第3話 人が死ぬ時

 以前、大学の学園祭の余興で、面白いものをしていたことがあった。

「人が死ぬのが分かる時って、どういう時?」

 ということで、募集していたのだった。

 それは、もちろん、その時々で状況も、シチュエーションも違うので、複数回答である。

 確かに、複数回答でなければいけないだろう。

 まず、パターンの洗い出しをしなければならないだろう、こちらは、

「自分が答える方ではなく、答えを聴いて、正解かどうかの判断をし、そして、状況でパターンに当てはめる」

 という考えでいたのである。

 どうしてそう思ったのかというと、

「とてもじゃないけど、自分に、そんな発想はない」

 と思ったからで、どんな時のパターンなのか、答えを聴いて判断するくらいはできると思ったので、そちらに入ったのだ。

 いわゆる、

「審査員側」

 ということであるが、パターンを頭の中で考えてみたりした。

 まず、考えたのが、

「リアルなのか、フィクションなのか?」

 ということであった。

 それによって、シチュエーションが変わってくる。まるで、

「小説のジャンル」

 によって、いかに変わってくるかということである。

 たとえば、リアルであれば、

「現代小説、エッセイ、随筆、日記、作文、歴史小説など」

 である。

 それらは、基本的に、事実に基づくことなので、死というものだけでなく、それをつかさどる話もすべて、同じでなければいけない」

 と言えるであろう。

 つまりは、

「死というもの以外のすべてが、リアルでないと、ノンフィクションの小説は成立しない」

 という考え方である。

 それに対して、諸説あるのも分かっている。

「何もすべてが真実である必要はない」

 と言われるであろうが、確かにリアルである必要はないかも知れないのだが、テーマである、

「死」

 というものを、最高の形でリアルにしないと、見ている人につたわらないということであれば、

「すべてにおいてのリアルさは、必要条件である」

 と言えるであろう、

 しかし、リアルさをどこまで求めるのかということを、死というものに置き換えるのであれば、リアルすぎると、今度は恐怖が表に出てしまって、本当のテーマがぼやけてしまうのではないかと思うのだ。

 確かに、小説において、少しでも、フィクションがあるのであれば、それは、

「フィクションなのではないだろうか?」

 と考えられる。

 この場合の配合率が、そのまま過半数をオーバーするかということで、単純に、

「リアルか、フィクションか?」

 ということを考えてはいけないような気がする。

「時と場合によるのだろうが、必ず、どっちかに寄ってしまわないと、リアルか、フィクションかということは、決められないのではないだろうか?」

 と、考えるのであった。

 そういう意味で、

「少しでも、フィクションがあれば、その小説は、フィクションなのだ」

 ということになると思うのだ。

 そういう意味で、

「フィクションであれば、死というものは、どのように描くのだろうか?」

 ノンフィクションは、そのまま、リアルと表現できるが、それだけに、前述のように、

「ウソは許されない」

 だから、まわりすべてを本当のことで固めないと、リアルなノンフィクションとは言えないということだった。

 じゃあ、フィクションの場合は、その、

「死」

 というものを、どのように考えているのだろうか?

 フィクションというと、いろいろなジャンルの話がある。

 SFであったり、ホラーであったり、ミステリーなどという、一般娯楽から、恋愛小説や、青春小説のようなもの。その中には、変質的な、今でいう、BL、GLものもあったりする。

 それらを、いかに、

「死というものに結びつけるか?」

 ということが難しかったりする。

 例えば、ミステリーであれば、

「殺人事件」

 として、死というものを、題材として、エンターテイメントな話を作りあげることができ、

「本来なら、死への冒涜と言われるようなことでも、面白おかしくトリックや、動機などの面で、人間性をテーマにすることもできる」

 SFであれば、その中で、タイムトラベルなどであれば、時間を飛び越えることで、自分だけが生き残った世界に行ってしまい、他に知ってる人が誰もいないという世界に行った時、真剣、生きていることに対して、疑念を抱くことになるだろう。

