Unfold

景岡佳

Unfold

 


夕立のじっとりとした甘い香りが残る。喜ばしくも姿を現すことができた儚き夕陽の景色は、青、紫、赤と滑らかに色を変化させるマントを背負い、その身を燃え上がらせながら神秘の暗闇にその身を預けんとしていた。

雨上がりの庭。刹那の夕焼けの時の為に姿を現した椋鳥の、騒がしくも呑気な声が聞こえてくる。曇り空が開ければ、間もなく暗闇がやってくるというのに_______夜というものへの不吉な予感を待つ事もなく崩れ落ちるであろう悲しみと華やぎが交差する奇跡の夕刻は、空が暗闇に支配された頃、一夜限りの生命を咲かせようとしている花の乙女たちの纏う妖艶な香りによって、一層異世界じみた夢心地の色を見せていた。病棟の中庭を覆う不気味な梅紫色の空間に耳をそばたてれば、夕刻の乙女達の内緒話が聴こえてくる。

 


 

「鼠色の雲がいなくなったわ。今夜は満月が見えるわよ。」


三つ並ぶようにして首を下げている月下美人の蕾たちは、淑やかにその繊細な花びらを閉じ込めながら、地平線の向こうへと消えていく夕陽の方へとその顔を向けて、甘い囁き声を静かに響かせていた。三輪の乙女のなかで、一番大きな蕾をもつ花の少女が、妹達に呼びかけるように囁いた。

 

「お祈りしたほうがいいんじゃないかしら。

満月って素敵だけど、なんだか不吉だわ。

そうでしょう?」


次に大きい蕾をもつ次女は、お決まりの弄れた物言いで、隣の同居人たちをからかう。

 

「月光の下で血を浴びるとね、

真っ黒に見えるの。」


いちばん小さな蕾に向かって低い声を出してみせると、末っ子の花は心外そうな声を漏らした。


「…… からかわないで頂戴、お姉様。」


小さな蕾の乙女は、意地悪な姉上の譫に怪訝そうな態度をとりながらも、その柔らかで透明な声は、現実の世界にはやや靄がかかったように響くのだった。まるで、ひとりだけ別の世界にいるかのように。

姉上たちは、その小さな妹が夢見心地の夕刻の香りに、或いは間もなく姿を現す暗い暗い空の支配者への恍惚に、どこか酔いしれているのだろうと感じたが、お喋りな花の妖精とはいえ、それを言葉として口にすることはなかった。それは、間もなく果てしない静寂と闇に包まれる夜の世界で、白鳥の翼の如く可憐な花を咲かせる月下美人の蕾としては、まさに当然ともいえる陶酔だったのである。


「病棟だわ。お祈りなんてせずとも、安息の神様の瞳に映っているはずよ。」


夢つつつな妹を他所に、姉の蕾は如何にも正気らしい呆れたような声を返す。二番目に大きな蕾の少女の、クスクスという可愛らしくも悪戯っぽい笑い声が響く。既に空は、深いサファイアのような見事な青色に冷たく包まれている。

いつの間にか鳥の鳴き声も消え、病棟の庭は完璧な静寂の世界に近づきつつあった。人間の姿はもはや二度と見えないだろうと思われ、このままだんだんと生き物の気配が消え始めるという真実を察し初めた少女達は、緩んだ糸がピンと張るような緊張を感じるようになる。しかし、そんな少女達の前に、恐らく彼女達の目にする最後の人間となるであろう存在が現れた。


車椅子に乗ったその患者は、看護婦にゆっくりとその身を預ける機械を操られながら、夜の闇に溶けて行く病棟の庭を眺めていた。その表情は、どこか此処ではない遠くを見ているかのようで、凡そ確かな目的があって庭に出てきたわけではないという事が読み取れる。三姉妹は、暫くその男の姿をじっと観察していたが、二人の姉達は間もなく行き場の無い鼻息のようなものを漏らすようになり、最後の妹の蕾だけが、その物寂しそうな患者の存在に釘付けになっていた。暫くして男の乗る車椅子は、生暖かい風と共に月下美人の姉妹の元へとやって来る。

