第4話 世界最後の日

「人間は、死んだらどうなるというのだろうか?」

 よく、アニメや映画などで、

「世界最後の日」

 というイメージのものがあったりする。

 まるで、聖書の中の、

「ノアの箱舟」

 と、

「ソドムとゴモラ」

 の話を組み合わせたような感じである。

 ソドムの村は、完全に、

「無政府状態で、荒くれ者ばかりのいる街」

 になっていたので。

「そこで囚われていた人を助けて、遠くに逃がしておいて、その間に街を破壊する」

 という話であった。

 しかし、その時、助けた人と逃げる際中、助けてくれた人に、

「決して、何があっても、後ろを振り向いてはいけません」

 という、いわゆる、

「見るなのタブー」

 という話をされたのに、音が気になってしまい、結局、後ろを振り向いたことで、

「塩の柱」

 になってしまったのだ。

 この場合の、ソドムの街の悪いところは、

「神を信じない」

「性的に乱れていた」

「貧富の差が激しく、裕福な人は、決して貧しい人を救おうとしなかった」

 という理由が、

「街を滅ぼす大義名分」

 だったのだ。

 その時に、街が滅んだ理由として、

「硫黄の火に包まれた」

 ということになっているが、これは、核爆発をイメージさせるものであった。

 しかも、この時、神と、人間の代表の話の中で、最初に神が、

「50人でも、善人がいれば、その50人のために滅ぼさない」

 と言った。

 そして、代表者が、

「じゃあ、10人しかいなかったら?」

 と聞くと、

「じゃあ、その10人のために、滅ぼすことはしない」

 と言った。

 しかし、結局、善人が10人もいなかったことで、神は、容赦なく、草木に至るまで、すべてを滅ぼすことになったのだ。

 そういう意味では、街を包んだ、

「硫黄の火」

 も怖いが、それ以上に、

「神を怒らせると、どういうことになるか?」

 ということの方が恐ろしいのだ。

 それこそ、情け容赦なく、すべてを滅ぼす。それが、神だったのだ。

 それは、さらに、さかのぼる、

「ノアの時代」

 にも言えることであろう。

 ノアの箱舟の場合は、神が、自分で作った人類の堕落を嘆き、聖地を洗い流すことで、浄化するということを考え、選ばれし、ノアという人物に箱舟を作らせ、40日40夜、洪水の中を彷徨わせ、最終的に、彼らが、人類の祖先ということになった。

 それがノアの話であるが、

「よほど神というのは、人類の悪に対して敏感で、正しい道にないといけないということを説いている」

 ということであろう。

 そんな、

「ソドムとゴモラ」

 と、

「ノアの箱舟」

 を合わせたお話が、よくある、

「世界最後の日」

 せあったり、

「世紀末伝説」

 のようなものだったりする、

 たぶん、前述の、

「ソドムの村」

 を襲った、

「硫黄の火」

 というのは、いわゆる、

「核爆発ではなかっただろうか?」

 ということである。

 過去の、しかも、古代に、起こった核爆発のようなものは、

「ひょっとすると、巨大隕石が地球に激突したのではないか?」

 ともいわれているが、大洪水であったり、巨大隕石の衝突であったとしても、そんな伝説が蔓延っていた時代だったのかも知れないということを考えると、

「古代にも、それなりに、世界最終という考えがある程度根差したものとなっていたのかも知れない」

 と思えるのだ。

「地球の破滅は、近々迫っているかも知れない。それを、神のせいだ」

 ということにすることで。どういう意味があるというのだろうか?

 そもそも、このような伝説を文字として残そうという考えだったのだろうか?

