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「恐ろしい。なんて恐ろしくておぞましいこと……」

 佐々山稲は自室の安楽椅子で、顔を手で覆い身を震わせた。何日たってもあの時の恐怖を忘れることができない。日に何度も思い出し、そのたびに稲はこうやって震えるのだった。

 あれは五日前のことだった。稲は家庭教師を迎える準備をしていた。家庭教師は東京帝国大学の学生でなみしんろうという。慎太郎は大学の授業の都合で、来るのが遅くなることがたびたびある。そんな時は稲が日出雄に勉強をさせるのだ。これも夫のもんからきつく言いつけられていることで、責任を持って日出雄を一高に合格させろと言われている。

 勉強部屋は一階にある。そこはもとは来客用の寝室だったが、日出雄のために勉強部屋に改装したのだ。

 家の中央にある広い階段を下り、ホールから玄関の前を横切ると、右手に嘉門の書斎があり左手には倉庫室がある。倉庫室も嘉門の部屋と言っていい。ここには嘉門がコレクションしている陶磁器や絵画などが収納されていて、普段は施錠され、だれも入ることを許されていない。嘉門は時折、内側から鍵をかけて、趣味の義太夫節の稽古をしたりもする。倉庫室は壁が厚く、高い位置に明かり取りの窓があるだけで声は決してもれないようになっていた。

 倉庫室の向こう隣、一番奥の部屋が勉強部屋だ。

 机の上には数学と英語の本、ノートなどが載っている。その前で日出雄がだらしなく座っていた。

「並木先生がいらっしゃるまで、昨日の復習をしましょうね」

「稲は字が読めるの?」

 日出雄が、代数と表紙に金の文字で書かれた分厚い本を見つめながら言った。いつもの小馬鹿にした口調ではなく、どことなく寂しげだった。

「読めますよ。でも日出雄さんがやってるみたいな難しい勉強はわかりません」

 日出雄との距離がぐっと近くなった気がして微笑んで言った。

「親父は金儲けしか頭にない下(げ)衆(す)な男だし、僕の母さんだってちっとも利口じゃなかった。旅芸人の男と駆け落ちするような、頭の悪い女だ」

「そんな。お母様のことをそんなふうに言ってはいけないわ。人にはわからない事情があったのかもしれないし」

「事情? わかりきったことさ。色狂いだったんだ」

「日出雄さん」

 稲は思わず感情的になって叫んだ。日出雄の母親がどんな人かは知らないが、実の母を悪しざまに言う日出雄が許せなかった。

「なんだよ」

 日出雄は立ち上がって、稲をにらみ付けながら近づいてきた。

「なんだよ。すました顔しやがって。おまえだって色狂いだろう」

 稲の肩をどんと突いて、「そのうえ親父の金目当てなんだ」と罵った。

 こんなにも日出雄に嫌われていたとは。

 稲はめまいを覚えて、傍らの寝台ベッドに手をついた。

 そこへ目を光らせて日出雄が突進してくる。

 稲を押し倒し、胸元に手を差し入れてきた。

 日出雄の手を払いのけ、「なにをするの」と叫んだ。しかし声は低く押し殺した声になった。家の使用人に聞かれたら大変なことになる。咄嗟にそう思ったのだ。口さがない者たちが嘉門の耳に入れでもしたら、どんなことになるか想像がつかない。どう言い訳をしようと嘉門は許さないだろう。

「やめて。こんなことをしていいと思ってるの?」

 激しく抵抗する稲を、日出雄は容赦なく力ずくで押さえつけ、稲の口を自分の唇で塞いだ。

「大きな声を出しますよ」

 日出雄の頭を押し退けながら、やっとのことでそう言った。

「やってみろよ。大きな声で叫んでみろよ」

 日出雄は憎々しげに笑った。

 その時、ドアが半分開いているのに気が付いた。稲がはっとして頭をもたげると、そこには家庭教師の慎太郎が立っていた。

 半ば呆然として、驚きのために身動きができないといったように凍り付いていた。

 さすがに日出雄も驚いたのか、素早く身を起こして稲から離れた。だが、すぐにいつものふてぶてしい態度になって悠々と椅子に座ると、何食わぬ顔で英語のテキストを開いたのだった。


 稲は覆っていた手を取って、顔を上げた。。

 忘れようとしても繰り返し思い出される。けだもののような日出雄の体臭や熱い息。胸を摑まれた時の荒々しい手の動きが、いまだに皮膚に残っていた。

 あんな姿を慎太郎に見られたことが衝撃だった。だがそのおかげで助かったのだ。慎太郎が来てくれなかったら、どんなことになっていただろう。

 思い出すたびに日出雄への怒りと悲しみが湧いてくる。自分を母とは、これっぽっちも思っていないのだ。

『どうすればいい? どうすれば私は日出雄さんの母親になれるの?』

 今夜は夫の嘉門が、客を招いて酒宴パーティーを催すのだ。こんな気持ちのままでは、とても女主人としての務めを果たすことはできない。

 稲は身繕いをして外へ出た。

 この気持ちをだれかに話して、少しでもいいから気持ちを整理しておきたかった。

 家の中はもちろん、近所にも親しい人はいない。しかし煙草屋のタケさんだけはいつも優しい言葉をかけてくれる。それで神楽坂の煙草屋に足を向けた。

 両側にたくさんの店が並ぶ道を歩いていると、少しずつ心が落ち着いてきた。実家の下駄屋も浅草のこんな通りにあるのだった。いつも人で賑わっていて、隣の荒物屋のおばさんは稲を可愛がってくれた。そんなおばさんに何となく似ているのが、煙草屋のタケさんだ。

 煙草屋には客がいた。角帽を被った学生だった。上がり台に座り込んで長居をしそうな感じだ。

 稲は仕方なく早附木マッチだけを買って帰ろうとした。タケさんが煙草も買って欲しそうだったのでそれも買い、とぼとぼと家に帰ったのだった。

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