王弟殿下のかくしごと

宇野肇

1. 王弟殿下のおよめさま

 カタリナは家令の案内を受けながらも可能な限り急いでいた。結婚し同じ屋敷に住みながら、夫となったはずのエドワードと少しばかり話をするために家令に話を通し、許可を待たなくてはいけないとは、まこと難儀なものだと悪態もつけない。

 静かに彼女を先導していた家令が彼女を振り返り、一礼をする。止まったのは夫の執務室の前だ。


「閣下、奥様がいらっしゃいました」

「どうぞ」


 穏やかな声で入室を許可され、カタリナは軽く膝を曲げて家令に合図をすると、扉が開けられる。


「エドワード閣下にご挨拶申し上げます」

「いいよ。入ってソファに掛けて、楽にしてくれ。僕も少し休憩したかったんだ」


 エドワードの一言で、家令が「手配します」と一言残し部屋を辞する。これから紅茶と軽食が運ばれてくるのだ。


「まあ。閣下はわたくしが煩雑なやりとりをもってこちらに参ったというのに、片手間で済ますおつもりなのですか」

「まさか! そんなことはないよ。グルーバー家ではもっと効率的なやりとりができていたらしいのに、こちらの都合に合わせてもらって申し訳ない。君が形式張った言葉で話さなくても良いようにと思ってのことだったんだけれど」

「それは閣下こそが、その方が都合がよいからではありませんか」


 ぷす、とカタリナが口を僅かに膨らませると、エドワードは穏やかに笑った。


「面目次第もない。……ふふ、さあ立ちっぱなしも味気ない。折角来てくれたのだからソファへどうぞ、ケイト」


 改めてカタリナに座るよう促し、自分は今まで座っていた執務用の椅子から立ち上がった。


「それで? こんな昼間から僕の所へ来るからには、火急の用事か、何か大事なことかな?」

「……そうですね、そうかもしれません」


 カタリナは、自分の中で何かを噛み締めるように微かに首肯した。


「エドワード閣下。あなたは何故、周囲の『昼行灯』などという不名誉な言葉や不遜な態度を改めさせようとなさらないのですか」


 カタリナは真摯にエドワードを見つめた。

 そして彼女が感じていたことをゆっくりと語り出す。


「学生の砌(みぎり)、閣下に未熟を諫めていただいたことは忘れておりません。このような事を申し上げることは殿方にとって非常に賢(さか)しく見えることでしょう。あるいは、わたくしが自らの保身やプライドのために閣下へ口答えをしているように思われるかも知れません。ですが、閣下に言葉を尽くし、礼を尽くされ、身に余る光栄をいただいた者として、貴方へのこういった評価を是とすることは看過しかねます」

「ケイト、僕が君をそんな風に思うことはないよ。学生の頃のことは……僕も若く未熟で、公衆の面前で事を収める為とはいえ、君に恥を掻かせてしまう形でしかどうにかできなかった」


 エドワードの言葉にカタリナは首を横に振った。彼は『もっと上手いやり方はあった』と言うが、その上手いやり方ではカタリナは反省などしなかったはずだからだ。




 彼女は学生時代の最後の夜会に、婚約者と上手く折り合いがつかないと零していた友人のために声を上げたことがあった。心からの心配があったとはいえ華やかな場を乱した彼女を諫め、場を取りなしたのはエドワードだった。


「君の言い分は分かった。確かに厳しい自然環境に対して、皆が団結し、身分をおいてでも身を寄せ合わなくてはままならぬという状況で生きてきたカタリナ嬢にとって、同じ人、それも高貴なる身分の者がそれぞれの思惑で思わせぶりに振る舞っていることが無礼であるというのは当然だな」

「閣下、では……!」

「しかし、それでいくと家を背負い、家のために婚姻を結び、益をもたらさんとする令息や令嬢に対して、彼らの『環境』を慮らない君の振る舞いはやはり無礼と言う他あるまい。我らが『家』を口にする時。それは『人を含む領地の全て』のことを指していることが殆どだ。それはカタリナ嬢とて例外ではないだろう?」