 さらにいえば、ロボットものであれば、それこそ、

「フランケンシュタイン症候群」

 のように、

「ロボットによって、人間が滅ぼされる」

 ということで、死というものが、立ち塞がってくるというものだ。

 恋愛ものなどになると、よくある設定として、

「余命数カ月」

 というものがある。

 不治の病に犯された若いカップルのうちのどちらかが、その葛藤に悩むというもので、ある意味、

「一番リアルに近い感情を表さなければいけない」

 ということで、一番難しいジャンルなのかも知れない。

 とにかく、フィクションであっても、どのジャンルのテーマであっても、やはり、

「死」

 というものは、

「とにかく難しい問題である」

 ということであろう。

 小説であっても、ドラマにする脚本であっても、

「死というテーマ」

 ほど、難しく、

「真摯に向き合わなければいけないテーマだ」

 と言えるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「死というものを通して、小説というものの、基本である、想像力というものを、いかに読者が養えるように描くか」

 ということが難しいのである。

 確かにノンフィクションも、

「ウソが許されない」

 という縛りはあるが、フィクションの場合は、中途半端に描いてしまうと、真剣に描いているつもりでも、そこか不真面目に見えてしまい、

「死を冒涜している」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「フィクションの方が、簡単そうに思うが、数倍難しいのではないだろうか?」

 ということが言えるのだろう。

 さて、今度は、

「死に方」

 という分け方になる。

 死に方というと、いろいろある。大きく分けると、二つに分かれるか? まずは、宇明をまっとうするという意味での、

「大往生」

 である。

 そして、もう一つの、大往生以外ということでも、二つに分かれる。一つは、人間の寿命というものを、神様が決めたのだとすれば、その寿命を自らの意思で終わらせてしまうという、

「自殺」

 というものがある。

 これは、いくつかの宗教での、

「禁止事項」

 となっていることが、多く、そして、またそれ以外ということになる。

 このように言ってくると、死というものは、まずは二つに分けて、そのうち一方が、

「その他」

 ということになるだろう。

 そして、その他と言われるその部分が、さらに二つに分けていく。

「何かと、それ以外」

 という分け方をすると、まるで、仕掛けとしての、

「マトリョシカ人形」

 のようになることで、

「面白い考えにあるんだろうな」

 ということが言えるのではないだろうか?

 と考えると、次は、

「大往生と、自殺以外の部分」

 であるが、そこに関して、また一つをピックアップすれば、

「本人の意思によらない、病気であったり不慮の事故」

 というものと、また、またそれ以外ということになる。

 逆にいえば、不慮という意味で、病気と、事故とは、ここでは同じ括りということになるだろう。

 ただ、同じ、不慮といってもいいかも知れないが、明らかに分けなければいけないということで、

「他人によって殺された」

 というのは、また発想が違ってくる死に方だとは言えないだろうか。

 それぞれの死に方を考えてみよう。

 まずは、

「大往生」

 であるが、これは、言わずと知れた、

「誰もが望む一番の死に方」

 と言えるだろう。

 この世に、

「不老不死」

 というものがない限り、死は逃れることのできないものだというのであれば、

「大往生に勝るものはない」

 といってもいいだろう。

 だが、ここでいう、

「不老不死」

 というものが、本当に一番いいものなのだろうか?

「まわりが皆年老いて行って、死んでしまう。しかし、自分だけは年を取ることもなく、自分だけが生き残っている」

 ということなのだ。

 知っている人が誰もおらず。まるで取り残されてしまった自分に、

「寂しさという感情」

 がないとすれば、それに超したことはないのだろうが、果たしてそうなのだろうか?

