第5話 戸惑い
「浜でも一回りしてこようか」
「ええ、そうしましょう」
二人は恋人同士に戻ったように、腕を組んで浜へ向かって行った。その途中には険しい崖もあった。崖の下はすぐ海で岩が切り立っているところもあったが、そこを目指して行ったわけではない。崖の下に砂浜が広がっているところを目指して歩いて行ったのだった。
芳茂は砂浜が見えて来るとその方向へ駆け出して行こうとした。しかし、亜紀は反対方向の海岸線の険しい崖を見て、一瞬の間を置いて大声を出しながら、そこにたたずむ女性の方へ駆け出して行った。
「早まらないで、生きるのよ」
と、叫びながら近付いて行った。
女性には、その声がまるで神の声のように聞こえていた。女性はその声に促されて思い止まり、後退りして来た。亜紀が近付くと女性は亜紀に倒れ掛かって来た。
「確りして下さい」
と言う亜紀の声もその女性には聞こえないようで、放心状態であった。後ろから追ってきた芳茂も近寄って来て、亜紀に代わってその女性を支えた。
「あなた、もう少しここで様子をみましょう。部屋に帰るより、外の方が事情も聞きやすいんじゃないかしら」
「そうしょうか」
「大丈夫ですか」
「はい」
と言いながら女性は泣いていた。
「もし良かったら、胸につかえた思いを話してみてください。少しは和らぐんじゃないかしら」
と亜紀が言い、女性を見守った。
亜紀は先程の一瞬のためらいを心の中で恥じていた。また、芳茂は見ていなかったが、仮に見ていてもあの一瞬をためらいと、見抜けなかったと思った。あの一瞬は驚きのあまり、息が詰まったのだと考えただろうと思った。
しかし、それは違っていた。明らかに、亜紀は自殺を止めるのをためらったのだった。これから生きる人々は全員が死と向かい合わせになる。長生きを考えるより、苦しまないで自然死する事を考える人々が多くなるだろうと思ったからだ。ここで、この女性が自殺を思いとどまったとしても、もう一つ苦しみを抱え込む事になるだけではないかと思ってしまったのだった。しかし、その事とこの自殺が別物だと咄嗟に判断が出来て、止める事が出来たと亜紀は思った。亜紀はその一瞬の戸惑いが取り返しのつかない事にならなくて、ほっとしていた。
人間は誰も限りある命の中で、精一杯生きるしかない。この人は死んで、あの人は死んではならないという区別があるはずがない。当然ながら青球消滅を知らずに死んでもいいという事にはならないと思えた。
その女性は大分落ち着きを取り戻したようで、芳茂の腕の中にいる事に恥じらいを見せて離れた。
「あそこのベンチに腰掛けようか」
と、芳茂が言うと亜紀は頷き、二人の間に女性を腰掛けさせた。
「私、結婚を約束した人の子供を身籠った事に気付いて、彼に話しました。すると両親に話すのに、もう子供が出来たでは困るというのです。それで、医者に相談に行って初めて分かったのですが、私は子供が出来にくい卵管のようです。ここで胎児を下ろさないで済むのであればその方がいいと言われました。そんな事があって、彼と話をしているうちに彼の不実が分かったのです。もし、結婚しても彼は両親の顔色ばかり伺って、こそこそした人生しか送れないという事が分かってきました。
彼の両親の言う家柄とか親類や兄弟の出世とかで、彼は雁字搦めになっているみたいです。その息抜きが私だったようです。私を愛していたのではないのです。私も確かに彼に頼る可愛い女になりたい気持ちも起こって仕事を辞めました。彼が、事業を畳んで結婚の準備をしろと言ったのを切っ掛けで、全てを処分しました。しかし、彼はそのお金を何だかんだ言って私から引き出して、気が付くと私の手元にほとんど残っていませんでした。
彼は家で大きい顔をしたかったみたいです。お金を簡単に引き出せると知った途端、彼は人が変わったように優しさを売り物にしてきました。その時の私はその事に気付かず、愛が深まったと思っていました。それが、手元のお金が少なくなり、お金を出し渋ると急に態度が冷たくなりました。
私は彼だけでなく、彼の身内にも復讐しようと思いました。私は友人に私が変死したら、雑誌社に渡してほしいと書いて封書を送りました。そして、私のアパートにも遺書を置いてあります。それらには、彼の結婚詐欺まがいの証拠も入っています。彼が自慢気に話していた、父親の権力の裏話による政界のお金によるどろどろしたものを書きとめてあります。これらによって、政治家や大物財界人や高級官僚が逮捕や吊るし上げにあうことは確実です。