 エドワードはそう言ってカタリナを見遣った。その表情は口を出したときと変わらず、好意も嫌悪も浮かんではいない。ただ淡々と、静かにカタリナの非を指摘するのみだ。


「君にとって確かに貴族の社交というものは持って回った、飾ることが好きな見栄の展覧会に思えるかも知れないが、このやり方は公的な場で相手に恥を欠かせない為の礼節の一種。皆その技を磨いてゆき社交の場における一人前になる。

 身分などあってないような上下関係のない環境に身を置き、率直で素早い対応を行うことこそが、魔力石採掘とその加工を担う君達グルーバー領の者が生き抜いていくために必要なことであるように、我らがこの国で生き抜いていくために、それぞれが命を繋ぎ積み重ねてきた歴史と功績を尊重するにはこれが必要なことなのだ。

 今、僕は君を育んだ環境を尊重するべく言葉を選ぼう。君は学び舎で多くの心ない言葉や態度を受け取ったかも知れないが、それは他の者が君から受けた仕打ちと同じ事だ。互いの無知と無理解が起こした文化摩擦について、その責や恥を片方だけが担うのはいかがなものだろうか?」


 エドワードの指摘に、カタリナは返す言葉もなかった。彼は絶句した彼女を一瞥した後、同じように会場にいる生徒を見渡す。人目のある場で友人の婚約者を糾弾するような物言いをしたカタリナははっとし、そこで漸く己の非を恥じた。


「無論、婚約者をみだりに蔑ろにしていいはずはない。だが、このような場で不躾に糾弾することもまた、些か褒められた仕草ではないな。何より、当人達の家の外の者がここまで声高になるのも違和感がある」


 エドワードは誰の横やりも許さぬ、とばかりに鷹揚で、しかし平坦な声で告げた。


「ジグ・ハーバー、エルメス・キャンバス両名には改めて話し合いの場を。無論、両家を巻き込むことは本意ではないだろう。公爵家が用意した護衛と僕自身が立ち会い人として二人に同席しよう。今日の所はこれでいかがかな? 皆、折角学生最後のパーティなのだから、今は目一杯楽しむべきだ」


 そう言って、エドワードは手を叩いた。それを合図に、会場は割かれた空気を優しく埋めるようにしながらも賑やかなものへ変わり、エドワードはそのままカタリナをさりげなく連れ出そうとしたが、一人、彼女へ近づいてくる者に気づくと足を止めた。それはたった今彼が取りなした相手だった。

 折角の婚約者のエスコートさえももどかしげにカタリナへ近づいてくるのは、エルメスとジグ。それに気づいたカタリナはジグへ向かって頭を下げ、膝を折った。


「ハーバー伯爵令息様、ご無礼な真似をしてしまいもうしわけ、」

「お待ちになって、カタリナ様。元はと言えば私が至らないばかりに、貴女を盾にさせてしまったのです。私は貴女の小気味よく明朗な所を好ましく感じておりましたのに、自分の心の弱さを別に移すようなことを……。ですので、謝罪しなくてはいけないのは私の方です。ジグ様、どうかお許しくださいまし」


 カタリナの腕を優しく両手で支え、エルメスが立ち上がらせる。そして己の婚約者であるジグ・ハーバー伯爵令息へ向き直り、今度は彼女が謝罪の為に膝を折った。


「止めてくれエルメス! グルーバー伯爵令嬢のことは君からよく聞いて知っている。それにここまで公爵閣下に言葉を尽くしていただいたのだから、わたしから改めて彼女の振る舞いを咎めるつもりはない。それは君に対しても同じ事だ。とはいえ、閣下の計らいはありがたく感じている。わたし達はどうやらもっとお互いを知る必要がありそうだ」

「……しゃしゃり出た甲斐があったかな?」

「それはもう。閣下、遅ればせながら謝罪と感謝をさせてください。折角のパーティで、我らはもしかすると大変な傷を残してしまうところでした」


 ジグに続き、カタリナとエルメスが頭を下げる。エドワードは肩をすくめた。


「それこそ止めてくれ。……まだ僕たちは学生の身。いくら僕が既に爵位を賜っているといっても、君たちはいくら意見をしてもいいんだ。僕だって得難い学友に今から距離を置かれるととても寂しい」