 その時になって、人間が感じる、寂しさというものが、どういうものなのかということを、きっと味わうに違いない。

 それを考えると、

「年を取らず、ただ生きながらえるだけであれば。ひょっとすると、これほど苦しいものはないのかも知れない」

 といえるのではないか。

 もちろん、新たに楽しみを、その時代時代で見付けることができれば別だが、何度も、自分の親しい人の死というものに直面していって、精神的に病んだりしてこないだろうか。下手をすれば、死に対しての感覚がマヒしていって、死に対して、何も感じなくなるということであれば、

「ただ生きながらえている」

 というだけで、

「死ぬことができない」

 ということにその時、初めて気づくのかも知れない。

 そうなると、

「よほど強い、生きることの意味」

 というものを、ずっと持ち続けていないといけないということになるのであろう。

 そんなことを考えると、

「不老不死」

 というものは、ひょっとすると、

「何かの罰ゲームではないか?」

 と思えてならない。

「死ぬことで、この世にすべてをおいて、まったく違う世界に行く」

 ということであれば、

「生まれ変わり」

 ということも考えると、先のステップに行くこともできず、この世にずっととどまることの恐ろしさ。

 それを、必ずどこかで味わうのだろうが、それがいつもことか分からない。

 それでも、永遠に生き続けなければいけない苦しさは、どこであっても同じなのではないだろうか?

 そう、

「どこを切っても金太郎」

 という、金太郎飴のようではないか。

 それを考えると、

「不老不死」

 は、論外ということになる。

 死というものを考え、大往生が抜けてしまった後、その中で一番の異質な死に方が、

「自殺」

 である。

「自分自身で、自らを葬り去る」

 というのは、

「人間を作った創造主である神に対しての冒涜」

 ということで、ほとんどの宗教で禁止しているではないか。

 自殺というものを、客観的に考えた時、

「死にたくなるような苦しみを味わっていて、死んだ方がマシだ」

 と思っている人がいることは分かるのだが、やはり、ほとんどの人が、

「自殺は許されることではない」

 と思っているのだ。

 考えてみれば、

「人は生まれた時は、平等だ」

 ということをいう人もいるが、

「そんなバカなことはない」

 と、すぐに否定する人もいるだろう。

 考えてみれば、

「人は生まれながらに、自由で平等なわけはない」

 ということだ。

 というのも、

「人間というのは、いつ、どこで、誰から生まれるか、生まれてこないと分からないではないか?」

 ということだ。

 生まれてきた時、戦争の真っただ中で、すぐに弾に当たって死ぬかも知れない。もっとも、この世の苦しみを味わうことなく死んでいくのは、幸運ともいえるが、逆に楽しみを一つも味わっていないというのは、不幸だともいえるだろう。

 さらには、生まれてきた後、母親が、

「育てられない」

 という理由で、赤ん坊をコインロッカーに入れたまま放置するということもあった。

 そして、生まれてくる自由がないのだから、同じ時に生まれても、生まれてきた家が、裕福なのか、貧乏なのかということでも、その時点から大きな差別がついているといっても過言ではない。

「人は生まれ落ちた瞬間から、運命というものが決まっていて、その運命には逆らえないのかも知れない」

 ということである。

 だから、

「人間は、生まれることを選ぶことはできない」

 というのだ。

 では、だったら、

「死ぬ時くらいは、自由に選べればいいのではないか?」

 と思うのだが、それもよくないということになる。

「では、一体、自殺の何がいけないというのか?」

 ということであるが、これを理屈の上でも、精神的にでも、キチンと自殺しようと考えている人を、思いとどまらせるだけの理由があるだろうか?