 今の人間であれば、少なくとも、自分が生きているこの時代のこと以外を考えることはないだろう。

 何かを書き残している人、古代から、膨大な歴史書なるものがあるが、それが、本当に、未来の人間に対して、警鐘として残しているのかは分からない。

 確かに、自分のところの家系に対しては、

「ご先祖様が書き残した」

 ということで伝わっているものが多いし、

「子々孫々に至るまで」

 という言葉がハッキリと書かれているものもあるだろう。

 つまりは、歴史書が、本当に未来の人間のために書き残されたものなのかどうかということによって、その信憑性は変わってくるというものだろう。

 昔の人が未来の人に対してどのような思いを持っていたのかというのは、難しいところである。

 現代だってそうではないか。

 今の時代は、

「少子高齢化」

「地球温暖化」

 などと、無視できない大きな問題があるが、果たして、

「どこまで未来の人間のために」

 ということを、どれだけの人間が考えているか? などということは、実にあやふやである。

 普通であれば、

「死んでしまえば、後のことは知らない」

 せめて、自分の子供の世代まではということは思っても、それ以上のことは考えないであろう。

 何といっても、確かに自分たちの生活が豊かになるために、地球環境を破壊してきたといっても、

「そんなの、皆でやったことで、俺だけのせいじゃない」

 と思うと、自分だけが、未来のために、いくら努力をしても、他の人がしなければ、すぐにバカバカしくなって、何もしなくなることだろう。それがいわゆる、

「集団意識」

 であって、そのことが、自分だけの問題ではないのに、誰も真剣に考えていないということが分かると、

「俺だけがんばったって」

 ということになるのだ。皆が皆それに近い性格なのだから、どうしようもないのも当然というものだ。

 それでも、何とかしようというポーズをとるのが政治家くらいだろう。

 だが、政治家というものほど、一番あてにならないものはない。

「考えていることは、自分の保身と出世のことばかり」

 大げさでも何でもないことである。

 出世と、欲のために賄賂を貰って、それがバレた時、国会答弁では、

「記憶にございません」

 という言葉を果てしなく繰り返すだけである。

 そういえば、許されるわけでもないのに、そればかりを連呼して、相手が、作戦を変更するまでそれを言い続けるのだ。実に都合のいい言葉である。

 さらに、

「自分が悪いことをしているのであれば、総理大臣ところか、国会議員も辞める」

 と言った、元ソーリがいたが、結局、そいつのせいで、責任を取って、自殺をさせられた人がいたではないか。

 何の責任なのか分からないが、自殺をさせられた人はたまったものではない。

 奥さんが、

「ハッキリさせろ」

 ということで裁判を起こしたが、結局、訴えられた方は、

「すでに、事件は解決済み」

 として処理された。

 しかも、

「そのことをハッキリさせる」

 といって、総裁選に勝利し、総理大臣となった、今のソーリも、結局、その元ソーリに、

「首相にしてもらった」

 という恩義があるからなのか、

「公約だった。この疑惑を晴らす」

 ということを一切やらずに、この元ソーリの、犬になってしまったのだった。

「しょせん、政治家というのは、そういう連中ばかりで、自分のことしか考えていない」

 といっても過言ではないだろう。

 それを考えると、

「日本の政治家なんて、あてにならない」

 と思うのは当たり前だろう。

 かといって、世界の政治家がいい人ばかりかというとそうでもない。結局。

「どこに行っても、政治家というのは、同じ人種だ」

 ということであろう。

 それで世界がよくなるわけはない。どんどん危険な方に足を踏み入れている。しかも、科学は発展し、下手をすれば、

「一発で、地球を吹っ飛ばすくらいの兵器を、どこの国も持っているかも知れない」

 ということなのであろう。

 だから、あの物語の、

「核爆発によって、地球が滅亡する」

 という話も、まんざらでもなく。そこで思い出されるのが、

「ソドムとゴモラ」

 あるいは、

「ノアの箱舟の話」

 であり。結果、

「人類は生き残ることができる」

 ということであった。

 地球上において、

「生き残った人類がサバイバル生活を行いながら、逞しく生きていく」

 という話なのであるが、実際に、どこが、

「心を打つのか?」

 ということが正直分からなかった。

「サバイバルサスペンスモノ」

 ということで、あくまでも、生き残りに対して、格好のいい主人公が戦う姿を描いた作品なのか、

「人類が逞しく生きていく」

 ということをテーマにした作品なのかが分からなければ、読んでいても、見ていても、その楽しみは分からないだろう。そういう意味で、京極はこの話を、楽しい、面白いと思って見たことはなかったのだ。

 そんな、

「世界最後の日」

 と呼ばれるような、小説やドラマでは、その後、人類は直面するのは、

「核兵器の突然変異」

 というもので巨大化した生物だった。

 人間が、生き残れたのは、いうまでもなく、

「核シェルター」

 というものを使うことで、地表が破壊されても、地底は大丈夫だということで生き残った人たちだ。

 地表は、当然生きのこった人はいないだろう。核爆発で生き残れたとしても、その後に蔓延する放射能の中で、人間は生き残れるわけはないのだ。

 さらに、生き残れたとしても、食料がない。おそらく、まともな水もないだろう。さらには、前述の、突然変異をした動物に襲われてしまうかも知れない。

 いや、人間自体が、突然変異で、巨大化してしまうかも知れないではないか?

 と考えると、京橋は、一つ不思議なことを考えた。

 というのは、

「突然変異ものをすると、なぜ、巨大化しか発想が行かないのだろう?」

 ということであった。

 突然変異で、小さくなるということはありえないのだろうか?

 という発想なのだが、これはあくまでも、想像であるが、

「ドラマを面白く演出するには、大きくするしかない」

 という発想からなのではないかと思うのだった。

 そういえば、昔の特撮ヒーローものの、例の、

「血を吐きながら続けるマラソン」

 の回の怪獣だって、巨大化したという設定ではなかっただろうか?

 というか、あの回の発想には、かなり無理があった気がする。

 というのは、例の怪物になった生命体であるが、

「細のあったところから、地球に一直線に向かって飛来する物体があります」

 と、地球防衛軍のレーダーが捉えているではないか?

 何がいいたいのかというと、

「そもそも、その宇宙怪物は、復讐にやってきたというが、どうして、地球が撃ち込んだミサイルによって、母性が破壊されたということが分かったのだろうか?」

 という疑問である。

 元々は、地球でいうところの、下等動物だったのだろう。

「生物はいない」

 と目されたところに実は生物がいた。

 その生物が、地球に復讐にやってきたという設定だったはずだ。

 本来であれば、地球が悪いのだから、何らかの制裁を受けなければ、教育的にはよくないだろう。

 しかし、地球が危険だからといって攻撃し、まるで侵略者のように、やっつけようとする。

「地球に飛来した怪物は、放射能を吐きながら、東京に迫っている」

 という。

 ここで不思議なことが出てきたのだが、

「なぜ、東京なのだ?」

 ということである。

 これを考えると、この特撮ヒーローものの話は、基本、

「宇宙からの侵略者を、宇宙からやってきた、正義のヒーローがやっつけてくれる」

 というのがテーマだった。

 そもそも、地球には防衛軍が存在し、最新鋭の武器を元に戦う戦士たちがいるのだが、ほとんどの場合、地球防衛軍では、侵略者たちには、歯が立たないので、そこで、正義のヒーローが現れて、侵略者をやっつけてくれるというものだった。要するに、