 そう言って、エドワードは給仕からシャンパングラスを手に取った。倣うように他の者達が続き、自然とグラスを掲げる。


「ともあれ、この後はにこやかに過ごしてくれたまえよ。君たちの仲に亀裂などないことと、僕が怒ってなどいないことを示さねばならないからね」


 エドワードは柔和な笑みと共にグラスに口をつけた。その後もカタリナは何かと笑みを浮かべたエドワードが彼女に話しかけたために、居場所を失ってしまうこともなかった。パーティが終わるまでも、そして終わってからもである。



 学生最後のパーティから卒業までのことは、カタリナにとっては今でも現実のこととは思えないほどの速度で話が進んだ。エルメスはジグのことで誤解があったが無事に話がまとまり、円満に結婚という運びになったことを感謝されたし、場を取りもったエドワードからはカタリナの毅然とした姿が好ましかったと猛烈な勢いで口説かれ、異例の速さでカタリナ自身の婚姻まで整った。


 弟妹の婚約を整えるために奔走していたカタリナは己の婚期を逃しており、殆ど諦めていた中での求婚に、グルーバー伯爵は一も二もなく頷いた。もっとも、公爵家からの打診に否と言えるはずもない。唯一、今まで婚約者の一人もおらず、陛下の予備として可もなく不可もなく、本の蒐集家として変わり者扱いをされていたエドワードになにか結婚生活における問題があるのではないか、ということだけは無礼を承知で確認を取ったが、エドワードが必要であれば結婚生活におけるカタリナの扱いについて誓約書を用意してもいいと言い放ち、実際それにサインまでしたことで最終的に合意となった。持参金も何も要らず、代わりに公爵家の持つ豊かな土地から食料品などを融通するという、グルーバー伯爵からすれば虫の良すぎる話――グルーバー伯爵領は大規模な魔法石の鉱山を有する代わりに、痩せた土地しかなく、食糧面で苦労が絶えなかった――も、エドワードが熱心にカタリナへアプローチをするので、その疑念は伯爵の喉元に押しとどめられる事になった。


 そして卒業と同時にカタリナは公爵家へと嫁入りをした。事前に公爵夫人として教育を受ける暇のない、異例の輿入れだった。




「いいえ。わたくしにとってはこの上なく正しい方法でした。そしてあの頃より、わたくしは噂に聞こえてくる閣下の人となりについて疑問を持っておりました。閣下の知識や教養はわたくしでさえはっきりと感じるほどで、実際の所閣下のレポートや過去に書かれた論文は奇天烈と評されこそすれ、くだらないと言われるようなものではありませんでした」

「どれのことだろうね。奇天烈は充分に下の下、論ずるに値しないって評価だけれど」

「この屋敷に来て確信へ変わりました。使用人達の質は当然としても、彼らは閣下に誠心誠意使えており、閣下に仕えることを誇りに思っております。彼らから感じるのは貴方への献身的な奉仕の気持ちと、尊敬や敬愛です。閣下は決して侮られてなどおりません。この邸の内と外で、閣下の評価は不自然なほどに変わっています」

「……」


 茶化したにもかかわらず一切引かなかったカタリナの言葉に、エドワードの顔から笑みが薄れていく。それでも眼差しに柔らかさは残り、彼は黙って続きを促した。

 知らず緊張していたのか、カタリナは意識して深く呼吸をした。唾を飲み込み、思わず舌先で唇を湿らせる。


「閣下がわたくしを軽んじることなく、大切に扱ってくださること。愛称で親しげに名を呼んでいただき、閣下御自らわたくしの様子をつぶさに見てくださり、気に掛けていただいていること。公爵夫人としての作法もままならぬわたくしに教育の機会を調えてくださったこと。全て感謝の念に堪えません」


 公爵夫人となるための教育についてはどれほどの苦労と努力をしなければならないとしても、必要なものだとカタリナは考えている。だが、それ以外でなんの不便もないよう計らっているエドワードのことを考えない日はなかった。


「君への求婚と嫁入りについては、僕が君を手折ったと疑われてもおかしくない速さだったのは確かだ。どちらにしても僕に落ち度がある以上、君に不名誉なことはできない。夫人としての教育だって、そもそも婚約期間も設けず急いだのだから、そちらも同じだ。僕が行って当然のことだし、なんなら、君にはそのことについて迷惑を掛けていると思っている」


