2. 王弟殿下のかくしごと

 ――太古の昔。一人の女が死んだ。

 島を汚染し、火の海にした邪竜を斃すべく立ち上がり、そして相打ちの末、邪竜の毒にやられた。身を丸めるように倒れ伏した彼女の身体からは植物が芽吹いたという。それらは根をはり、種を飛ばして全世界へ広がった。どんな命も育むことはかなわないと思われた土壌はその植物によって毒を払われ、彼女の死が、血が、肉体が、今の生態系を作った。

 彼女の死んだ土地は聖地となり、彼女の死を悼み、感謝と鎮魂のため祀ったのが今の王家である。

 そして死んだ邪竜は山脈となり、固まった血は毒を孕んだ。土を汚染しながらも、人々はそれをエネルギーとして活用する術を見つけ、邪竜の遺骸を少しずつ掘り出し、無毒化し、人の世へ送り出した。それが現在のグルーバー伯爵領の起源である。




 現在、カタリナは忙しい。本来であれば長い婚約期間を経て公爵夫人としての教育を受けるが、彼女の場合は先に結婚してしまったため、一日の殆どが必要な知識や教養の勉学に充てられていた。

 だが、貴族の女性としては体力のあるカタリナにとって、肉体疲労はたいしたことはない。美しい姿勢を保ち続けることなど苦ではなかった。貴族名鑑に連なる名前と顔、それぞれの領地の事情も、歴史と共に把握すればついていける。そして結婚に至るまでの特殊性を鑑み、エドワードが今期のみならず来期までの社交の全てを完封していたため、彼女の一挙手一投足を論(あげつら)う者もなく――もっとも夏も盛りを過ぎ、社交シーズンを終えようとしていたのも大きい――公爵夫人としの本番が遠いことも、カタリナに心の余裕を持たせていた。


 カタリナにとって一番難しいこと。それは、エドワードの中にある誰も寄せ付けないような怜悧さの謎だった。

 今のところカタリナしかそう感じていないということがこの謎を深めており、その上それとなく周囲に聞こうにも、エドワードに対し忠誠心の高い公爵家の使用人達に滅多なことを言ってしまえば悪感情を持たれる可能性すらあり、彼らの助力も得にくい。


 カタリナは当初、娯楽本にあるような『陰謀渦巻く王宮での生活』が彼をそうさせたのかと思っていた。だが必要な知識が増えるにつれ、現在の王室は歴代の中でも穏やかで、陛下とエドワードとの兄弟仲も良好であることが分かった。そういえばと過去を振り返っても、噂話でさえ不仲だとは聞いたことがない。

 実際、公爵領へ来るまでは王都のタウンハウスに身を置いていたため、何度か国王陛下や王妃陛下に呼ばれてエドワードと共に登城したが、カタリナの思い描いていたような不穏な空気はなかった。

 現在のカタリナに対する態度の方が煮え切らないほどで、歯切れが悪いことも度々あって、悪いとさえ感じる。無論、人の目がある所では一切の破綻なくカタリナを大切に扱うし、カタリナも皆がいる場でエドワードの心の内を紐解くような無作法はしないため、表面上は非常に仲睦まじい新婚の二人だと言えた。


 結婚し、公爵領へ来てからのエドワードは少なくとも学友の頃には見せなかった歯切れの悪い態度を頻発させるようになった。

 それの良し悪しはカタリナには分からない。

 世の中には『真綿で首を絞められる』などと言う表現があるが、今の状況はそれに近いのではないだろうかとカタリナは胸中にある焦燥感を拭えなかった。


 仮にエドワードの態度がどう転ぼうと、結婚した以上そう簡単に離縁はできない。サリバン公爵家とグルーバー伯爵家は公的な協力関係が結ばれている。これを速やかに実行するために結婚という手段が用いられたのだ。

 つまり契約履行の保険であり人質としてカタリナは嫁ぐことになった――それがやけにグルーバー伯爵家にとって喜ばしいものばかりであることを除けば、貴族としては珍しくもない縁の結び方である。