「地球防衛軍は、悪い言い方をすれば、役立たずということだ」

 そのうちに、防衛軍も、闘いながら、

「早く、ヒーローが出てきて、侵略者をやっつけてくれないか?」

 と思っていたかも知れない。

 だが、実際にはそうもいかないのだ。

 ここで、さらに、こじつけのような疑問であるが、

「そもそも、憲法9条が存在する日本という国が、世界連邦という発想だちはいえ、その支部のようなものを、日本に築いてもいいのだろうか?」

 ということである。

 確かに、

「地球上の国を相手にするわけではなく、地球全体の平和を守る」

 という意味であれば、日本に、防衛軍基地があっても、不思議ではない。

 しかし、今の法律を考えると、

「果たして、防衛軍基地にいて、実際の戦闘をするのが、日本人でもいいのだろうか?」

 ということである。

 今であれば、自衛隊も国際協力に赴いたり、

「憲法改正」

 という話も出て、自衛隊の存在明記の問題もあるので、それに関わるということで話も通じるのだが、昔の1960年代後半であれば、日米安保も落ち着いている時代なので、ある意味、一番、

「憲法9条に関しては、遵守した考えを持っていた時代だったのではないだろうか?」

 と言えるだろう。

 そうなると、基本的に、日本国内で軍としての効力を持っているのは、日本国内に展開している、

「米軍基地だ」

 ということになる。

 それを考えると、

「日本国内の地球防衛軍基地というのは、外人による運営ではなければいけないのではないか?」

 ということになる。

「日本人が地球防衛軍の軍人となるのは、憲法9条違反ではないだろうか?」

 という発想になってしかるべきではないか?

 という考えである。

 しかし、あの話を、

「SFものだ」

 という発想に立つと、確かに、日本という国を舞台に、地球防衛というテーマになってはいるが、

「実際には、同じ次元の同じ時間に存在している並行世界である、いわゆる、パラレルワールドではないか?」

 ということにしてしまえば、

「憲法9条違反ではないか?」

 という抗議になった場合、逃れられるとでも思っていたのかも知れない。

 何と言っても、テーマ的には、子供番組なのだ。子供相手に、

「憲法9条問題」

 を話しても分かるはずもないし、地球防衛軍がそもそも外人部隊だったとすれば、一生懸命に見るということもなく、視聴率はほぼないに等しいと思っていたのであろう。

 外人を俳優に使って、吹替ならまだしも、字幕などになってしまうと、完全に大人の番組と化してしまう。それでは、せっかくの、子供向けテーマがブレてしまうことになる。そうなると、子供だけでなく、大人も見ないだろう。

 結局。子供向けということにしておいて、

「大人も楽しめる番組」

 ということにして始めたのだが、最初の視聴率はそれほどよかったわけではないのかも知れない。

 実際に、再放送をしていくうちに、本放送を見た時、子供だった人が、大人になってから、再放送を見て、

「ああ、大人になって見ると、こんなに深い番組だったんだ」

 ということになるだろう。

 もちろん、それを製作者側が狙ったわけでは絶対にない、本放送の時に視聴率が稼げなければ、まったく意味がないからだ。

 実際に、この番組には、

「子供だから、あまり気にしない」

 というシチュエーションが結構あったりする。

 基本路線としての、

「宇宙人が地球を侵略にくる」

 ということであるが、

「普通、相手に戦争を仕掛ける場合、軍を編成してやってくるのが、普通ではないだろうか?」

 と考えるであろう。

 しかし、番組を見る限り、

「軍を率いている」

 とは、到底思えないのだ、

 というのも、相手の侵略してくる宇宙人が、例えば、作戦を見破られたとして、地球人を姿になっていた。

「宇宙人が、巨大化し、自分の温頼の怪物の姿になり、そして、正義のヒーローと戦う」

 ということなのだが、ここで、

「なぜ誰も不思議に思わないのか?」

 ということであるが、

「なぜ、1対1になるのか?」

 ということである。

 まあ、最初は一人目が様子見に戦闘を開始するというのであれば分かるが、ヒーローにやっつけられて、

「これは勝ち目がない」

 といって、宇宙船で逃げ出そうとすれば、正義のヒーローが、

「逃がすか」

 とばかりに飛んで行って、とどめを刺し、侵略行為を未然に防いだということになるのだろうが、この場面では、いくつかのおかしなことがある。

 まず、宇宙人は、なぜ、そそくさと逃げ帰ろうとするのかである。

 宇宙船ということは、無人宇宙船でのない限り、一人はいたはずだ。それなのに、味方がやられるのを、何もせずに見ていたということであろうか?

 せめて、援護の攻撃くらいしてもしかるべきだし、宇宙船に、どれだけの宇宙人が載っているのか分からないが、その連中が束になって攻撃してくれば、さしもの、正義のヒーローも負けてしまうだろう。

 何を、もったいぶって、

「味方を見殺しにしてまで、逃げ帰ろう」

 というのだろうか?