彼というのは悪い事と良い事の判断が麻痺しているようです。私は彼の話を最初に聞いたときは、裏には裏があるなぁぐらいに思っていたのです。でも、その話を彼が自慢げに、そして憧れるように話していることに気付いた時、恐ろしくなったのです。人を踏み付けにしても平気でいられる彼の人生に憤りを感じました。
そんな人たちによって動かされている人生を終わりにしたかったのです。そして、ただ死ぬのではなく、復習も兼ねたかったんです」
「自殺を後押ししたのは、やはり101秘密会議の発表ですか」
と、亜紀は聞いた。
「はい。楽しく旅行や娯楽で50年を費やす人たちもいる反面、復讐で暴露合戦をする人たちも出てくると思うのです。犯罪は論外ですが」
「今後、地下都市で過ごしたい人は良い人になる事を考えるでしょう。逃げ出せないのですから、みんなで協力する事が大事になると思うからです」
と、亜紀は言った。
「暴露派だった私ですが、あなたの声で私は死ねなかった。何か強く後ろに引き戻される力が働いたようです」
と話す30歳前後の女性の身体は小刻みに震えていた。
芳茂は、何事からも逃避してはいけないと言いたかった。
「あなたの憎む気持ちは、この人間社会に向けられていると思います。でも、死によって捨て去ればいいという選択はどうでしょうか。
人生は、元々限りがあるはずです。あなたにとって、現在が極限でしょうか。そうではないと思います。あなたは彼に会う前まで、仕事をバリバリやっていたと言うではありませんか。あなたなら彼との思い出だけを排除して、昔のあなたに戻れば、もう一度お腹の子供と一緒にやっていけると思いますよ」
と言って、芳茂は勇気付けた。
「どんなに他人に踏み付けられようと、単に他人が自分の人生に土足で入り込んでいるに過ぎないと思います。自分の人生を綺麗に掃除できるのはやはり自分自身なのではないでしょうか。
限りある人生を精一杯生きて、誰のためではなくて、自分が選んだ自分が切り開いた人生であると胸を張って言えるようにしたらどうでしょう。死ねば自分は二度と甦らない、甦るとしたら故人の生き様であり死に様ではないでしょうか」
と言って亜紀は少し黙った。
亜紀は死に様という言葉を言った後で、心の底から青球の最期を国民に告げた事でパニックによる悲劇が起こらないように願った。
青球が未来永劫不滅という事は、誰しも考えていない事だった。それゆえ、宇宙開発の意義も認めざるを得ない現実としてあった。宇宙開発というものは莫大な予算を持って計画されていた。これに対しての不満も数多く言われつつ、納得する向きもあった。しかし、青球の消滅と共にどのくらいの人間が、自分自身の余命と正面切って向かい合う事が出来るだろうか。そうして、失われし自分の命と引き換えに、一個人が種族保存や文明保存を冷静に考えられるものだろうか。
亜紀は人間が生まれてすぐに死を考えるわけがないと思った。しかし、次第に人間はいずれ自分に死が訪れる事を悟る。そんな亜紀も、祖父母の死を小学生の時に経験して、いずれ自分にも老衰から死がやってくるのだと知らされた。そんな時、亜紀は小さい心に死の恐怖を味わった。
「私は小学生の時に祖父母の老衰からの死を見て、自分の死に恐怖を覚えました。一時期、夕方にうたた寝をすると決まって死の恐怖を知らされる夢を見ました。それで、死は誰にでもくる試練なのだから乗り越えられると自分に言い聞かせました。すると、死の夢は見なくなったのです」
と、亜紀は言った。
「私も我にかえってから、急に恐ろしくなってきました。もう、二度と自殺など考えないでしょう。私は50年後には老衰を迎えるでしょうが、限りある人生を精一杯に生き、生まれてくる子には50年後の世界に打ち勝つ心を育てる覚悟です。もう大丈夫です。助けていただいてありがとうございました」
と言う女性には希望の兆しが見え始めた。
そこへ、彼女を心配し駆けつけた友達に、女性を託した。
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