車椅子の男は蕾の三姉妹の前で止まると、後ろの看護婦と二言三言呟くような会話をしてから、背後の深い青の景色へと振り返った。煙突の煙が雲の覆う空の向こうへと消えていくかのように、静かにその「動」は沈黙の世界に生きる花達の前から消え去った。その男の影は、夕刻の庭の景色に僅かな哀愁の色を滲ませていったようだった。


 

「ねえ、さっきの御方。お姉様たちご覧になられた ?」


庭が再び静寂に包まれた時、末っ子の蕾が声をあげる。

先程までの心ここに在らずという様子から一転、今し方自分の目に映った現実に対して酷く興奮しているようだった。姉達はやや怪訝に思いながらも、何でもない事のように言葉を返す。


「さっき此処をお散歩していた紳士のこと?

私達の最後の鑑賞人としては、少し残念だったわねえ。」


しかし、二番目の姉のお決まりの毒舌も、やはり妹の意識にはっきりと届くことはなかった。妹は自ら姉達に呼びかけ自身の高揚を主張しながらも、その実、尚も孤独な陶酔に浸り続けていたのだ。彼女が酔いしれる対象が、薄命の花としての運命ではない、また別の何かに変わっただけなのだ。

そして、そんな少女の脳裏を見事に表現ような言葉を、ベルティーユは甘いため息と共に呟く。

 

「とても美しい人だったわ。

唐突だけれど、私の最期に相応しい…… 」


二番目の姉は瞼を瞳の半分まで落とした表情で長女の方へ顔を振り向かせる。対して一番目の姉は、その最後の妹に巻き起こった、秘められた革命の喧騒を見出し、僅かに眉を上げた。


「あら…… 」


深いサファイアの絨毯が、夜の始まりを示す暗闇の咆哮に怯え始める。


 

「あの子ったら、本当に恋をしたのね。

まるで死神だわ。」




少年はこの部屋の匂いが嫌いだった。機械のように無機質で、どこか苦しくなるような、重々しい病棟の匂い。まるで自分が、ひとつの尊い人生を歩む温かい生命のひとつとして認められていないかのような感覚。懐かしい香りをぎゅっと吸い込んだペラペラの古紙に顔を埋めるようにして没頭する。机の上には行き場もなく散らばっている消し滓。少年の細い指で握られた鉛筆は、不器用に震えた不格好な文字を生み出す。それは、少年がその哀れな人生の最後に生み出そうとしている、儚き魂の掠れた歌声を映し出した手紙だった。少年にとって、決して容易い覚悟の上で書き上げられるものではない。刻々と近づく死の光に抗うように、目を凝らしながら何度も何度も、文字を書いては消し、書いては消しを繰り返す。

ふと、少年の耳にやけに規則正しく廊下を歩く靴の音が響いてくる。少年はその音に気付くなり、鉛筆を持っていた手をふらりと脱力させて、幽霊のように音もなくベッドの方へと身を向かわせた。

見舞いに来たのは、彼の幼馴染である同い歳の少年だった。その少年は病室に着くなり、先程までその部屋の病人が向かっていた机の方を一瞥する。


「ロドルフ」


声変わりして間もないあどけなく瑞々しい声を響かせた後、顔馴染みが弱々しく横たわるベッドの方へと視線を向ける。


「暫く見ないうちにまた…… 男前になったんじゃないか ?」


機嫌の良さげな鼻息を漏らして微笑みかける。ベッドに横たわる少年は、その親切心に応えるように目尻の横に皺をつくった。

イジドールは綺麗な栗色の髪をはらう仕草をしながら、そのオリーブ色の瞳に映る幼馴染を、瞼を伏せた優しい眼光で見つめる。爽やかな夏の朝を思わせるその少年は、残酷なまでの‘若さ’の美を身にまとっていた。


「あまり無理するなよ。」

 

「してないさ。」


少年は弧を描く唇の影から白い歯の列を僅かに覗かせる。


「……ああ、そうじゃなくて 」


視線を真っ直ぐにしたまま、古紙の散らばった机のある方向へ首を傾ける仕草で病人の視線を誘う。不格好な文字たちが踊る無数の用紙が取り残されたまま書き手を見失っている景色は、イジドールにとって耐え難い悲愴を背負っていた。