 一つ考えられることとすれば、

「地球を侵略に来たということで表に出てきた宇宙人は、実は母星では、奴隷であったり、犯罪者ではないか?」

 ということである。

 地球侵略に貢献すれば、

「罪は許される」

 あるいは、

「奴隷から解放される」

 ということであるならば、

「一人で戦った」

 ということも、

「見殺しにした」

 ということも、彼らの星の理屈からいえば、ありえないことではない。

 だとすれば、

「奴隷制度など、実に卑怯ではないか?」

 ということになるのだろうが、果たして、そう言い切れるのだろうか?

 地球人だって、長い歴史の中で、

「奴隷を使ってきた時期が相当あったではないか?」

 ということである。

 今から、100年前くらいであれば、まだ奴隷がいた国だってあっただろう。

 あのアメリカだって、250年前くらいまでは、奴隷制度が当たり前だったではないだろうか?

 それを思えば、地球人に奴隷制度をとやかくいう資格はないのかも知れない。

 ただ、もう一つのこのドラマでの疑問であるが、

「なぜ、正義のヒーローは、宇宙船で逃げ出した宇宙人を、追いかけてまで、撃墜しなければいけないんだ?」

 ということである。

 子供だから、

「侵略者は悪い連中だから、根絶やしにしないといけない」

 という理屈だったということか?

 もし。そうだとすれば、ゆゆしき問題だといってもいいだろう。

 これも、憲法9条に真っ向から逆らっている発想だからである。

 なぜなら、

「相手の宇宙人が逃げ出したということは、地球侵略を、諦めたということである」

 確かに、最初は、地球侵略を考えて、地球に来たということであるから、悪い相手ということであろう。

 しかし、戦いを放棄して逃げ去っていく相手を追いかけてまで、殲滅する必要があるだろうか?

 特に日本は、

「専守防衛も国」

 だということで、襲ってきた相手を、

「防衛」

 という形で倒すことはできても、少なくとも、自国の領土から離れた相手を領域外まで追いかけて、攻撃することは許されないはずだ。

 ということは、このドラマは、憲法9条に、

「真向から、挑戦している」

 ということになる。

「いや、これが最初からの、見えていない隠れたテーマだったのかも知れない」

 と考えることもできるかも知れない。

 そもそも、ドラマとして、一話完結の中のその話のテーマは絞られているのだが、全体的なテーマがぼやけてしまうのは、そういう細かい設定に、かなり無理があるからではないだろうか?

 しかも、ドラマの設定が、あくまでも、

「宇宙人が攻めてくるのは、いつも日本だ」

 ということなので、それに対しても、なぜ、誰も疑問を呈しないのだろう?

 相手は、世界にたくさん国があって、わざわざ日本に最初に来るというのか?

「地球の代表だというのであれば、ニューヨークや、モスクワなのではないのか?」

 と思うのだが、そこは子供番組、日本でないと、辻褄が合わないことが多いというよりも、

「誰も見ない」

 ということになるからだろう。

 これが、1960年代後半の特撮ヒーローものの番組である、

 番組は、前述のように、

「一話完結編」

 となっている。

 ただ、テーマとシチュエーションは、毎回一緒だ。

「地球は、絶えず宇宙人から狙われていて、そのために、地球防衛軍というものが結成され、最新鋭の兵器で地球を守る」

 という、

「宇宙からの侵略者専門のエキスパートとしての軍隊を、世界規模で形成した」

 ということである。

 しかも、話は、地球防衛軍は存在するが、その戦果に関しては、一切触れられていない。

 防衛軍は存在し、その隊員に対しての話は、初回に、ナレーションとともに聞くことはできるが、

「今まで、何度の宇宙からの侵略があり、防いだのか?」

 ということが一切、語られていない。

 今も地球が無事で、普通に防衛軍が機能しているということは、少なくとも、

「宇宙人に侵略を許してはいない」

 ということになる。

 それは当たり前のことであり、

 もし、侵略を許していれば、今、地球は植民地化されていて、奴隷になっていてもおかしくはない。

 ただ、正義のヒーローが、地球防衛軍の隊員として潜り込んでからは、少なくとも、相手の宇宙人を、地球人だけでは撃退することができないということになっているではないだろうか?

 それを考えると、ドラマの始まりは、

「実に都合のいい」

 といってもいいだろう。

 もし、正義のヒーローがいなければ、第一回目で、地球は占領されて、

「○○星人の植民地になってしまった」

 ということで、終わってしまうだろう。

 まだ、何十話もあるのに、それでは話が続かない。

 もっとも、占領された地球を、

「正義のヒーローが侵略者から救い出す」

 という形の話であれば、ありえないことではない。

 ただ、それでも、話が、さらにカオスになり、ややこしい展開となってしまうので、子供に理解などできないだろう。

「大人向けの映画であれば、ワンチャン、奇抜なストーリーということで、話が膨れ上がったとしてもおかしくはない」

 と言えるのではないか。

 しかし、実際には、そういうストーリーも大人向けで出てくることもない。やはり、この設定を子供向けにした以上、少々辻褄が合わなくても、

「子供番組」

 ということで押し切るしかないだろう。

 脚本家などであれば、全体のテーマに抵触に関係なく、

「一話完結」

 ということで、話を膨らませることはできるが、プロデューサーであったり、演出などとなると、そうもいかないのではないだろうか?

 確かに話としては、うまくできている。大人になればなるほど、話の深みを感じることができて、

「これは名作だ」

 と、思うようになる人もかなりの一定数いることだろう。

 しかし、その中で、矛盾に感じる人がどれだけいるだろう?

