1ー2
鏡花先生のお宅に近づくにつれ、僕の胸は高鳴り平静ではいられなくなった。仙台の中学では僕が中心となり、
僕は神楽坂の緩い坂を上りながら、もう何度も眺めた葉書をまた懐から取り出した。
『学校よりの御かへりに御立寄りなさるべく候』
葉書を胸に抱いて、女学生のように
ふと目を開けると、三人の汚らしい子供が口を開けて僕を見ていた。恐ろしいものでも見たような目つきである。二、
「この」
追いかけようと足を踏み出すと、一人の男の子が石を拾って僕に投げつけた。運悪くそれは僕の額に命中した。手を遣ると血が流れている。
怒りで呆然としていると、後ろから僕の肘を掴む者がある。白髪の老婆だった。僕はその姿を見てギョッとした。一瞬、下宿のまかないのウメかと思ったのだ。真っ白な髪といい、のっぺりした顔といい、ウメにそっくりだった。
「おいで、血が出てるから」
老婆は僕の肘を引っ張って、煙草屋の中へ連れて行く。どうやら手当をしてくれるみたいだ。上がり台に座らされ、血を拭いてくれた。晒し木綿になにやら緑色の膏薬を塗り、傷口を押さえ、僕の手を取って自分で押さえろと言う。
「あんた、よくこのあたりをうろうろしているよね」
声もウメによく似ていた。鏡花先生の家はここから細い路地に入って、少し行ったところにある。僕は学校の行き帰りに、もしや鏡花先生と偶然に会うことはないだろうか、と用もないのにいつもぶらぶらしていたのだ。
「お婆さん、いつもここで煙草を売っているんですか?」
僕は額の傷を押さえながら言った。
「それじゃあ、泉鏡花先生もここに買いにくるんですね」
「泉鏡花? だれじゃそれは」
この婆さんが知らないのは仕方ない、と思ってみても少々不愉快だった。この世に文豪泉鏡花を知らない者がいることが許せない。
店に客が来て、婆さんは応対している。丸髷も艶やかな御婦人が、早附木(マッチ)をくださいと言っているのだが、突然耳が遠くなったのか、「は?」と何度も聞き返している。そして婆さんは言った。「煙草はどれをあげましょうかね」御婦人は渋々、煙草と早附木を買って帰っていった。
「あの奥さんはね、
「はあ」
美人には美人だが、なんだか
「そうなんだよ」
「え?」
まるで僕の心の中を読んだみたいでギョッとした。しかし婆さんは知らぬ顔で続ける。
「気の毒な人でね。佐々山さんは牛鍋屋を浅草と日本橋と……えーっと」
婆さんは指を二つ折ったあと、もう二つ折ったが場所が出てこないようだった。
「とにかく手広くやっていてね、そりゃあお金持ちなんだよ」
「それのどこが気の毒なんですか?」
「話を最後まで聞かんかね」
婆さんは僕の頭にゲンコツを食らわせた。これがけっこう痛い。
佐々山は稲という若い後妻をもらったにもかかわらず、結婚して一年もたたないうちに外に妾(めかけ)を囲い、ほとんど家に帰ってこない。
家には先妻との間にできた息子、日出雄がいるが、これが根性のひねくれた男で、継母である稲を毛嫌いし、いじめ抜いているというのだ。日出雄は数え年十九歳であるが、高等学校の受験に二度も失敗し、今も受験勉強をしている。
女中たちも先妻を慕う者が多く、佐々山の家に稲が相談できる者はいないという。
「稲さんは、本当に心の優しい人でね。佐々山の家の悪口を言ったりはしないんだよ。私は、あそこに出入りしている御用聞きから聞いたんだ。だけどたまに帰ってくる旦那のために、ああして煙草を買いに来た時に、『どうしたら日出雄さんと仲良くできるかしら』なんて、こぼしていくのさ」
「で、お婆さんはなんて言ってあげるんですか?」
「え? 私かい? 私がなんか言ったってしょうがないからねえ。どうしたもんかねえ、とか、それくらいしか言ってやれないよ。いつもそんな感じさ」
こう見えてこの婆さんは、案外いい人なのかもしれない。見た目は妖怪砂かけ婆のように不気味なのだが。
「それが、四、五日前だったかね。ひどく面やつれしていたんで、どうかしたのかいって訊いたんだ」
すると稲は激しくかぶりを振って、「なんでもありません」と言う。どう見てもなんでもないようすではなかった。
「だけど顔色が悪いよ。また日出雄にいじめられたのかい?」
「いいえ。もう日出雄さんとは、すっかり仲良くなりました。ぜんぜん心配いりません」
稲は叫ぶようにそう言うと、なにも買わずに帰ってしまった。
「なんにも買わないんだよ。まったく、なんだってんだ」
そこかい。と思わず僕は言いそうになったが、すんでのところで踏みとどまった。
「おかしいと思わないかい?」
「よその煙草屋で買おうと思ったんじゃないですか?」
「そうじゃないよ。日出雄と仲良くなったんなら、もっと嬉しそうにしてても良さそうなもんじゃないか。あんただって見たろ? 稲さんのやつれた顔を」
たしかに病人のような顔色だった。
「日出雄さんとは仲良くなったけど、別の問題が起きたってことでしょうかね」
僕はそんなふうにお茶を濁した。額の傷は血が止ったようだ。立ち上がって礼を言い、店を出ようとすると、婆さんが僕の袖を引っ張る。
「私はね、なにかとんでもないことが起きてるような気がするんだ」
地の底からわき出るような、しわがれた声で言うと僕を見上げた。
婆さんの目からいきなり銀色の光が放射され、僕の目の中に飛び込んできた。頭の奥が冷たくなって痺れている。婆さんの銀色の目が、暗い店の中でいつまでも光っていた。
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