 ノックがした。家令が用意した軽食と紅茶が運ばれ、ソファの前のテーブルへ並べられていく。カタリナはそこで言葉を切った。

 しばし準備が整うのを二人無言で待つ。侍女はエドワードとカタリナそれぞれの顔色を窺い、


「お部屋の外で待機しております。何かありましたらご用命くださいませ」

「ああ」


 通常ならば食事の最中の給仕をするべく側へ控えるところ、一礼の後退室していった。

 カタリナがエドワードを窺うように見ると、エドワードは口元にほんの少し笑みを浮かべてカタリナの視線を受け止めた。彼女の腰から手を放し、先ほどまでの距離へ戻る。


「続きをどうぞ。少し喉を潤しても良い」

「閣下のお食事は、」

「休憩なのだから君の話を聞いた後でも遅くはない」


 エドワードの言葉に、カタリナは少しばかり顔を赤らめた。


「……やはり閣下は、わたくしをとても大事にしてくださいます。

 我が家に閣下から結婚の申し込みが舞い込み、式と入籍が一ヶ月などという速さで行われましたね。口さがない者は良いように噂をしたことでしょう。わたくしもいくつか品のない話を耳にしました。

 ですが閣下は『自分が心底惚れ込んでしまい、無理を通して押し進めた』と、対外的にはおっしゃいました。その徹底ぶりは入籍までの一ヶ月での、怒濤の贈り物の数々からみてもそうですし、この屋敷の中でも同じです。

 恐らく国王夫妻にもそのようにお話しなさっているのかも知れませんが……実際は違いますね」

「どうしてそう思う?」


 エドワードはティーカップを持ち上げ、香りを楽しんだ後口をつけた。「君もどうぞ」と言わんばかりにカップを掲げてみせる。

 カタリナは促されて、静かに紅茶で喉を湿らせた。


「……閣下はずっと、結婚を先延ばしにされておりました。わたくしへお話があったのは王妃殿下の三回目のご懐妊の報せの直前でした。通常でしたら時期を見て行われますから、慶事とは言え発表のタイミングは意図的なもので、ある程度融通が利くもの。安定期に入られた王妃殿下を見て事を進められたのでございましょう。

 ならばわたくしとの結婚は閣下の身を守るため、あるいは陛下の治世を盤石なものへするための布石だと考えるのは自然なことです」


 静かにカップを置き、カタリナは断言した。


「閣下はわたくしに情熱的な言葉と態度をくださいましたが、それは真ではありませんね。ゆえに、閣下は世間の評判ほど不出来ではないと見ました。それどころか……」

「もういいよ。口を挟んでしまって申し訳ないが、君の言いたいことは掴んだ」


 カタリナの言葉に熱が籠もり始めたと同時、エドワードはカタリナの口へ人差し指を優しく押し当てた。


「君に高く評価してもらえて恐縮だ。だが、僕はこれで……これが、今がいいんだ。誰かに評価されたり、高みを目指すことは僕には難しい」

「能力があるのに?」

「そうだ。こんな話を知っているかい?

 神を目指し高みへ上ろうとした人間は皆、あるときは太陽に焼かれ海に落ち、あるときはお互いが通じ合うための言葉を奪われ、意思疎通ができなくなり散り散りになった」


 カタリナは眉をひそめた。初めて聞く話だが、神と言うからには宗教的、あるいは文化や慣習に根ざした話の話のはずだ。


「申し訳ないことですが、寡聞にして存じ上げません。閣下は様々な国の文化や芸術に明るいのですね」

「いや、そういうわけではないけれど……。まあ、言いたいのは、己を過信すれば相応の罰を受けるということだ。それは時として命で償われる」

「閣下がそのような……、あ」


 はたと何かに気づいたカタリナは口をつぐんだ。

 王弟の立場のエドワードがそう口にするということは、時として王位を狙っていると、仮に本人がそう思わなくとも周囲にそう思われることがあるということだ。それは相手が、兄たる国王であっても同じこと。

 なにより、エドワードは己に能力があることを遠回しに認めている。


 謀反や二心がないと示すために、無能を演じているというの?