 自殺を考える人には、もちろん、それ相応の理由があるはずだ。だから、それ以上の説得できるだけの理由がなければ、説得などできないだろう。

 テレビなどで、自殺しようとしている人間を、例えば刑事が説得しようとしているのを見ると、

「何じゃ、そりゃあ」

 というほどに、グダグダにしか聞こえない説得方法をよく聞く。

 これは、犯罪者が、人質を取って籠城している人に対しての説得にも似ていることに思える。

 そんな中の、どうしようもないような説得のセリフをいくつか挙げていたい。

「死んで花実が咲くものか」

 などという人がいるが、あまりにも漠然としていて、こんなものは、論外である。

 次に、

「生きていれば、そのうちいいことがある」

 というやつがいるが、これもまったくお話にならない。

 なぜなら、

「今まで一度お何もいいことなどなかったから、自殺を決意したんだ。だいたい、そのうちってなんだよ。それまで、俺にこの苦しみをじっと我慢していろというのか? そのいいことってどういうことなんだよ。俺の苦しみを永遠に解消してくれることなのか? 俺にとってのいいことって、それくらいしかないんだよ」

 と言われてしまうと、何も言い返せなくなるのではないだろうか?

 そして、次にいうことは、

「君が死んでしまうと、悲しむ人がたくさんいる」

 という説得方法だ。

 しかし、これも、まったく響かないだろう。

「悲しむ人がいるからって、その人たちが俺を苦しみから救ってくれるわけではないだろう。じゃあ、何か? 俺が生きているのは、その人たちを悲しませないために生きているということか? 俺って人の都合のために生きているだけなのか?」

 ということだろう。

 要するに、死を決意している人に、何を言っても、通用するわけではない。死のうとしている人から見れば、説得者というのは、実際に手を差し伸べようともせず、ただ、自分に死なれると困ることがあるので、ただ、心にもない、誰もがいうドラマでしか見たことのないような、

「いかにもベタなセリフ」

 を吐いているだけなのだ。

 そんなセリフに誰が、納得して自殺を思いとどまろうというのか、それこそ、

「俺も一緒に死んでやる」

 というくらいの覚悟を見ない限り、何を言っても同じなのだ。

「説得者なんて、しょせん、自分の都合のことしか考えていないんだ」

 と思うことだろう。

 そういう意味で、ドラマなどで、自殺を思いとどまるシーンがあるが、滑稽にしか見えない。

 ただ、自殺をとどまった人は、そのほとんどは、実際に自殺を試みるかも知れないが、死にきれないという人が多いだろう。

 リストカットを試みた人が、何度も手にためらい傷を持ったまま、生き続けているとことはよくあることだ。

 ただ、それも、本当に死んだ人から見れば、

「そんなやつには、最初から、死ぬ覚悟などなかったに違いない」

 と思っているのではないだろうか?

 だから、一回で一思いに死ねなかった人は、そのまま何度も自殺を繰り返すが、死ぬことができないというジレンマに苦しむことになるのだろう。

 だが、最初は、本当に死ぬ気だった人でも、まわりの努力によって、死を免れると、今度は死のうとは思わない人もいるようだ。

 その人たちがいうのには、

「死ぬ勇気なんて、そう何度も持てるものではない」

 という。

 この言葉の解釈は、結構難しい。

 というのは、

「確かに説得力のある言葉に聞こえるが、言い訳に聞こえなくもない」

 ということであり、言葉だけを聴いていては分かるものではなく、その人がいかに、そのセリフを喋っているか。その本気度を自分で解釈しようと思って見ない限り、分かるものではないだろう。

 とにかく、

「死ぬ時も、人は生まれた時同様、自分で選ぶことができない」

 ということであれば、自由なのは、

「生きている時だけだ」

 ということになる。

 しかし、現実社会ほど、自由にならないこともないではないか。

「努力をすれば、いずれ叶う」

「死んだ気になれば、何でもできる」

 とよく言われるが、本当にそうなのだろうか?