「わざわざ病人らしく振舞わなくていい。それは生と死の間を彷徨うような人間がすればいいだけのことだろ。」


究極の死をその運命とされた人間は、もはや病人ですらない。生きる屍はその身を案じて休まることさえ無意味であると。ただ、その少年達は、その年頃故かそれとも生まれながらの性質か、死という事実を前にして堂々と安息という概念を犠牲に出来るほどに、洗練された理想主義と夢想的思考を得意としていた。経験の稀薄さから来る幼く残酷な思考と大人達は言うけれど、「死」という絶対的な終焉を前にしてそれが一体どんな問題を生み出すというのだろう。

ベッドに横たわる少年は、親友の心遣いに弱々しく震えるようにして口角を上げてみせる。それでも視線の先にいる親友は、その表情を共有しようとはしなかった。

イジドールは、少年に終わりが近づいている事を知っている。その上で、少年にとってそれが時に追われることを意味しているという事も。


「ありがとう、イジドール。」

 

ベッドに横たわる少年はそう言って、思い出したかのように柔らかくひんやりとした毛布の心地良さに微睡みを覚えて、ゆっくりと目を瞑る。その姿を見守る親友は、その言葉が彼の最後の言葉となる事を多少なりとも覚悟しなければならない立場にある。それでもイジドールは鼓動を正常に保ったまま

ただその微睡みの世界が安らかなものである事を祈るだけだった。


 


「おやすみロドルフ、良い夢を。」


病室の重々しく冷たい香りに消え入るような優しく柔らかな囁きを受け止めて、少年は生温い水面にその身を預けるように、無意識の闇へと魂を沈ませていく。

太陽は既に地平線の向こうへと沈み、暗い灰色の雲からは輝かしい満月がその姿をのぞかせて、静寂の手のひらに乗った病棟をじっと見つめていた。

 


ロドルフは、17歳にして重度の早老症を患っていた。

嘗ては誰もが羨むような美貌の持ち主であったが、その華やかな人生も僅か十数年で幕を閉じる事となる。あっという間に身長は縮こまり、四肢は木の枝のように細くなり、胴体は蜂の巣のような形に、艶やかな黒髪も人形のように整えられた面貌も、原型を残していない。 彼の親友であるイジドールは、元々はロドルフという美少年の信奉者として彼に近付いた。信奉者は、その人生を狂わされるほどに心酔していた筈の美貌が、持ち主の元から跡形もなく奪われた後でも、少年から離れようとはしなかった。果たしてそれは、彼のロドルフへの感情が、憧れや崇拝からそれを超えるものへと昇華された事を意味するのだろうか。少年はイジドールにとっての偶像から、ひとりの人間へと変わる事ができたのか ? …… 残念ながら、そうは言い難い。

ロドルフという少年を見つめるあどけない影は、幼馴染であり親友という上等な仮面を身につけていながら、その奥には今も尚煮え滾るどろどろとした蜂蜜のような肌触りと香りを放つ信仰が眠っているのだった。


「知っているか、ロドルフ。」


ある晴れた夏の日のこと。真昼の森をふたりで探索する青春のひとときのなかで、ふとイジドールは親友に語りかける。


「太陽は直接目にすると眩しくて、見れないだろう。すぐに僕達はその光に圧倒されてしまう。」


叢雲のように二人の少年を覆う森林の木の葉の隙間から、その幼い影を捉えるかの如く、瞳のような丸い太陽が光を差し込ませている。イジドールは天空を見上げそこに手のひらを向けながら、その光の塊と目を合わせないよう、目元に影を作る。


「けれど月は、僕達のような人間でも触れられる。

その姿を見て、美しさを愛でることが出来る。それでも月は、太陽のように光を放っているわけじゃない。」


ロドルフはその時の親友の言動に何ら驚きはしなかった。

イジドールは詩人なのだ。世に存在するあらゆる概念や現象は、彼がそこに見出されるロマンに酔いしれる為にある。

美しい少年は木の根元に座り込み、こちらを見下ろして微笑む親友に目を細めて微笑み返す _____あの時は、彼が何を意味してどんな事を言っているのかも、深く注意してはいなかった。お決まりの戯言を聞き流していた。なのに何故だろう。今になってあの時の記憶が、鮮明に、柔らかく温い水のように脳裏に流れ込んでくる。