 否、それどころかもしかすると、まさか、閣下自身が率先してそのような評価を流布するよう指示している――?


 カタリナは息を呑んだ。彼女が最も理解できない振る舞いの一つであり、物語上ではそれこそ腹黒い者の行う手法の一つであったからだ。

 そして、彼の言わんとすることが真に国王夫妻やこの国を想ってのことだったとするならば、エドワードの人生とはなんとつまらないのだろうと、カタリナは愕然とした。


「兄さんにも跡継ぎが生まれて、今度の出産が母子ともに元気で、上手くいくことを願っている。そして、そうなれば王位継承で揉めることも恐らくないだろう。流行病には気をつけなくてはならないが、僕が傀儡として目をつけられるほど愚かでもなく、熱心な信奉者を作るほど革新的で熱意もなく、かつまた有能でなければ……兄さんの堅実で穏やかな治世は続いてくれるはずだと信じている。

 僕はそのためなら、大抵のことはする。勿論、君のことは『その犠牲者』などと美化するつもりはないし、止めて欲しい。君のことは一人の人間として尊敬しているし、とても眩しく思っていて、君を望んだのは決して自分の心を偽ってのものじゃないから」


 エドワードはそういうと、カタリナへ微笑んだ。

 肌身でエドワードからの気持ちを感じていたとは言え、改めて率直に言葉にされると照れもする。加えて、初夜以降続く夜の営みのことさえ思い起こされて、カタリナは頬を赤くして思わず目を逸らした。


「こ、光栄に存じます……」

「僕も、君のような明朗で溌剌とした女性の唯一になれる機会をもらえて光栄だよ」


 さらっと歯の浮くような言葉を連発され、カタリナは羞恥を振り払うようにぎゅっと両手に拳を作った。


「ちっ、違うのです、今はわたくしの話ではありませんっ」

「はは、流されてくれなかったか」

「エドワード様!」


 からかわないでくださいまし、と続けてソファを軽く叩くカタリナに、エドワードは口先だけで謝った。


「すまない。……だが、僕の気持ちは変わらない。例え君がどれほど焦れったく思っても、これだけは譲れない」

「……恐れ多いことですが、わたくしが閣下のお立場を……おいたわしいと、そう思ってしまうのをお許しくださいますか?」

「無論だ。可憐な華に憐憫を垂れてもらえるなんて、僕は本当に恵まれている」

「そのような言い回しでご自分を下げないでくださいまし」

「本当さ。君は本当に素敵な女性だからね」


 エドワードの表情は一切曇らなかった。それどころか、カタリナのことを口にする際には少し甘ささえ感じる声色で、喜色こそあれど、そこに悲しみや無聊は感じられなかった。

 カタリナはそこで、今の自分にはここまでかと言葉を詰まらせた。これから言う言葉がどれほどエドワードを傷つけるか、はたまた怒りを通り越し憎しみさえ引き起こすのか、見当がつかなくなったからだ。


「……閣下はそれで満足だと仰るのですね。なんてつまらないこと」


 だが、カタリナは口にした。言うべきだと思った心のままに。それが己であると言わんばかりに。

 その上でエドワードからもたらされるあらゆる反応を見逃すまいとして、固唾を呑んで凝視した。


「そうでもない。君を迎えて、人に恵まれて、子も望める。飢えもない。充分大きな幸せだと思うし、これで満たされてないなど、傲慢の極致だ」


 だが、カタリナの予想に反して、エドワードの態度は変わることはなかった。自分で踏み込んでおきながら叱責を恐れる心を見透かされているように思われるほど、エドワードは落ち着いて見えた。


「ケイト。君も考えてみてくれ。もし君が世界を変えるような、素晴らしい発明をしたときに……それがいつか多くの罪なき人々を一瞬で殺しつくし、広大な範囲の土地を呪い、生き残った全ての人々の心に深い傷をつけることになる可能性を秘めていることに気づいてもなお、世に発表すべきかどうかを。そんな発明を葬ることを、つまらないと断じるのかをね」