 伯爵家の資産の大半は鉱山から運び出される鉱石の数々で、その中には石油や石炭以上に効率の良い魔石や、カッティングによって王侯貴族を楽しませる類いの鉱石もある。装飾品としてならばそれ用の、燃料としてならば相応の扱い方を心得ている職人達も数多くおり、伯爵家で囲っている。

 今すぐに融通しろとは言わずとも、最終的にエドワードが欲しているものがそれらの鉱山資源・人的資源ならば理解は早いというものだ。

 しかし、カタリナにはその筋もピンとこなかった。


 聖王国シェメシュ。これがカタリナやエドワードの属する国の名前である。大陸よりほど近い島国ではあるが、王朝が変わることなく続き建国から千年以上経つことで知られている。のだ。しばしば行われる反乱や相続争いは貴族の家でこそ行われるものの、王家は常に彼らの一つ上に居続けた。時折王家と言えど厳しい沙汰を下さねばならないような人物もいたが、それで王家が揺らぐことはなく今に至る。

 そんな王家に連なる人物が、例えどれほど有用であろうとも今更地方領主の所有するものを欲するだろうか。国力を高めるためであれば、現在王家及びエドワードが管理する領地のような、沢山の食糧が得られる豊かな土地を欲する方が余程手っ取り早い。

 サリバン公爵領では畜産も行っているが、一般的に肥沃な土地では畜産ではなく、穀物のような長く備蓄が可能な植物に割く面積を広く取るものだ。動物よりも人が食べる量の方が少なく済み、より多くの人間の食い扶持が増えるからだ。税金を米で徴収する国もあるほど、国の運営には欠かせないのが食糧なのだ。 


 エドワードが欲しいのはそう言った国のために必須である資源ではない。グルーバーにそんなものはない。わざわざ加工が難しいエネルギー資源に手を伸ばすほど困窮してもいない。

 ということは、エドワードはカタリナ自身に何か価値を見出したということになる。それを愛情から来るものだと断じることができないのは、直感とも言うべき感覚が否定するからだった。グルーバー伯爵家の人間は皆、この感覚を重要視している。

 炭鉱の中のカナリアと同じ。微細な変化を、言語にするよりもずっと早く違和感として感じ取る。それは領民と自分たちの命を守ってきた鋭敏な技術であり、グルーバーという環境が育んだ才能だった。

 他人からすれば鼻で笑われて終わるそのか細い糸を、カタリナは握りしめる。


 直接問いただしたところで思う回答が得られないのは既に分かっている。であれば、カタリナはただ前に進むだけだ。公爵夫人として必要な教育は必死に食らいついていればいつかは終わる。だが、ことエドワードに限っては彼の胸先三寸で全てが決まる。

 彼女は人知れずため息をついた。難攻不落というものの味は酷く曖昧で、いつまでも口の中に残る肉の筋のようだった。





 カタリナは人を使って情報を集めることを覚えた。何せ自分が貴族の中でも中枢に食い込むことは完全に想定しておらず、グルーバー領の特殊な環境もあって、弟妹が縁づいた家の周辺以外のことは知識が欠落している。学生としてはそこまで落ちこぼれてはいなかったが、自分と縁遠い事柄について、彼女は積極的に学ぶことがなかった。


 エドワードは王弟にして、学生時代に既に公爵として土地を任されていた。これはエドワードがそれだけの能力を有している証明だ。侮られている、という評価とはちぐはぐな印象を受ける。


 結果、遅ればせながら得たのは『噂を流しているのはかつてエドワードを支持していた貴族からの失望の結果によるもの』という結論だった。一時、エドワードは類い稀なる聡明さを見せたという。だからこそ公爵という強い権限を持つ爵位を持つに至った。それは彼の兄や父からの期待と信頼の証であり、彼はそれに充分応え続けている。しかし完全に臣下として振る舞うエドワードに対して、能力があったからこそ王位を目指さない姿勢を『腰抜け』、『結局王の器ではなかった』と見る家がいくつかあった。そしてエドワードはその評価を放置しており、王家がそのことについて反応しないのは、彼自身が王家に対しそう働きかけているのだと考えるのが妥当だろうとカタリナは判断した。


