1ー3

 気が付くと鏡花先生の家の前に立っていた。どうやってここまで来たのかわからないが、とにかく目的地に迷わず到着できたのだ。

 玄関の引き戸を開けて、「ごめんください」と声をかけた。僕の声は意外にも落ち着いていた。気味の悪い婆さんのおかげで、今朝の浮ついた心はすっかり冷静さを取戻したのだ。あのままの舞い上がった調子でここを訪れていたら、どんな失敗をしたかわかったものではない。僕は心の中で婆さんにお礼を言った。

 色の黒い小柄な女中が出てきたので、来意を告げた。すぐに女主人らしき人が姿を現して、「まあ」と可愛らしい声を上げ、笑顔になった。

「あなたは」

 僕も驚いて思わずそう言った。

 鏡花先生からの返事を待って、しょっちゅうこのあたりをぶらぶらしていた時に、豆腐屋の前でこの御婦人をよくお見かけしたのだ。あまりにもたびたび会うので、近頃では言葉も交わすようになっていた。

「鏡花先生の奥様だったんですか?」

 とても嬉しくて、思いがけず大きな声が出てしまった。

「しっ」と奥様が人差し指を唇に当てる。

「えっ?」

 僕は反射的に手で口を塞いだ。

 その時いつの間にやってきたのか、鏡花先生がすぐそばに立っていた。そして眉をひそめ、なにかを言いかけて言葉を飲み込んだ。

 僕には先生が、「ば」と言ったように聞こえた。

 ば?

 それにつづく言葉は「ばか」しか思いつかない。初対面でいきなり僕は先生のご機嫌を損ねてしまったのだろうか。

「さあ、中へどうぞ」

 奥様は気にするふうでもなく僕に言う。先生も多少ぎこちない笑顔ではあるが、一応にこやかに微笑みかけてくれた。ほんのわずか救われたような思いで、先生に続いて居間に入った。

 向かい合って座ると鏡花先生は言った。

てらくんだったね。いつも手紙をありがとう」

 僕は胸が一杯になってなにも言えず、「どうも」とか「はあ」などと気の利かない返事をしていた。

 奥様がお茶を持ってきてくれた。鏡花先生の隣に座った姿は、実にお似合いのご夫婦だ。

 僕は茶碗を手に取った。

「わっ、ちっちっちっ」

 あまりの熱さに茶碗を取り落とした。

「寺木さんのは少しぬるめにしたんですけど、熱かったですか?」

 熱いなんてものじゃない。

「すみません。とんだ不調法を」

 僕は腰に下げた手ぬぐいで、そこらを拭きながら謝った。

「なに、構わないよ」

 鏡花先生はそう言うと、指先でひょいと茶碗の縁をつまみ、口をすぼめ美味しそうにお茶を飲んだ。

「私の小説をずいぶん読んでくれているようだね。ありがとう」

「ぜ、全部読んでます。先生の作品は全部です」

 僕は再び頭に血がのぼって、いかに鏡花作品を愛しているかを蕩々と語った。夢見心地だった。一人で喋り続ける僕を、御夫妻はにこにこして聞いていた。

 喋り疲れ、さっき奥様が入れ直してくれたお茶をいただくと、いい具合に冷めていた。

「ところで寺木さん、その額の傷はどうしました?」

「ああ、これですか」

 僕は煙草屋の前で子供に石を投げられたことを話した。もちろんその時、僕が先生の葉書を胸に抱いて身をくねらせていたことは秘密だ。

「で、煙草屋のお婆さんが手当をしてくれたんです。いい人ですね」

「ええ、タケさんはいい人ですよ。私もよくあそこに煙草を買いに行くんです」

 奥様は、もっとなにかを言いたそうにしていたが、僕は目が銀色に光っていたことを言おうか、言うまいか迷っていた。

 突然、襖が開いて白髪頭の老婆が顔を出した。

 一瞬、下宿のまかないのウメさんかと思った。だが、着物の柄が違う。では奥様がタケさんと呼んでいた煙草屋のお婆さんかと思ったが、やはり着物の柄が違うし顔の皺の感じも違う。

 この世にこんなによく似たお婆さんがいるものだろうか。しかもこんな近所に。

「台所に鶏肉を置きました。あちらの奥様からです。なんでも実家でめたんだそうで」

「まあ、ありがとうございます。あとでお礼に伺います」

「こちらの先生は鶏がお好きだそうで」

 どうやら隣の家の女中らしいが、勝手に家に入ってきて襖を開け、立ったまま話し込むとはなんと不作法なのだろう。しかし先生も奥様も慣れっこなのか、にこにこ顔で話を聞いている。

 奥様が「マツさん」と呼んでいるので、僕はギョッとした。ウメ、タケときてマツとは。これで松竹梅が揃ってしまったのだ。その上、三人の容姿は気味が悪いほど似ている。

 まさか、この婆さんの目も光るのだろうか。

 僕は身を乗り出してのぞき込んだ。マツが、ようやく僕の存在に気づいたように振り返った。

 はたして目は人とは思えない色で光っていた。黒目も白目もなく、全部が赤銅色に輝いている。

 僕は意識が遠のくのを感じた。

 敬愛する先生の前で、これ以上の失態はないだろう。だが僕の意思は、目が光る三人の婆さんによって粉々に打ち砕かれ、おぼろげな闇の中へと沈んでいったのだった。

 少しの間、僕は気を失っていた。そして目が覚めた時に、殺人事件の知らせを聞こうとは夢にも思わなかったのである。

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