水鏡花の幻(みずかがみはなのまぼろし) 第一話 悪獣篇(あくじゅうへん)

和久井清水

1ー1

 これは僕が、名作『悪獣篇』が誕生するきっかけとなった事件に遭遇した時の話。

     

                  1


 敬愛する泉鏡花先生の葉書を受け取ったのは、二月十日の朝のことだった。下宿の学生たちが、湯島天神の梅が見頃を迎えたそうだ、などと食事室で喋っているのを聞きながら、納豆をかき混ぜていると、まかないの婆さんが一枚の葉書を差し出した。

「すまんかったねえ。昨日届いていたんだけど、渡すのを忘れてしまって」

 そう言ってさっさとくりやの奥に引っ込んだ。

 葉書に目を落とすと、差出人は泉鏡花先生その人だった。夢にまで見て待ち焦がれていた返事が、ようやく来たのだ。

 僕は箸を置いて立ち上がった。二階に上がり、自分の部屋の中をぐるぐると歩き回った。

 まだ文面は読んでいない。目の焦点が合わず読めないのだ。心臓が早鐘を打ち、頭に血が上り足元がふわふわしている。

 仙台の中学を卒業し、早稲田の文科へ進学した僕は、数え切れないほど鏡花先生に手紙を書いた。いかに先生の小説に夢中であるか、どれほど作品を愛しているか、便せんにびっしりと書き連ね、最後は必ず、先生のような小説家になりたいので弟子にして欲しいと締めくくった。

 しかし返事は一向に来なかった。僕はそれほど辛抱強いほうではないのだが、自分でもどこからこの情熱が湧いてくるのかと不思議に思うほど、一年近くもめげずに手紙を出し続けたのだ。

 とりあえず四畳半の真ん中に正座した。

 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 目をつぶって鏡花先生の葉書の文面を想像する。

『きみの手紙は文才に溢れてゐますね。すぐに弟子にしてあげませう』

 これが僕の想像する最上級の文面だ。だが、最低、最悪の文面は、『しつこく手紙をよこすのはおよしなさい』というものだ。

 最上級と最下級の想像を行き来しているうちに、呼吸困難に陥った。

 こんなことをいつまでもやっていては、日が暮れてしまう。僕は大きく深呼吸をして葉書を読んだ。

 初めて見る鏡花先生の直筆の文字は、繊細にして流麗。先生の作風そのままの美しさだった。

『学校よりの御かへりに御立寄りなさるべく候』

 時候の挨拶や勉学に励んでいますか、などという優しい言葉のあとにそう書いてあった。

 天にも昇る気持ちというのはこのことだろうか。大学に行く気はとうに失せて、すぐにでも先生のお宅に行きたいのだが、朝のうちはご迷惑だと思いとどまる。

 昼まで待って、学生服の皺をのばしマントを羽織った。角帽を被って玄関に出る。革靴は手が出ないので下駄履きである。するとまかないの婆さんが僕を呼び止めた。

「すまんがのう。この樽をそっちの物置に持って行ってくれんかのう」

 二つ返事で樽を運ぶと、こんどは雑巾を洗った水を外に捨てて欲しいと言う。

「昨日から腰が痛くてのう。すまんね」

 しきりにすまないと言うわりには、それほど申し訳なさそうでもない。あれやこれや用事を頼まれているうちに、僕は今朝、婆さんが言っていた言葉を思い出した。鏡花先生の葉書は、昨日のうちに来ていたというあれである。「すまんかったねえ」ですまされることではない。昨日、その葉書を受け取っていたら、僕は一日早くこの幸福に浸ることができたのだ。

「あの葉書ですけどね。困りますよ。昨日来たのなら、昨日のうちに渡してくれないと」

 僕は胸をそらし、葉書がどれほど重要なものであったかを付け加えた。

「おや、それはすまんかったねえ」

 軽くいなそうとする婆さんに、僕はなおも文句を言うべく、ずいと前にまわって顔を見据えた。

 一尺ほど背の低い婆さんが僕を見上げていた。髪は真っ白なわりに顔に皺がない。なんとなく八十歳くらいだと思っていたが、ずっと若いようだ。

 そういえば婆さんの顔をちゃんと見たことはなかった。下宿の奥様が、「ウメさん」と呼んでたのを思い出す。ここにはもう一人、という若い女中がいる。千代はおもに奥様と旦那様の身の回りの世話をするが、食事の支度はウメと一緒にやっているようである。

 この家は昔、開花楼という貸座敷だったのだが、経営が傾いたのを今の旦那様が山林を売った金で買い、下宿屋を始めたのだと聞いた。そこここに贅沢な装飾があるのはそのためらしい。

 婆さんは僕の顔を見つめている。意外に大きな目だった。瞳にちらちらと金色の光が見えた。最初はなにかの光が反射しているのかと思ったが、それば婆さんの目の中で小さな、金色の炎のように燃えているのだった。

 僕はその光から目が離せなくなった。だんだんと頭がくらくらしてきて、息が苦しくなる。婆さんの目の中の炎はいよいよ明るく燃え、金色の光を放っていた。

 その時、僕の後ろで千代が声をかけた。

「ウメさん。そこが終わったら買い物を頼みます、って奥様が」

「へえへえ」とウメは二、三度うなずいて、僕から視線を外した。ウメの目はもう光ってはいなかった。

 外へ出ると、日差しは春を思わせる暖かさだった。どこかから花の香りも漂ってくる。

 今し方見たものが、なんだか夢の中の出来事のような気がする。しかし僕の心はすぐに鏡花先生のお宅に飛んでいった。足取りも軽く、まるで体に羽が生えでもしたかのようだった。混雑する飯田町駅を人の流れを縫うように行き過ぎたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る