「……閣下は本当に難儀なお方ね」


 呟きは、カタリナの私室で控えている侍女に向けた声かけだった。グルーバー伯爵領では指揮系統としての上下はあったが、身分による断絶がない。貴族も平民もなく声を掛けあうのは珍しくないことで、ふとした拍子に出る癖のようなものだった。

 侍女は控えめに頭を垂れ、カタリナの言葉に反応する。


「私からは、なんとも」

「ええ。どうすればもう少し閣下の肩の荷を下ろせるのでしょうね」

「……失礼ながら、奥様がそう感じるのは何故でございましょう」

「閣下にはわたくしたちが見えていないものが見えているのでしょう。それが閣下のお心を悩ませている。それがなんなのかまだ分からないけれど、それを取り除くかどうにかしなければ……閣下の人生はつまらないままよ」


 思考を整理するようにカタリナは言葉を続けた。


「退位なされた前国王陛下にお目通りできないものかしら」


 まだ存命であるエドワードの父。兄弟仲が良いのは嫌と言うほどに感じたカタリナは、親子関係について当たってみることにした。

 だが。


「流石に父上を捕まえるのは僕にも、陛下にも難しいな」


 夜、寝室でエドワードにそれとなく話を振ると、苦笑いと共にすげなく返されることとなった。


「なぜかお伺いしても?」

「単純に、母上と外遊なさっているからね。退位なさったとはいえ、下手な外交官よりも影響が強いのもあるし、国を背負っていない今だからこそ、私人という体で向かうことができる」

「……危険ではないのですか。護衛は……いらっしゃらないのでしょう?」

「数人、近しい者が仕えてはいる。でも、そうだな……危険がない事はないはずだが、慣例上、外国で誰かに襲撃を受けても、国としては一切関与しないことになっている」

「そんな、」


 思った以上に心ない対応ではないか。そんな気持ちを込めてカタリナが反応すると、エドワードは穏やかな声のまま続けた。


「王家に生まれた者が謳歌できる自由な時間だと思えばいい。僕たちは人生の大半を国のために過ごす。勿論君たちも同じだとは思うが……。君のお父上はまだご健在だし、グルーバー伯爵領は中央の貴族達よりももっと長い間現役で勤め上げるから違和感があるかも知れないが、珍しいことではないよ」

「……そう、ですか……」

「そのうちここにもひょっこり顔を出すと思うから、その時は語らいの時間を取ろう」

「分かりました」


 納得を示して引いたカタリナの髪を、エドワードの指先が丁寧になぞった。




 サリバン公爵領は馬蹄形カルデラという地形で、馬の蹄の形のように山が隆起している。火山由来の地形だが、今は火山活動も観測されておらず、丁寧に管理された草木が茂っている穏やかな土地だ。その形のため、大きな河も、街道も有していないが、交易に頼らずとも生活が望める強い土地でもある。

 エドワードは執事や家令に仕事を任せつつも、ふらりと領地を視察し、平民達の作る作物や加工品を楽しみにしていた。そこにカタリナが加わることは、ごく自然な流れだった。

 よく鞣された革、熟成された肉、怪我の療養にさえ有用な温泉、柔らかな湧き水、豊穣を願う祭りに、感謝する祭り。手を掛ければかけるほど実る野菜や果物、そして穀物。その全てが、グルーバーでは不可能な事業だった。

 エドワードに乞われなければ、カタリナはきっと採れたての野菜をサラダにして食べることも、軟水がそのまま飲めるほど口当たりが柔らかいものだということも、贅沢なほどの湯量も、そこに身を浸すだけのことがどれほど身体を解すのかも知ることはなかっただろう。カタリナにとっていっそ残酷なほど、サリバン公爵領は『豊か』だった。