 皆が皆そうなら、皆、もっと真剣に生きるであろう。

 この世の楽しみがないからなのか、一人で楽しむこと以外に、人とつるむことでしか楽しみを得られずに、結局、人に迷惑を掛けてしまうというのが多くなる。

 自分では意識してもいないのに、他人に、下手をすれば、取り返しのつかない迷惑を掛けてしまうことだってないとはいえないのだ。

 それを考えると

「いつ、どこで、自分は人の恨みを買っているか分からない」

 ということであり、逆に、

「いつどこで、人に恨みを持つような目に遭うか分からない」

 というものである。

 人は、前者の、

「いつどこで、恨みを買うか分からない」

 ということは考えるが、なかなか迷惑を掛けられるということを考えないものだ。

 だから、殺意を持つと、抑えが利かないのかも知れない。

 自殺というものは、

「自分で自分を抹殺する」

 という意味で、

「相手が誰であれ、命を奪うということは、殺人と同じだ」

 という発想が、神の世界での、

「自殺を認めない」

 ということになるのであろう。

 さて、次であるが、

「病気」

 あるいは、

「不慮の事故」

 というものを考えてみよう。

 こちらも、考え方なのだろうが、普通は、

「しょうがないもの」

 という考えと、厳しいことを言えば、もちろん、本当にどうしようもないということもあるのだが、それ以外として、

「病気などというものは、いわゆる、不摂生というものが絡んでいるのであって、普段から健康に気を付けていれば、病気になることもない」

 と言えるだろうし、

「事故にしても、事故に遭わないように気を付けることはできるだろう」

 という人もいる。

 それでも、相手が、お構いなしに突っ込んできたり、巻き添えを食ってしまうということもあるわけで、一概には言えないのだ。

 それでも、ほとんどの人が、病気か事故ということになるだろう。

 特に病気の場合は、どんなに気を付けていても、普通に生活をしていれば、年齢とともに、身体のいたるところで、老化が起こり、その消耗度は、人間の力では、どうすることもできないものだ。

 だから、恒例であっても、大往生かと思えば、

「実は、病気で」

 という人も少なくはない。

 また、不慮の事故など、特に交通事故などというのは、運転手の一定数の中には、

「俺は、事故など絶対に起こさない」

 と嘯いているやつがいる。

 もちろん、自分に言い聞かせるという意味で口でわざと言っている人もいるだろうが、ほとんどは、自信過剰。というよりも、

「何かあった時の言い訳」

 でしかないのだった。

 とんでもないやつもいて、

「俺は、どんなに飲んでも酔わないので、飲酒運転しても大丈夫だが、法律で禁止されているから、運転する時は、軽くくらいしか飲まない」

 というバカがいる。

「そんな中途半端なら飲まなきゃいいんだ」

 と思うのに、そんなやつに限って、警察に捕まったり、本当に交通事故を起こしてしまったりするのだろう。

 以前、酒を呑んで運転していて、小さな子供や母親を巻き込んだ交通死亡事故が起こり、

それ以降、社会問題となったことで、罰則も厳しくなり、さらに、警察の取り締まりも激しくなってきたにも関わらず、一向に、検挙される人間の数が減るわけではなかった。

 ひょっとすると、分母は減っているのかも知れないが、実際に捕まる人の数は変わらないだけなのかも知れないが、

「一定数のバカがいる」

 ということに変わりはないのは、当たり前ということであった。

 それを思うと、

「人間というのは、いかに愚かな動物であり、同じことをいつまでも繰り返しているというもので、悪いことをいつまでも繰り返すということは、反省がないということに他ならない」

 のであろう。

「人間だけが、反省をできる動物だ」

 というはずなのに、できるくせにしようとしないというのは、ひょっとすると、

「最初から持っていないからできない」

 という他の動物の方が、実は偉いのかも知れない。

「できるのに、しようとしない」

 というのは、それだけで、

「罪である」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「この世で、不慮の事故というものはなくなるはずはない」

 ということであろうし、もっといえば、

「その中の一定数は、不慮の事故ではなく、れっきとした殺人なのだ」

 と言えるのではないだろうか?

 不慮の事故というのは、あくまでも、

「気を付けていて、それでも起こった」

 ということで、反省を伴うものでなければ、

「不慮」

 とは言えないのではないだろうか?