 そういえば、この時代の特撮やアニメなどの番組の、

「矛盾をつく」

 というような本が、いくつか出版されていたこともあった。

 しかし、この特撮番組に関してはなかったような気がする。

 もっとも、矛盾を突くというよりも、

「研究の中で見つけた矛盾」

 というものであった。

 この特撮番組は、果たして、

「研究しなければ、分からないような内容なんだろうか?」

 ということであるが、考えてみれば、アニメなどの研究本も、よく見てみると、

「ちょっと考えれば思いつく」

 というような内容のものが結構あるのではないだろうか?

 と言えるのだった。

 そんなことを考えていると、

「一つの番組の中に。どれほどの矛盾や、おかしなところがふくまれているのか、それを研究という形で浮き彫りにするのも、結構面白い」

 ということになるであろう。

 そんなことを考えていると、

「世界最後の日」

 という映画も、冷静に見てみると、確かにおかしなところが多かったりする。

 前述の、

「放射能の影響での突然変異が、なぜ巨大化だけしかないのか?」

 というのも、その一つの考え方であろう。

 それを思うと、今度は、

「人間の心理の中にも、矛盾のようなものが潜んでいるのではないだろうか?」

 ということが考えられるのである。

 一つ考えられるのは、

「そんな生きるだけで、大変の時代で生きていくことを、最初から望むだろうか?」

 ということである。

 特にこんな恐ろしいと思えるようなドラマを見せられて、

「だったら、核戦争のような愚かなことを起こさないような、警鐘のための映画なのではないか?」

 ということであれば、この映画のテーマも分かってくるというものだ。

 しかし、人間というものは、そんな製作者側のことよりも、まずは、自分に照らし合わせて見るものだ。

 それを考えれば、この話を自分目線で見れば、まず考えることとして。

「自分だったら、こんな恐ろしい世界でも、生きていたいと思うだろうか?」

 ということであった。

 なるほど、出てきた連中は、皆生きるということに必死になっていて、余計なことは考えていないようだ。

 しかし、これは、

「平和ボケ」

 をしている日本人だから感じるのかも知れないが、

「あんな恐ろしい世界になって、いつ殺されるか分からないような、そんな恐ろしいモラルも何もない世界で生きていくくらいだったら、皆と一緒に、世界最後の日を迎えればよかった」

 と思うことだろう。

 話は違うが、浦島太郎の話を思い出すのだが、あの話は、(伝わっている話として)ラストでは、竜宮城から戻った浦島太郎は、その世界が、自分の知っている人の誰もいない700年後の世界だということで、大きなショックを受けるではないか。そして、ショックのあまり、竜宮城からもらってきた玉手箱を開けて、お爺さんになったという話だったではないか。

 確かにショックだろう。それまで竜宮城で、3日だったか、まるで、

「この世の春」

 を満喫した人間が、元の世界に戻ると、別世界だったわけなので、この、

「天と地ほどの差」

 には、まるで、

「奈落の底に叩き落された」

 というような意識が働いたに違いない。

 それを思うと、明らかに、浦島太郎は、

「生きる気力を失った」

 ということであろう。

「地球最後の日」

 という話でも、シェルターで生きながられたとしても、結局、

「ラストシーンでの浦島太郎の心境」

 になるのではないだろうか?

 「シェルターからはいつ出れるか分からない」

 なぜなら、地表をまだ放射能が覆っているからであり、地表に出たとしても、そこに広がっているのは

「地獄絵図」

 でしかないのだ。

 自分が知っている人は誰もいない。

 自分の知っている人だけではなく、生存者などいるわけはないのだ。いたとすれば、突然変異をした、

「人間ではない人間」

 ということになるだろう。

 当然、食料のない。何しろ、しぇるーには人間と、一定の期間の食料しかないわけである。

「食料が尽きれば、皆飢え死にしてしまう」

 のは明らかだ。

 何か食物になるものは、地表にしかなかったのだ。動物も植物も地表にあったものは皆死滅しているだろう。それこそ突然変異は別だが。しかし、その突然変異を食べれるかどうかも分からない。下手をすれば、食べられるのは、人間の方なのかも知れない。

 要するに、自然界の摂理は完全に崩壊しているのだ。そもそも、自然界などというものは、もう存在しない。それもこれも、人間というものが、自分というものの保身に走るためには、

「何をしてもいい」

 という考えが根底にあるから、このような惨劇が起こってしまったということである。

 こうなってしまった以上、

「誰が悪い」

 というのは滑稽な話で、生き残った連中は、それこそ、生きるために、明日をも知れぬ世の中に身を置くことになる。

「あのまま死んでいた方が幸せだった」

 という発想も当然のことであり、誰も、そのことに答えを出してくれる人はいないだろう。

 何しろ、

「答えなどない」

 ということになるのだろうから……。

「実際に、あの場にいたら、どんな気持ちになるだろう_」

 ひょっとすると、

「生きててよかった」

 と思うかも知れないが、正直、想像を絶するような光景を目の当たりにすれば、間違いなく、

「死んだ方がよかった」

 と思うのではないかと感じるのだ。

 というのも、

「生きていくには、何かの目的がなければ、生きていけないのではないか?」

 と感じるからだ。

「生きたい」

 と単純に思うことももちろんのことだが、それ以外に、

「生きる価値」

 のようなものがあってしかるべきではないだろうか?