「僕はね、ケイト。君にもっといろんなものを見せたい。そして同時に、僕に仕える者にグルーバーがどんな土地なのか、どんな文化と価値観を築いてきたのかを知って欲しいと思っている。彼らは大体が領地を持たない、爵位を継がない子爵家の人間だからね。いつか君の振る舞いに眉をひそめたような貴族達が君たちに押しつけてきたものがどういうものなのかを、肌で感じる良い機会になるだろう。

 これは僕の個人的な意見だが、王家はもっとグルーバーに報いるべきだと考える」

「勿体ないお言葉です。……閣下は、そのお考えのもとわたくしを?」

「頷くことで君の納得を得られるのだとすると不本意だが……それも一つの理由だね。突然伯爵にあれこれと融通することはできない」

「それはもちろんです」


 王妃陛下の第三子の懐妊発表の時期と、元々のエドワード個人の思惑が重なった結果。それはカタリナを十分に納得させた。

 だが、カタリナは好奇心が育っていくのを感じた。エドワードがそう考えるに至ったきっかけがまだ分からないからだ。

 視察から戻ったら、一度閣下の書いた論文をいくつか読んでみようか、とカタリナは考えた。




 もっと早くにそうすべきであったと自分の頬を叩きたくなったのは、論文に関する疑問を家令にぶつけ――屋内と屋外で担当者が異なり、これは屋外担当であるランド・スチュワードに対して行った――淀みなく答えられてから直ぐのことだった。


 エドワードは異なる文化や宗教に対する論文をいくつか執筆していた。評価されているかどうかは別としても、そのために各領地に学者を派遣している。本人が行くこともあるが、長きにわたる調査の場合は代理を立てていた。調べれば、その殆どがだった。彼らは現在も同じ研究に身を置いている場合もあれば、その経験を糧に研究所で囲われていったり、流浪の旅を楽しんだりしているらしい。

 それはグルーバーでも同じことで、だからこそエドワードはカタリナの育った背景をよく知っていたのだと分かった。彼は文献や歴史書などで知った情報だけではなく、今この時を生きる人間の情報にさえ精通していたのだ。

 学者達に対し支援したのは金銭面ばかりではないだろう。そこまでして力を入れることなのか。この辺りのこともあって道楽だ、昼行灯だと言われたのだろうことは想像に難くない。

 だがカタリナは彼の論文とそれに付随する動きに戦慄した。エドワードはこんなにも丁寧に王家の目を光らせていたのだ。その土地の風土や人の口に上る噂話の数々、昔から口伝で広められた逸話、数えればキリが無いほどの情報をエドワードは集め、編纂していた。論文はそれらを軽くまとめた概論のようなもので、本当に価値があるのは数多の情報そのものと、各地にばら撒かれた学者達の方だった。


 ならばカタリナと縁づいた理由も見えてくる。ある種隔絶されたグルーバー領は情報を漏らすことについて酷く敏感だ。彼が知りたいのは真実グルーバーの実態――シェメシュの目が、王家の権力が届くのかどうか――なのだろう。


「わたくしは……閣下に諫めていただいてからも何も変わっていないのね……」


 直感を大事にしていると言いながら、そもそも直感に頼れるほどの情報を殆ど持っていなかった。今のままではまるで足りていない。以前エドワードに言われた言葉に足踏みをしたのは一瞬だった。


 もっとエドワードを知らねばならない。でなければ自分の命を預けるには不安が残る。

 結論、カタリナがここまでエドワードの行動の向こうにどんな意図があるのかを探っているのはそういうことなのだ。

 不足しているのは情報ばかりではなかった。


 カタリナはランド・スチュワードに感謝を述べ下がらせると、もう一度論文と、論文のために集められた資料の山を改めることにした。没頭するあまり侍女に次の予定があるからと止められるまで、彼女の手が止まることはなかった。




