2ー2
「並木先生がお話ししたいことがあるそうです」
女中のお志津が稲の部屋に来てそう告げた。
佐々山家には三人の女中がいる。お志津は今年十八で、三人の中では一番気立てがいい。ほかにお志津の後輩である十六歳のお民と
「並木先生は食堂でお待ちです」
お志津は頭を下げて戻っていった。
慎太郎とはあの日以来口をきいていない。稲が避けていたのだ。慎太郎の話はあの日の事に違いないのだ。胃袋がぎゅっと縮んだ。
食堂に入ると、慎太郎は沈鬱な顔で身を固くしていた。金ボタンの付いた黒い学生服が帝大生らしく凜々しかった。
「奥様、あの」
慎太郎が居住まいを正して言った。
女中のお民が部屋の隅でかしこまっている。無表情を装っているが、慎太郎の言葉に耳をそばだたせてた。
「お民さん。ここはもういいですから」
稲が言うとお民は顔を歪め、ものも言わずに出て行った。
慎太郎はお民の後ろ姿を不快そうに目で追った。
「知ってますか? お民は日出雄くんを好いているんですよ。ベランダの陰で二人がこっそり会っているのを見たことがあります」
「それじゃあ、日出雄さんもお民さんを?」
「いいえ。日出雄くんにはその気はないそうです。僕が本人に確かめましたから間違いありません。日出雄くんはお民を遊び半分でもてあそんでいるんです」
「まあ」
言葉がなかった。なんという卑劣な男だろう。だれかれ構わず女と見れば手出しをするのか。それが、血は繋がっていないとはいえ母親であっても。
「言いにくいのですが、あの日、お民はあの勉強部屋で立ち聞きをしていました。僕はお民を叱ったのです。そしてドアを開けたら……」
稲は凍りついた。言わなければならない。誤解されないように。他の人に言わないように。ああ、だけど。お民をどうやって口止めすればいいのだろう。
「心配いりません」
向かい側に座っていた慎太郎は立ち上がり、稲の隣に椅子を引き寄せて座った。
「僕はだれにも言いませんから」
「でも、お民は」
「お民にも言っておきました。お民がだれかに言えば、日出雄くんはおまえを嫌って辞めさせてしまうだろうって。お民には気を付けてください。それから日出雄くんにも。なにか企んでいるような気がします。それが言いたかったんです。それと、僕はいつでも奥様の味方だと言うことを」
慎太郎は稲の目をじっと見つめていた。知的で優しい目だった。
そういえば、慎太郎はいつでも稲をさりげなく庇ってくれた。稲がどんなに優しい思いやりの深い継母であるか、日出雄のことをどんなに親身になって力になりたいと思っているかを、押しつけがましくなく上手に言って日出雄を諭してくれた。日出雄が乱暴な口をきくと、「一高に入るなら、そういう言葉遣いは直さなければいけませんね」と笑ったものだった。
「あなたが日出雄くんのいい母親になろうと頑張っているのを、僕は知っています。けれど日出雄くんはなにもわかっていない。こう言ってはなんですが、一高にも受かる見込みはありませんね。だけど旦那様は必ず合格させるようにと言う。無茶な話です」
「並木先生にもそう言うんですか?」
「稲さんも言われているんですね。だけど無理だ」
慎太郎がさりげなく、稲と呼んだのがなぜか無性に嬉しかった。
「日出雄がお民と駆け落ちでもしてくれればいいのにと思いますよ」
「まあ」
「冗談ですよ。だけど時々思うことがあります。いなくなってくれないかな、と」
稲は顔を上げられなかった。実は自分も、恐ろしいことだけれど、そんなことが心をよぎったことは何度かあったのだ。
慎太郎は稲の手を握った。不思議と嬉しさがこみ上げてくる。なにも言わなくても、ありありと慎太郎の気持ちがわかる。そして稲は、初めて自分の気持ちに気が付いたのだった。慎太郎を好いていると。
久々に帰宅した嘉門は上機嫌だった。今夜の
稲は嘉門に渡された新しい着物を着ていた。濃い紫に桃色と黄色の大きな牡丹が咲き乱れている銘仙だった。夫の好みとはいえ、こんな少女が着るような着物で人前に出るのは嫌だった。
稲は今年二十二になる。父親が病気で借金がかさみ婚期を逃したのだ。嘉門は借金を払ってくれた上に、行き遅れた娘を嫁にもらってくれたので、実家では嘉門を神のようにあがめていた。
嘉門は四十八歳。成功した経営者らしくどっしりとした体型に、頭の真ん中で髪を分け、口のまわりには黒々とした髭を生やしていた。
嘉門は稲の姿を上から下まで舐めるように見ると、「まあいいだろう」とことさら重々しくうなずいた。
「髪結いを呼んでひさし髪にしてもらえ」
そう言うと嘉門は自分の書斎に入ってしまった。
稲は普段、丸髷を結っている。丸髷は既婚者だけが結う髪である。せめて髷の形でこの家の女主人であることを示したかった。しかしこの着物にひさし髪では、まるで女学生ではないか。
嘉門は自分を妻として、客たちに紹介するつもりがあるのだろうか。
嘉門こそいなくなればいいのに。
稲は胸の奥に生まれた思いに気づき、慌てて打ち消した。
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