ロドルフは、孤独な病室の中で、その優しい信奉者の言葉を何度も何度も思い返すことになる。


「太陽の光を反射して輝いているんだ。夜の暗闇の世界で。」



ロドルフという青年が何故死に至るのかという事に関して、今更長々と説明する必要はないだろう。しかし、何故現在に至るまで彼が「生きていたのか」を理解する為には、これから語られる物語を読んでおく必要がある。

それはキアラという少女との出会いだった。 その物語は、哀れなロドルフ少年の絶望から始まる。

彼の人生にとって、自らの容姿というものが、命同然に重要な価値を持つものであると、彼は昔から自覚していたというワケではない。寧ろ人生の絶頂を渡り歩いていた当時の彼にとっては、己の人生の薔薇色が全て容姿の美しさによる報酬であると考えるのは、酷く短絡的だと感じられた。しかし、大切なものというのは、それを失った時に初めて価値を実感するもの。迫り来る喪失感と共に崩れ落ちる己の美意識に、ロドルフは戦慄した。結局のところ、少年の人生におけるあらゆる成功や失敗や、それらを伴う挑戦であったりというものは、彼のその姿を背景として設定されていた出来事であったが故に、価値を持っていたのだ。美青年であったロドルフにとっては、数学のテストで高得点を取ることも、可愛い女の子を口説くことも同じことだ。美の体現者たる少年が人目を引く行動に出ることそのものが、その繊細な感受性がもつ美意識を高揚させ、彼の人生に愉悦をもたらしていた。

醜く枯れ果てた老人に、御伽の国の少女の手を取る王子様の役目は務まらない。廃墟と化したちいさな劇場で、ひとり嘗ての喜劇の舞台を夢見ながら絶望に見つめられる少年が、その人生の転機として手に入れた出逢いと呼べるもの。それは、‘人生という舞台における引き立て役’にどうやっても当てはまらない少女の存在であった。 キアラは、別人と化す前のロドルフにとって悩みの種だった。彼女は同世代の女の子達と比べても、可憐な少女と呼ぶに相応しい恵まれた姿をもって生まれた。そんなキアラは、周囲の少女達がこぞって心酔するロドルフという美少年に対して、唯一そっぽを向いて鼻を天に突き上げるような少女だったのだ。それは決して、敢えて真逆の反応をすることによって相手からの注目を独占するというような、幼稚な意図があっての事では無い。キアラは本心から、ロドルフという少年との関わり合いなど微塵も興味が無いと切り捨てていた。


「貴方、まるで人形みたいなのよ。

自分が何の為に生きてるのか、考えたことある?」


思えば、そのあまりにも単純で純粋な言葉が、全てのキッカケとなったのだろう。ロドルフはそのように言い放つ目の前の少女に、気付けば心を奪われていた。その言葉は決して、彼の人間としての後ろめたさを真っ直ぐに突き止め、剣が心臓を突き刺して血を見せたようなものでは無い。しかし、少年にとっては、その少女が自らの内面をレントゲンのように透視しようとした事そのものが、己とって重要な価値を持っていたのだ。その余りにも虚しい人生において、それは初めての体験だった。

悲しいかな当時のロドルフは、その表面の肉壁を透明にして中身を探り当てようとしても、そこは呆れるほどに空っぽで薄汚れた古い花瓶のようでしか無かっただろうが。


何の為に生きるのか。

老いた男は鉛筆を持つ右手を震えさせながら、何度も思い出す事になる。透明な硝子玉の放つような光は消え失せ、冬の枯れ木が放り投げた小さな木の実のように変わり果てた己の双眼を真っ直ぐとらえて、自らの其れに熱い水滴を滲ませている彼女の顔を。何故今になって死のうとするのか、死んで何になるというのか。枯れ果てた花に水を与えるかのように、彼女の涙は老人の乾涸びた肌に淋しく滲む。