「僕の書いた論文を読んでいたのだって?」

「ええ。学生の頃よりもずっと励んだ心地です」

「なんだか恥ずかしいな」


 エドワードが集めたグルーバーの資料は殆ど全て事実だった。中にはカタリナの知見の及ばない内容――主に男性の間で交わされるような様々なものや、一般的に女が知る必要はないとされているものだ――も含まれていたが、飽くまで資料の内の一部でしかなかったため動揺はなかった。


「わたくし、閣下のことをいまだ何も知らないと痛感致しました」

「そうかな」

「ええ。ですから、もっと閣下とこうしてお話しする時間を取れればと思います。具体的には午後のお茶の時間や、就寝前のこの一時のように」

「それはいいね。僕も賛成だ」

「本当に、他愛のないことでいいのです。今日の空模様だとか、夕餉で特に気に入った一品ですとか……」


 カタリナの申し出に、エドワードの声は喜びに綻んでいた。それが間違いなく本心からのものであると、彼女は感じる。

 もしかすると生涯を掛けても難しいことを目標にしてしまったかもしれない。そんなことを思いながら、カタリナは目を閉じた。優しく彼女の頭を撫でる手は温かく、確かに彼女の心を解すものであったのに、拭えない気持ちがあることに惑う。


「では始めに、どうか僕をエドと呼んで欲しい」


 ぱち、とカタリナの目が開いてしまったのは不可抗力と言える。

 今まで呼び方について一切の言及がなく、今更とも言えるタイミングだった。

 躊躇いがカタリナの唇を重くする。身体を重ねる際に口にする名を平時でも呼べというのは、彼女に僅かな羞恥を覚えさせた。

 エドワードの方へ顔を向けると、ペタペタと顔の輪郭を確かめるように彼の手がカタリナの顔を伝う。


「……ですが、んぅ」


 彼女が快く応じないことに、エドワードの指は彼の口よりも早く動き、彼女の鼻を軽くつまんだ。いつまでもそうされることはなく、直ぐに彼の指は離れていく。


「最初は違和感があるかも知れないが、慣れればどうと言うことはない。それとも、君は僕とゆくゆく離縁でもするつもりなのかい?」

「まさか!」

「では、これから長く添い遂げる伴侶に慈悲を」

「そのような言い方は……いささかずるいのではないでしょうか」


 睦言のような甘やかさで、エドワードはカタリナを抱き寄せた。それ以上身体をまさぐることもなければ、直ぐに放す様子もない。

 折れたカタリナは僅かな緊張と共にその名を口にした。


「エド」

「なんだい?」


 優しい声色の返事がカタリナの耳を抜けていく。それが夜の営みのような熱を孕んでいないことにゆっくりと力を抜くと、カタリナは言葉を続けた。

 エドワードの温かな手のひらがカタリナの腹部へ重なり、彼の体温がじんわりと彼女の身体へ染み渡る。


「……今日はランド・スチュワードのポールに大変助けられました。何かエドから渡していただけましたら」

「おや、ベッドの上で僕以外の男の名が出るとは」

「エドっ」

「ははは。分かった、手配する」


 密着している身体はほどよく温かく、カタリナは昔家族で身を寄せ合って寝ていた頃を思い出した。厳密には、その温もりに日々癒やされ、励まされていたことを。

 胸に満ちていく柔らかな熱を感じながらカタリナは眠りに落ちた。自分からエドワードと話す場を設けたいと言い出したのに、と思ったのは一瞬で、意識が落ちるのはあっという間だった。

 抗いがたい、眠気を誘う大きなうねりを感じたのは久しくなかったことだった。



******



「伯爵領へ?」

「ああ。気晴しにどうかな? グルーバー領へはいくつか他の貴族達の領地を通らねばならないし、冬の間はさしてすることがない。ならば秋の終わりとともに伯爵領へ改めて挨拶に行き、暫しゆっくりするのも悪くないと思う。ここは冬の間は雪が積もって外出が難しいから」


