひどいこといっぱい言っちゃったって、すごい反省してたよ」

 ウッ……、

 どういう風に葵に離婚のこと打ち明けようかと思っていたのにぃ。ママに言ったが最後、個人情報はダダ漏れだわ。

「近所のおばちゃんたちも、みんな心配してるってよ」

 え……、

 近所のおばちゃんたちも知ってる!?

「町内会の会合でしゃべったとか言ってたよ」

 町内のおばちゃん全員知ってる?

 ああ、実家にはもう帰れない……。


「でもまぁ、おばちゃんもさぁ」

 葵は鼻の横をぽりぽり掻きながら、言葉を選ぶように言った。

「自分が離婚しちゃってつらい思いをしたからね、あんたにだけは幸せな結婚をしてほしいって思ってたんだよ。なのに、3年で離婚って……それも自分の時と同じで一方的に捨てられたっていうんで、あまりにつらすぎて現実を受け止めきれず、感情的になってしまったっていうか……」

「勝手だよね」

 私は渇いた声で言った。


「勝手だね。でも、親ってそんなもんでしょ。今は死ぬほど後悔してるよ。っていうか、おばちゃん、本当に死にそうな感じだった。おばちゃんにとってあんたはたったひとりの娘なんだから。連絡してあげなよね」

「死にそうなのはこっちだよ。本当、本気で死のうかと考えてたんだ……」

 離婚ごときで?と笑われるかと構えていたら、葵は意外にもしんみりとした顔で、「わかるよ」とうなづいた。


「わかるよ、つらかったね。よくひとりで、耐えた」

 あまりに葵の声が温かすぎて、そしてその目が優しすぎて、私はまたしても涙腺が緩んで号泣してしまった。

 そんな私の背中を、葵はずっと撫でてくれていた。


 友達って……親友って大事。

 もしかしたら、空気の次に大事かも。恥も外聞もなく人前で泣くって、人生でそれほど多くあるわけじゃないけど、これも長い付き合いの葵だったから出来たことだ。今まで自分の都合で見下したり、わざと離れたりしたこともあるのに。寄り添ってくれるこのありがたさ……。

 これからはもっと友達を大事にしようって、心から思った。


 ひとしきり泣いて落ち着くと、なんだかすっきりしていた。


「涙って浄化作用があるんだよ。だから、つらい時や悲しい時は、我慢しなくて泣いた方がいい」

 葵が言った。

「私、パパがいなくなった時も泣かなかった。爺ちゃんが死んだ時も、悲しかったけど涙が出なくて。みんなが泣いてたから無理やり泣いたけど、今考えればウソ泣きだったような気がする」

「本当の感情を出せないのは、キツいよね」

「キツいのかな……?よくわかんないや。でも今思い返せば、小さい頃から今までずっと、なんか私、つらかった。なにがつらいかって言われたら……わからないけど。生きることそのものが、つらいっていうか?生きづらいっていうか?離婚のせいでつらいとかじゃなくってさ。頑張ればどうにかなるって必死に頑張ってきたけど。結婚生活も幸せだと思い込んでいたけど……実際は色々とイラつくこと多かったし。常に緊張してたっていうか……」

 訳わかんないこと言っちゃったと思ったけど、葵は「わかるよ」とつぶやいた。


 それから私は、運命の離婚の日から今日までのことを、ぽつりぽつりと葵に語った。葵は私のかたわらで、いつになく真剣に私の話を聞いてくれた。


 小鳥の鳴き声で朝がきたことに気づくまで、私は話し続けた。


 夜明け前の一番暗い空は、気づかないうちに明るく澄んだ青空に変化していた。そしてその青空のように……とまではいかなかったけど、私の気持ちもずいぶん晴れていた。


「要するに六花は、半強制的に離婚させられて悠人さんに対して怒り狂っていたけど、怒り疲れてからは無気力のウツ状態になり、その後に自分責めが始まって、死にたくなったと……」