 カタリナは返事ができなかった。

 ただ、柔らかく、穏やかに窘められていることだけを理解した。


「さて。この話は、僕としては終わりだ。君がまだ言いたいことがあるのならば聞こう。ただし……」


 エドワードがそこで言葉を句切る。カタリナはじっとエドワードを見つめ続けた。


「――そろそろ軽食をつまんでも?」


 続くエドワードの言葉に、カタリナはすっかり対話への意欲を失った。

 エドワードを傷つけるかも知れないと覚悟をして選んだ言葉は円く包まれて、なんの波風も立てられなかったことに失望したからだ。


「勿論でございます、閣下」

「ありがとう」


 エドワードは軽く微笑んで、白パンをちぎった。チーズをのせ、ジャムをのせ、あるいはハムをのせてあっという間に食べていく。

 カタリナは口を開く気力もなく、故に退室を願い出ることもできないままそれを眺めていたが、ふとエドワードに小さくちぎった白パンを口元へ寄せられてまごついた。


「ん、っ」

「君も少し食べるといい。今おいてあるのは全て僕……と、優秀な家令が管理している領地のものなんだ。父から与えられた領地は育てる作物こそ選ぶが豊かで、その上畜産業が盛んで、肉や発酵食品、優秀な革職人もいる。今は覚えることも多く苦労が絶えないことと思うけれど、次の僕の休みが取れたら、気晴しに馬を駆ろう。座学は避けられないことだが、身体を動かすこともよいことには違いない」


 エドワードからの言葉に、カタリナはそっと口を開く。目が合い、優しく、しかしきっちりと口内にパンを押し込められて、指先と唇が触れた。再び夜を想起させる感覚に、控えめにパンを咀嚼していると、狼狽えるカタリナを尻目にエドワードは指を舐めた。


「んんっ」

「……? あ、ごめん。行儀が悪かったね」


 エドワードはカタリナの目線に咎められていると感じたのか、誤魔化すように笑ってナプキンで改めて手を拭いた。


 エドワードが『行儀が悪い』ことはカタリナへの気遣いに他ならない。

 なぜなら王家という場所にあって、長らく洗練された所作を厳しく求められてきたはずのエドワードが、極めて平民と距離が近く、時として伯爵本人さえ平民のように振る舞うこともあるグルーバー領での仕草のごとく『下品な』ことをすることなど考えられないからだ。目にすることさえないだろう仕草。仮に幼い頃にやったとして、厳しく直されたことだろう。

 それを何らかの手段で知り、恐らくわざとやっている。カタリナの前でだけのことだ。

 いくら権力でどうにでもできる伯爵家の娘と言えど、高貴な存在の品位を貶めようと狙っている者はどこにでもいる。エドワードがカタリナを懐に入れようとしているというフリにしても、妻となった者の育った環境や妻本人への真摯な歩み寄りにしても、過分なことだとカタリナは感じていた。

 また、飢えるはずのない環境にいたエドワードが、『飢えていないことは幸福である』とあっさり口にするほどに思慮深く慈悲に満ちていることは明白だ。

 だからこそ外では悪し様に噂されるこの王弟殿下の評価をもどかしく思っていたというのに、本人はそれをとうの昔によしとしたような口ぶりを崩さずにいる。


「ケイトはこの中だとどれがいいかな。甘いものが苦手でないなら、林檎ジャムはどう? 僕はこれが大好きでね。たっぷりつけるのがおすすめだ」

「閣下、そのようにたくさんのせてしまっては、手が汚れるばかりではありませんか」

「わざとそうして、指に付いたジャムを舐めるんだよ」

「まあ!」


 おどけてみせるエドワードに、カタリナは応えた。くすくすと笑い、その反応に満足そうにするエドワードを見る。


「――閣下。わたくしはよくよく考えてみることに致します。ですから、わたくしが閣下からいただいたお題に取り組むためにも、閣下の御心をお話しくださいまし」

「はは、やっぱり流されてくれなかったか」


 苦笑へと変わる表情はそれでも柔らかい。カタリナはそれを見て、まだ無理なのだろうと悟らざるを得なかった。確かにエドワードから好意は感じている。だが、それは抱擁で感じる体温のような温かなもので、家族から受けるものと酷似していた。

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