 すっかり日常となった就寝前の語らいで、カタリナがエドワードからその話を持ちかけられたのは、秋の収穫祭が終わった頃のことだった。使用人達のための慰労パーティも終わり、温かくなる春頃までは社交シーズンでもない。公爵領はエドワードが必ず常駐していなければならないような危うさはなく、執事や家令を筆頭に、上級使用人達でも充分に運用が可能だった。


「それは褒美でしょうか」

「ふふ、そう思ってくれて構わない。家庭教師(カヴァネス)からは了承を貰っている。まあ帰ってきたら鈍ってないかを兼ねてマナーに関する卒業試験をするそうだが」

「あら。伸ばした羽が仕舞えなくなっていたらどうしましょう」

「僕が一緒に怒られよう」

「まあ」


 サリバン公爵家とグルーバー伯爵家がそれぞれ治めている領地はそこそこの距離がある。

 険しい山々を背に抱く王都を中心に、サリバン侯爵家は南西のカルデラを。グルーバー伯爵家は北東に位置する広大な山々を。

 途中には陸路だけでなく水路を使うことも可能だが、それでも何事もなかったとしても二週間はかかる。天候に恵まれなければ20日以上かかることもあるため、頻繁に行き来はしにくい。


「それに、護衛だけでなく何人か君の近くに置いた使用人達をグルーバー領に連れて行くつもりだ。グルーバーのやり方を学ばせて、できる限り君の思考や意図を正確に掴めるようにしておきたい」

「そこまでなさらずともよろしいのではありませんか?」

「僕に対しては徹底できているが、君に対してはまだ不十分だと感じている。ここでは可能な限り僕に対して勝手にあれこれと考えたり、妙な忖度をしないよう教育しているんだけど、こういうのは放っておくと増長するものだから。……ああ、なんというか、思考の癖を矯正している、というか」

「確かに、まだわたくしがここへ来てそう経っておりませんが、彼らがエドに対して不利益なことをするとは考えられませんね」


 良く躾けられた人達だというのがカタリナの素直な感想だった。グルーバーも厳しい環境ゆえに意識レベルを合わせることは特に重要視されるが、エドワードのそれは高位貴族ならではの心配事だった。

 ここまで繊細に気に掛けられているのに、カタリナの心は動かなかった。ただ、肌を重ねることがない日でも、エドワードの腕の中にいることには心地よさを覚え始めていた。彼の体温は穏やかで、眠ることへの僅かばかりの躊躇いを霧散させる力を持っていた。

 後ろから腕を回され、エドワードの手のひらがカタリナの腹部に優しくあてがわれる。そうすると不思議と力が抜け、知らず気を張っていたことに気づかされることが増えていた。それは今日も同じ。


「できるなら執事や家令の後継も連れて行きたいが……先方に受け入れていただけるかな。あまり多いと伯爵を信用していないと角が立ちそうだ」

「私からも一筆したためましょうか?」

「そうしてもらえると嬉しいよ。ただでさえ君を攫うように結婚したから、正直なところ君の父君や兄君には警戒されていそうだ」

「まあ、ふふ」


 エドワードの懸念はそう外れてはいないだろう、とカタリナは思う。但しそれは、エドワードが口にした内容とは異なる観点からのものだが。


「エドは誠実な方だとアピールしなくてはなりませんね」


 言いながら、双方の橋渡しができるかどうか、カタリナには自信がなかった。エドワードの行動は見方を変えれば伯爵領に対する斥候や、諜報に他ならなかったからだった。


「嬉しいけど、こっちから積極的にやっていくのはわざとらしく見えそうだな」


 ほんの僅か、エドワードの声に笑みが乗る。カタリナの肩の力を抜くような言い方だったが、確かにそうだと思い直した。後ろ暗い所のない者が、後ろ暗いことなどないと平時にわざわざ声を上げるようなことはない。


「では、わたくしはできるだけ前に出ないでおきましょう。エドの足を引っ張るのは本意ではありませんから」

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