 生きるということはそういうことであり、何か意味がなければ、なかなか継続する気分にはなれないだろう。

 そう、

「生きていく目標」

 というものには、

「継続性」

 というものが必要なのだ。

「一日でも生きられればそれでいい」

 という感情を持つ人はまずいないだろう。

 平和な時代であれば、

「生きることは当たり前だ」

 ということになるのだろうが、そんな時代であればこそ、

「生きていく意義」

 というものが、ハッキリしていないと、生きることはできないのではないかと思う。

 ほとんどの人は、

「それを、無意識に持っている」

 ということではないだろうか?

 その目標は、

「受験に合格する」

「何かの資格を取る」

「選手権で優勝する」

 などいろいろであるが、一つ言えることは、

「達成することが問題ではない」

 ということだ。

 達成できなくても、目標があれば、次を目指すことができる」

 ということだ。

 受験などで、一度失敗したことで、自殺を考えてしまうという人もいるだろうが、

「また、一から目指せばいい」

 と思う人もいる。

 だからと言って、死んでしまった人を、

「意思が弱い」

 と果たして言い切れるだろうか?

 そのあたりの問題もあるのだろうが、ただ、言えることとしては、

「目標目指して頑張る」

 ということが、生きる支えであり、目標となるのだ。

 ある意味、目標を達成することよりも、目指す方が、大変で難しいことなのかも知れない。

 なぜなら、そこには、

「継続」

 という問題が絡んでくるからだ。

 継続を意識してできるのは人間だけである。そういう意味で、難しくもあるし、

「人間だけに与えられた特権」

 ともいえるであろう。

 そういう意味で、

「継続は力なり」

 とはよく言ったもの。

 モットーにしている人が多いのもうなずけるというものだ。

 そんな、

「継続」

 であるが、世の中には、

「家を守る」

 という風習が、昔から、当たり前のようにして存続してきた、

 これも、一種の、

「継続」

 ということなのだろうが、継続することの意義を知らなければ、たぶん、

「家を守る」

 と言われてもピンとこないだろう。

 過去の歴史を考えても、

「お家断絶」

 あるいは、

「改易」

 などということで、自他に関わらずの理由で、継続できなくなることが、大いにあるというものだ。

 だが、今の時代は、核家族化が進んだことで、

「核家族が当たり前だ」

 ということになっている。

 世界的にも長寿番組で知られるアニメは、大家族を想定した話となっていて、今の時代には考えられない状態である。

 その理由は様々考えられるが、一番大きな理由として考えられるのは、2つではないだろうか?

 一つは、

「会社などの事情でやむを得ない」

 というものだ。

 サラリーマンなどになり、全国展開している会社に就職すると、転勤は、当たり前のようにあり、

「就業規則にも、会社の命令で、転属、転勤など、正当な理由がなければ、拒むことはできない」

 と普通の会社には記されている。

 その正当な理由というのも、かなり厳しいものだったりする。

「子供の学校」

 などというのは、ある意味理由にはならない。

 なぜなら、

「単身赴任をすればいいではないか?」

 ということになる。

 また、

「家族に障害者がいる」

 ということであったとしても、それは、

「介護を雇えばいい」

 などという理由を当てはめられ、その時の事情でも違ってくるが、

「転勤を断ったから解雇された」

 ということを理由に会社を訴えても、棄却されるということも、普通にあるのだった。

 そういう意味とは別に、もう一つは、

「人間の考え方が変わってきた」

 ということだ。

「旦那の家族と同居したくない」

 という人も増えている。

 もっといえば、最近は、結婚しない男女が増えてもいる。その中には、旦那や奥さんの家族と、義理の関係とはいえ、家族になるということに抵抗を覚えている人が、少なくないということであろう。

 昔のように、

「結婚適齢期」

 というものがあり、その時に結婚しなければならないなどというのは、まるで、

「都市伝説ではないか?」

 と言われるようになるまでになっているのではないだろうか?

 今がどんな時代なのか、考えれば、核家族になるのも、無理もないことだといえるのではないだろうか?