 それを考えると、やり切れない部分も少なくなく、それこそ、人間というのは、

「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」

 を続けている愚かな動物でしかないということになるのであろう。

 昔の特撮で聴いたことがあるセリフであるが、

「いまさらながらに、思い知らされるセリフである」

 ということであろう。

 かつての特撮番組、それがちょうど、昔の、米ソ陣営における、

「東西冷戦」

 というものがあった。

 それは、いろいろな面での、対抗であったが、基本的には、

「民主主義陣営と、社会主義陣営」

 ということであった。

 民主主義は、資本主義とも言い換えられ、社会主義は共産主義となる。

 基本的な考え方として、民主主義というものは、その決定を、

「多数決」によるもので、基本体制は、自由競争である。つまり、そこに存在するのは、選挙ということであり、基本的に、

「多数意見が優先される」

 というものだ。

 選挙の中には、決選投票系というものもあり、得票数が、上位2位に入ったものだけで、再度、決選投票というものを行い、そこで、得票数の多いものを、優勝とする。ということになる。

 つまりは、決選投票で多い得票ということは、名実ともに、

「過半数以上ということになるので、文句なしだ」

 ということである。

 さらに、資本主義においては、基本的に自由競争である。政府が介入することもないし、国営で、政府が独占するということもほとんどない。考え方としては、公平で、公正なやり方であることから、

「これほどいい体制はない」

 と思えるだろう。

 しかし、実際にやってみると、そんないいことばかりではないのだ。

 何といっても、一番の問題は、

「自由競争であるがゆえに、格差が表れてくる」

 つまりは、

「貧富の差が出てくる」

 ということであった。

 さらに、多数決ということは、少数派意見は、どんなに素晴らしい意見であっても、まったく取り上げられないということであり、

「敗者に、光は一切当たらない」

 ということである。

 貧富の差が激しくなり、自由競争であるということは、

「強者はいくらでも強くなる」

 ということでもあり、そうなると、一部の特権階級だけが、得をするということになるのだ。

 プロ野球界において、ドラフト会議が始まったのも、発想としては似ている。

 元々は選手獲得は自由競争であり、金のあるスポンサーを持った球団は、アマチュア選手を、

「金にものを言わせて獲得に走る」

 ということになる。

 選手は当然、金が欲しくて、金のある球団に、実力のある有名選手が集まると、必然的にそのチームは強くなり、人気も出るから、さらに金持ちになる。アマチュア選手もそんな球団に入りたいのは当たり前で、結局、実力のある選手をすべて、人気や金のある球団に持っていかれるということで、どんどん、チームのレベルが開くことになるのだ。

「強いチームはどんどん強く、弱いチームには、選手が来ない」

 というのが理由であった。

 しかし、それは、一種の、

「建前の理由」

 だったのだ。

 本当の理由は、もう一つにあった。

 というのは、その問題が深刻化すると、球団経営が先ゆかなくなる。

 という問題だったのだ。

 どういうことなのかというと、

「有名球団が、金に糸目をつけずに、有名選手の獲得に走る。すると、他のチームも何とか対抗して、出せるだけの金を提示して、有名選手の獲得に走る。すると、どんどん契約金や、選手の年棒の相場が、どんどん跳ね上がっていく」

 ということになるのだ。

 これは、球団経営に関して、当然のことながら、

「困窮してくる」

 ということになる。

 だから、選手と球団が、自由に契約できず、前年の順位によって、選手の選択指名権を、なるべく公平に得ることができるというもので、その球団から指名された選手は、他の球団と、勝手に交渉ができないという考えであった。

 これは、あくまでも、球団側の経営という観点から始まったものだが、そのいいわけに、いわゆる、

「貧富の差をなくす」

 ということであったのだ。

 だが、このドラフト会議制というものは、選手側にとって、一切のメリットはない。デメリットでしかないのだ。

 というのは、選手側に、

「入りたい球団の選択がまったく許されない」

 ということでもある。

 勝手に、会議によって決まった球団とした交渉ができないというのは、正直、選手にとっては、あまりいいことではない。

 一般の学生の就職活動は、

「募集しているところを、いくらでも受けることができる」

 ということに対し、指名してきた球団に入団しなければ、

「一年間は、プロ野球選手としてプレイすることができない」

 ということである。

 まぁ、一般学生たちから見れば、

「ほしい」

 といってくれる企業があるだけマシではないか?