「短くまとめすぎだけど。そうかな」

「まあ、典型的すぎる感情の変化よな。離婚あるある。自分責めで一通り落ち込んだら、また相手に対する怒りがわき出てくるってフェーズに戻るから、大体」

「なんだよ、それ?」

「心理学だよ。無気力とか自分責めより、怒りの感情の方が健全なんだよ。怒りを原動力にパワフルに働いてるひともいるくらいでさ」

「へぇ、そういや私も怒り狂ってる時は確かにめちゃめちゃ働いてたわ」

「まぁ、怒りは覚せい剤みたいなもんで、ずっと怒り続けてたら廃人になって死ぬけどね。老けるの早いし」

 葵は趣味が人間観察という変態なので、こういう自説は本当か嘘かわからないながら妙な説得力がある。


「それで、引っ越すにもお金がないと」

「そうなんだ」

 それが私にとって目下、一番の問題。

「どうしていいかわかんなくて。もうどうしようもなくて……専業主婦だったから私、カードローンとかも借りれなくて。だからもう、死ぬしかないってところまできちゃって……」

「バカじゃないの?」

 葵は私の切実な訴えをさえぎるように、吐き捨てた。


「ないなら、あるひとからもらえばいいだけじゃん」

「どういうこと?誰が私にお金くれるっていうの?お金とか、ちょうだいって言ってもらえるもんじゃないでしょ!」

 葵はあっさりと言う。

「困った時にまず頼るのは、親でしょ。おばちゃんからもらいなさいよ」

「なに言ってんの!ママからはもらえないよ!」

 びっくりして、思わず声が裏返る。


「ママにはずっとお金の面では苦労掛けてきたし、結婚する時もかなり援助してくれたんだよ。向こうの……悠人の親と同等のことをしてあげたいって。ひとり親なのにさ。これ以上ママには頼れないよ。そもそも頼れるほどお金ないから、ママは。介護士って、そんな稼げない」

 私は必死に言葉を重ねて、葵に反論する。だけど葵は、私の反論をめんどくさそうに聞いているだけで……。


「おばちゃん、今は老人ホームの施設長やってるでしょーが。子供に援助するくらいのお金はあるよ」

「でも、でも、ママがキツイキツイって言いながら身を粉にして働いてためたお金をせびるなんて、私にはできないよ。ろくに服も買わず、外食もせず、こつこつためてきたお金だってこと知ってるから。それはママの老後の資金な訳だし」

「おばちゃん、まだ50ちょっとでしょ。老後なんてだいぶ先の話じゃん。とりあえずもらっといて、あんたが立ち直って働きはじめたら返せばいい」

「そんな……OLしてた時も、実家だからなんとかできたくらいのお給料だったのに。独り暮らししながら借金返せるような仕事に、就けるような気がしない」

「なんであんたは、未来の可能性を自ら狭めるのよ。バカだよバカ!返せる自分になるって決めればいい。仕事なんて、いくらでもあるんだから」

「決めたからって、できるもんじゃないでしょ。できる気がしないし……」


 あんまりグチグチ言っていると、突然葵がブチ切れた。


「うるさい!四の五の言うな!」


 ビクッとなる。

 葵が怒ると怖いんだ。

 ほんと、ママに怒られてるような気になる。


「あのねー、引っ越し費用がないくらいで娘に自殺されたら、おばちゃんもう二度と立ち直れないよ?子供がピンチの時には頼ってほしいって思うのが母親ってものだから。……まぁ、そうじゃない母親も世の中にはいっぱいいるけど。あんたはおばちゃんに頼っていい。私が保証する」

 そして葵は、まっすぐに私の目を見て語気強く言った。

「まず、ミッション1。明日までにおばちゃんに電話して、金もらえ。もらえるだけもらえ」


 ミッション?

 なにそれ?

 なんで突然ミッション・インポッシブルはじまる???

 「唐突すぎ!なんなの?」


「あんたはだいぶ認知に歪みがあるようだから、ほっておけない。私がしばらくの間、陰であんたを操ることにする」

 葵は急に立ち上がって、腰に手を当てて宣言した。


 操るってなんだ?

 なんかちょっと……話が不穏な方向に向かってないかしら?

 若干不安。


「文句ある?」

「……ない」

 葵の勢いに負けて、即答してしまう。


「じゃあ、明後日の夜また来るから。それまでにきちんとミッションをクリアして、私に報告すること」

 葵はそう告げると、急に眠そうに目をこすった。

「私はこれからタクってアパート戻って、仮眠してから出社するわ。ネム……」

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