 そんな中で、本当に結婚しなくなったということが、ある意味、一番大きな問題なのかも知れない。

 確かに、

「結婚しても、どうせ離婚するんだから」

 という離婚率の高さを考え、一緒にいることの意味を見出せないのではないかと思うのだ。

 しかも、離婚した人の話などを聞くと、納得する自分がいて、

「なるほど、そんな思いをするなら、結婚などしたくない」

 と、京極も思っていた。

 というのは、京極は、最近の男の中では、若い頃から、

「肉食系男子」

 であった。

 実際には、女性を意識し始めた思春期になるのが遅かった。中学を卒業するまでは、思春期というものになっていなかったのだ。

 ただ、

「本当はあったのかも知れないが、自分で意識をしていなかったのかも知れない」

 と思っていた。

 身体の異変のようなものはあったのだろうが、それでも、他の連中に比べれば遅く。精神的には、思春期という意識はまったくなかった。

 自慰行為もしたことがなく、ムズムズという感覚もなかったのだ。正直、中学卒業までは、

「身も心も少年」

 だったのだ。

 それはまわりも分かっていたかも知れない。皆は、彼のことを、渾名で、

「坊っちゃん」

 と呼んでいた。

 親しみを込めてなのか、それとも皮肉からなのか分からなかったが、今の中学生の中には、平気でむごいことをいう人間も結構いるということであるので、これを、

「皮肉がこもっている」

 と、京極は思っていた。

「どうして皆分かったんだろう?」

 と思ったが、

「見ていて分かるものなのか?」

 と感じていたが、実際に自分がそうなって、

「ああ、これだったら分かるわ」

 と思ったのは、中学卒業と同時くらいに、声変わりを迎えたからだった。

 声変わりというのは、前から意識していたことだったが、一定期間意識していても、それが実現しないと、無意識のうちに、忘れていくものであった。

「中学生になると、声変わりをして、それを合図くらいに、思春期に入る」

 とタイミングは人によって違うが、声変わりが、思春期のイベントであることくらいは知っていたのだ。

 だから、最初は意識していたが、1年以上のその兆候もなかったので、途中から意識すらしなくなったのだった。

 だから、中学卒業とほぼ同時くらいに襲ってきた声変わり、最初は、

「風邪でも引いたかな?」

 と考えたほどだった。

 だが、そのうちに、

「これが声変わりなんだ」

 と気づくと、今度は、精神的に思春期に迎える感情が襲ってくるのだった。

 その時に、

「異性への感情」

 が、芽生えてきて、下半身がムズムズする。

 自慰行為も、人から教えられたわけでもないのに、自分なりの方法で、

「どうすれば、気持ちいいか?」

 ということを考えるようになる。

 そんな自分を顧みると、

「これが、野生の本能なんだな」

 と、いまさらながら、自分という人間が、

「野生動物と変わらないのではないか?」

 と、いまさらながらに感じるのだった。

 急に、

「大人の世界を覗いてしまった」

 と感じた。

 もし、これが他の連中と同じように、中学時代に襲ってきたことであったら、もっと違った思いになったかも知れない。

 本人としては、もっと必死に、皆に追いつきたいと思うのかも知れないが、もう皆はすでにゴールテープを切っていて、やっと自分がスタートするということで、焦りのようなものもあったことだろう。

 特に、

「異性への感情」

 には強いものがあった。

 実際にまわりでは、すでに、

「もう童貞ではない」

 という連中が結構いたりした。

 しかし、皆、童貞はすぐに捨てるという感じだが、彼女がいて、付き合っているという感覚ではない。一人の友達に聴いてみると、

「ああ、俺はもう童貞ではないよ。先輩が女をあてがってくれたんだけど、初体験をした時は、ああ、こんな感じなのかなって思っただけだったな。だけど、そのお姉さんが、とにかく眩しくて、他の同級生の女の子が、しょんべん臭いガキにしか見えなくて、やる気になれないんだよな」

 といっていたのだ。

 まだ童貞の京極には、その気持ちはよくわからなかった。だが、そんな京極にも、先輩が女性をあてがってくれて、そのお姉さんのおかげで、

「無事に童貞卒業」

 ができたのだった。

 最初は、確かに友達のいうように、

「ああ、こんなものなんだ」

 と、正直、落胆のようなものがあったのも事実だったが、またすぐにやりたくなってきた。

 友達の話とは少し違ったのだ。

 ちょうど、その頃彼女ができて、会うたびにセックスをしていた。

「まるで相手の身体をむさぼるように」

 というのが、本当のところだろうが、だからと言って、むやみやたらに自分の欲望をぶつけるようなことはなかった。

 むしろ、相手の女の子を、

「腫れ物に触る」

 というような、可愛がり方をしたものだ。

 だからと言って、相手のことを思ってというわけではない。

「触るか触らないかのような微妙なタッチの方が、より女性の反応が激しいということが分かったからだ」

 ということであった。

 自分の欲望に任せて相手に強引な態度を取ると、相手は痛がるだけで、こちらが想像しているような、艶めかしさを、表してくれるわけではない。

 男の方も、女のそういう態度に興奮するのだ。それが分かっていないと、絶対に後悔することになるに違いない。

 それを思いながら、女性を愛でていると、相手もこちらに身を任せようとしてくれる。「それが、安心感というものなのだろう」

 と思うと、

「女性は、安心感を持っていないと、あからさまに感じてはくれない」

 ということを、いまさらながらに感じた気がした。

 といっても、いまさらながらというほど経験があるわけではない。

 それでも、そんな風に感じるのは、

「思春期への突入時期が、遅かったからなのかも知れない」

 ということであった。

 そんなことを考えていると、不思議と女性にモテるというもので、それこそ、

「オンナに不自由はしない」

 という高校時代だったのだ。

 それこそ、

「青春時代」

 というものが、

「性春時代だった」

 といってもよかったであろう。

 だが、最初の女性のインパクトが強すぎて、

「お姉さん系しか、抱けなくなった」

 という思いがある。

 これは、中学時代に、友達が言っていたセリフではないか。本当なら、

「恥ずかしい性癖」

 なのだから、

「あまりまわりの人にいうものではないのかも知れない」

 しかし、京極は、そのことを恥ずかしいとは思わなかった。

「性癖、大いに結構。恥ずかしいと思うから、恥ずかしいんだ」

 と思っていた。

 恥じらいというものは、

「いってはいけないタブーだ」

 と言われるから、余計に知りたくなるものだ。

 隠そうとすればするほど、気になってしまう。どちらかというと、その心理を巧みに利用することで、人間は、女性を求めるのかも知れない。

 動物であれば、そんな感情などなくとも、本能によって、発情期がやってきて、子供ができる。それによって、

「種の保存」

 が保たれるのだ。

 彼らには、人間のような、

「家」

 という概念はないだろう。

 もちろん、親子の関係というのはあるだろうが、兄弟という意識はあるのだろうか?