 と、思うかも知れないが、そもそも、大学を首席クラスで卒業した学生であれば、遊泳企業から引っ張りだこということを考えれば、プロ球団から、指名を受けるということは、それだけの器ということなのだから、本来のドラフトなどがなければ、複数の球団から、誘いがかかって当たり前であろう。

 それを思うと、ドラフト制度というのが、どれほど買い手市場なのかというのか、売り手側には、まったくのメリットも自由もない、

「これで、民主主義と言えるのだろうか?」

 ということである。

 実は、この、

「ドラフト会議」

 というものの考え方と、

「社会主義」

 あるいは、

「共産主義」

 と呼ばれるものと同じではないかと言えるのではないだろうか?

 つまり、

「社会主義というのは、民主主義の限界に挑戦する形で考えられた新しい主義の考え方である」

 ということだ。

 自由競争の多数決によって生じるのが、

「貧富の差」

 であったり、

「一部の特権階級だけが暴利をむさぼる」

 という、いかにも今の日本を象徴している状態だった。

 そこで、考えられたのが、

「自由競争をやめて、すべてを国営化にし、給料もすべて均等にし、国家が計画したことに対して、国民が皆、競争ではなく、その歯車に乗っかることで、貧富の差はなくなるし、特権階級による暴利をむさぼるということもなくなる」