 ツバメの巣のように、巣の中で、たくさんの子供の中の一匹だと思うと、そのまわりが兄弟であることを悟るのだとすれば、大人になって、

「一匹立ち」

 をした時、自分の兄弟が飛んできても、

「自分の兄弟だ」

 と分かるのだろうか?

 そういえば、以前のドラマで、

「子供を事情があって捨てなければいけなかった母親がいて、捨てた子供と何十年ぶりかの再会を果たしたとして、その時、その子は、目の前にいるのが母親だと人に聴いて知っていたとしても、母親は何も聞いていない」

 という場面があった。

 その時、その子が、覚悟と決心を持って母親に逢いにきたのを、母親が分からなかったといって、泣いているのを見て、それを言いに来た人がいったのだ。

「母親なら、数百人いる中からでも、自分の子供だったら分かるはずでしょう?」

 というのだ。

 そのセリフを聴いて、ものすごい違和感を感じたのは、京極だけだっただろうか?

 確かに、お腹を痛めて産んだ子だとはいうが、子供の頃に生き別れて、赤ん坊の頃しか知らないのに、成長した子供を、いくら親子だからといって、分からなければならない理由がどこにあるというのだ。

 確かに、子供も大変な思いをしただろうが、親には親で、やむを得ない事情があったのかも知れない。

「若気の至りでも、許せない」

 という場合を除いて、仕方がないということだってあるだろう。

 金銭的な面、精神的な面で、一緒に暮らせなくなる場合は、今の世の中では、無限といっていいほどに理由はあるだろう。

 もちろん、許されないことも無限にあれば、

「許してあげてもいいのではないか?」

 と、他人だから言えることもあるだろう。

 世の中、

「一歩間違えれば、相手と同じ運命をたどるとも限らないのだ」

 それを考えると、理不尽なことも、無限にある。

 それなのに、許せないことだってたくさんあるだろうし、許してあげてもいいことだってたくさんある。

「そう思うと、人間、一寸先は闇だ」

 という、ネガティブな考えになっても、仕方がないだろう。

 離婚が多い原因として、肉体的にも、そして精神的にも、

「仕方がない」

 と感じるのは、どうしても、

「飽き」

 というものが来ることだった。

 人間、同じものをずっと食べていても飽きるのは当然のこと、

「学生時代、毎日学食で、カレーばかり食べていると、少しすると、カレーを見るのも嫌だ」

 という人も多いことだろう。

 最初は好きだったはずのカレー、それを毎日食べていると、1カ月もしないうちに見るのも嫌になる。

 ただ、この、

「飽き性」

 という性格は、人それぞれで、人によっては、まったく飽きの来ないと思う意図もいるだろう。

 しかし、ほとんどの人は、すぐに飽きてしまい、飽きると、見るのも嫌になるというのも仕方のないことなのだ。

 それが、嫁さんとなると、毎日一緒にいるわけで、飽きが来るのも仕方のないことであろう。

 そしてもう一つ考えられることとすれば、人間の欲の問題である。

 付き合っている時は、

「本当に好きだ」

 と思っているから、

「離したくない」

 と必死に思い、

「毎日でも抱いていたい」

 と感じ、不思議なことに、その時は飽きを感じないものだ。

 いや、感じているのかも知れないが、

「失うかも知れない」

 と思うのが怖くて、必死につなぎとめておきたいという気持ちがあるからなのか、毎日でもセックスをしても、その身体に対しての感情が飽きに繋がることはないのだ。

 要するに、

「まだ、自分のモノでない時に必死につなぎとめておきたい」

 と思うのに、

「結婚してしまうと、夢にまで見たものが手に入って、満足してしまったことで、それ以上の悦びがないという有頂天に達してしまったのだ。

 そうなると、後は下しか見えない。

 下を見ると、今まで見えてこなかった、彼女の欠点や短所が目立ってくるのだった。

 それを感じると、

「あれ? こんなはずではなかった?」

 と思うと、彼女に対しての見る目が変わってくる。

 性格も身体も最高だと思っていたものが、そうではなくなってくると、自分が求めてやまなかったものを手に入れたことで見えてきた、

「限界」

 というものが、今度は虚しさを運んでくるのだった。

 それは、まるで、セックスの後に訪れる、

「賢者モード」

 のようなものである。

 しかも、この感覚は、男だけに訪れるものだ。セックスを終えた後の男女というのは、その身体に残った感覚は、同じなのかどうか分からないが、感じる思いは、まったく違うものなのだ。

 ただ、お互いに、結婚を頂点にして、次第に相手の欠点が見えてきたり、飽きが生じてくるようになったりと、どんどん、関係は悪化していくといってもいいだろう。

 それが、いわゆる

「減算法」

 となり、決して元の戻ることのない気持ちは、時間とともに増えていく。

 そういう意味では、

「離婚する夫婦というのは、最初から離婚は決まっていて、後は、時間の問題だけなのではないか?」

 と思えるのだ。

 結婚してすぐの新婚さんには、なかなか理解できるものではないのかも知れないが、そもそも、

「成田離婚」

 などという言葉があるくらいで、最初から、ダメな夫婦だっているようだ。

 そういう意味で、結婚というものは、

「減算法だ」

 といってもいいだろう。

 自分の人生の考え方、あるいは、精神状態や肉体で感じること、さまざまな減算法があるに違いない。

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