 という考えであった。

 考えは悪くないのだが、そのせいで、問題となるのが、

「自由がまったくない」

 ということであり。

「すべて、国家に操られる」

 ということ、そしてそこから派生してきた問題は、

「発展性がまったくない」

 ということだ。

 それはそうだろう。国家によって、雁字搦めの競争のない世界だ。中には、

「一生懸命にやっても、給料が上がるわけではない」

 ということで、誰もが適当にするようになり、いい加減なものができたり、新しいものが生まれるという地盤がまったくない世界となるのだ。

 それが、共産主義の一番の欠点であった。

 さらに、

「すべてを国が管理する」

 ということだから、すべては、国に委ねられるということであり、そもそも、国民には自由はない、

「自由と引き換えに、貧富の差をなくし、特権階級の人だけが暴利をむさぼらないようにする」

 というのが、社会主義ではないか。

 それに、

「多数決ではないとすれば、決定はどのようにするのか?」

 ということであるが、これも、最初から決まっている。

 それが国家であり、国家元首の考え方になるのだ。

 こんな二つの、

「まったく正反対の陣営が、世界の派遣を争っている」

 というのだから、一歩間違えれば、世界を滅ぼすことになりかねないというのも当たり前のことであった。

 どちらの陣営も、

「直接対決になると、世界の滅亡に繋がる」

 ということは分かっているのだ。

 というのも、しばらくの間、

「核の抑止力」

 というものに、両陣営は、頭が凝り固まっていて、

「核開発競争」

 が続いていた。

 これは、

「お互いに相手を滅亡させるだけの兵器を持っているのだから、どちらが使っても、結果としては、どちらの国も終わりだということであった。

 先にこちらが打ち上げれば、相手も、ミサイルが相手に届く前に、相手も打つからである。

 お互いに、それぞれの首都に向かって発射できるミサイルを、相手の首都に向けて発射する準備は整っているのだ。だから、後はボタンを押すだけである。

 このように、

「撃ち合いになれば、世界滅亡が分かっていることだから、撃ち合うことはできない」

 ということだ。

 つまりは、核開発で、相手にひけを取りさえしなければ、

「相手から攻められないという抑止力になり、また、相手との政治的な、あるいは経済的な交渉の手段になる」

 ということで、お互いに核開発を進めていた。

 しかし、かつての、

「キューバ危機」

 というもののように、

「相手のミサイルがこちらを狙っている」

 という恐怖を肌で感じると、普段の生活すらできないほどの恐怖を植え付けられ、核開発競争が、

「戦争の抑止につながる」

 という考えが、ただの虚栄でしかないことが分かるというものだった。

 次第に、核開発を辞めるようになってきたのだが、まだまだ世界には、地球を何度も破壊できるだけの、核兵器が眠っているという。

 しかも、簡単に処分できるわけもない核兵器なのだから、

「いったん生み出したものが、どれほどの悪影響を及ぼすのかということを、誰が分かったというのか。それこそ、こんな兵器を抑止として考えた連中のために、犠牲になった人は、それこそ、浮かばれない」

 というものだ。

 そもそも、戦争というものが、その凝縮であり、核兵器はその一つの道具でしかないということに、誰も気づかなかったというのが、愚かだといっても、過言ではないに、違いない。

 あの特撮テレビがあったのが、1960年代後半だった。世界を揺るがしたあの大事件である、

「キューバ危機」

 というのが、起こったのが、ちょうど、1960年代の前半だったのだ。

 あの特撮の話は、あたかも、地球防衛を目的とした、

「破壊兵器の開発実験」

 だったのだ。

「生物が存在しないということで打ち上げた、宇宙空間弾道ミサイルであったが、実際には実験は成功し、科学者が安堵しているところへ、その放射能で突然変異した生物が、復讐のため(?)ということで、地球にやってきた。正義のヒーローは複雑な思いを抱きながら、地球を破壊にきた宇宙生物をやっつけることになる」

 しかし、問題なのは、ここからであった。

 地球防衛軍の隊員などは、その生物は、あたかも、地球を侵略にきた、

「侵略者」

 であるかのごとく、葬りさられたことを、喜んでいる。

 しかも、

「さらに、強力な兵器が必要だ」

 というようなことを、自分たちが相手の星の運命を粉砕しておいて、そんなことをいうのだ。

 だが、そこで、主人公である

「正義のヒーロー」

 は、その状況を憂いて、

「血を吐きながら続けるマラソンだ」

 と言ったのだ。

 科学者たちも、それを聴いて、やっと我に返ったのか、

「地球人というのは、そんなおろかなマラソンを続ける生物なのだろうか?」

 ということで、研究の中止を会議にはかろうということになった。

 もちろん、こんな放送があったからといって、世界から、

「核開発競争」

 というものがなくなったわけではない。

 もちろん、それ以降も、しばらくは、冷戦が続き、さらには、泥沼の、

「ベトナム戦争」

 あるいは、

「アフガン戦争」

 と、米ソは、それぞれで、

「他国の内情に介入することで、結果として、撤兵せざるを得なくなる」

 ということを知るのだった。

 さすがに、時代が進むにつれて、戦争が徐々になくなっていき、まずは、社会主義国が破綻することで、超大国の東側の国が、滅亡したことにより、

「東西冷戦」

 というものが終結したのだが、だからといって、

「世界平和がやってきた」

 というわけではなかった。

 さらに世界は、カオスとなり、もっと面倒臭く、厄介な時代へと入ってきたのである。

 というのも、ちょうど、70年前以上にあった、

「第二次世界大戦」

 が、終結した時と似ているではないか。

 その頃に、東西冷戦という構図が出来上がってきたのであるが、そのための伏線としてあったのが、

「それまで、植民地となっていた国が、宗主国からどんどん独立していった」

 ということである。

 それに乗じて、社会主義国家による、

「共産主義化」

 を目指し、

「共産主義陣営を世界に増やす」

 という工作が、あからさまに行われていた。

 今の時代は、国家間の戦争ではなく、反政府組織の暗躍による、

「テロ」

 というものが蔓延っている。

 独立運動の主流も、

「テロ活動」

 だったので、あたかも、そんな時代だったのだ。

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