______今の僕になら、それがあるんだ

死神との面晤を先延ばしにしたところで、何か特別なものが齎される事は無い。それが分かりきっていながらも、呪われた少年はその瞬間に、己を叱咤する強き少女の姿を生きる希望として刻みつけたのだ。空っぽだった花瓶の中に、キアラという少女へのこの上ない感謝の情を形にするという、歪で不器用な花が添えられた。

_______彼女、これを見たら今度こそ、僕を好きになるかな

廃墟と化した暗闇の劇場で、何度も何度も書き直されては投げ捨てられた手紙達に囲まれながら、美しい獸は静かに瞳を伏せていた。


 


夜が幕を開ける。

それは常に己の身には無関係のものとして捉えていたかった。死神は夜に訪れるもの、というようなイメージは、脳味噌にあるどのような記憶を元に生まれたのだろう。

とはいえ、それは不思議なもので。死神というものは本当に、空が漆黒に染まる宵の刻を待ち侘びてやって来るのだった。



「はじめまして。」


仄暗い深海のような藍色の世界が視界を包む。

いつの間に目覚めたのだろう。否、これは果たして目覚めていると呼ぶに相応しい状態なのだろうか_____心臓が宙に浮かんでいるかのような感覚への不快に惑わされながら、その不思議な声の正体を探ろうと視線を泳がせる。なぜだか分からないが、ひどく空気が冷たい。喉仏を歪に震わせながら吹き出される吐息は、色を纏う霧となって深い青の闇に溶けていく。身体はまるで凍っているかのように重く、肌は氷に包まれるかのように冷たい。

此処は、病棟だ。そして僕は、いつものように病室のベッドに横たわっている。しかし何故だろう、変わらないはずの目の前の景色は、果てしなく深く暗い青色に染められているのだ。

その神秘は、言うなれば、月の女神の描く深淵の夢のような、


「ここよ。」


幼くもどこか大人びた少女の声が、ひとつの衝撃として少年の鼓膜を激しく揺らす。ロドルフは操られるようにして、その瞳を天井へと動かした。 そこには、穢れのない色をもつ視線をこちらに向けて微笑む、美しいひとりの少女が浮かんでいた。それは、少年の半分にも満たないほどに幼いように感じられる。淡いブロンドの長髪をいたずらに泳がせ、雪のように透き通る真っ白な肌は、小さなふたつの頬だけを少しだけ優しい薔薇色に染めて、白いフリルのドレスの裾を金魚の尾鰭のようにゆらゆらと可愛らしく漂わせている。

それはまるで、恋を知ったばかりの無垢な子どもであり、未だ自身の持つ残酷さへの自覚には程遠い、あどけない死神。

 

「私はベルティーユ。」


暗闇に響く少女の声は、まるでこの世のものとは思えないような甘い旋律に満ちている。ただ意思を持たない人形の如く固まることしか出来ないその相手を、愛しげに見つめながら、純白のシルクを従えてゆらりとその身を近づける。


「貴方を迎えに来たのよ。」


絶望が、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。抗いようのない不条理になすがままにされるように、少年の頬に氷のように冷たい小さな手が触れる。天使の翼のような白い睫毛に包まれる、大きな翡翠の瞳は、とらえた者を支配する無邪気で欲張りな悪魔の宝石でありながら、目の前の存在を映し出す鏡となった。

その鏡には、紛れもなく美しい少年の姿があった。今となっては懐かしさを覚える、自らの人生の全てを創っていたもの。

不可逆の悲劇に飲み込まれた筈の己の身からすれば、その光景は正に信じ難いものである。 凍りついた喉から絞り出すようにして、掠れた声を空気に滲ませる。

 

「君は…………、

分からない…… 僕は死んだのか… ?」


少女はひと切れの悪意も感じさせない、子どもたちの遊ぶ公園から聞こえてくるような、楽しげな笑い声を響かせる。しかし、その人差し指を横たわらせて顎元に添える仕草は、幼い少女から自然とつくりだされるものは到底思えない妖艶を帯びていた。好奇心の檻に閉じ込められたその人を、艶やかな輝きを含む瞳で見下ろす少女は、囚人を新しい運命へ誘うかのように、ゆっくりと語りはじめる。


「ふふ…、 月下美人という花をご存知かしら ?

とても美しい花なの。けれど、夜にその蕾が開けば、朝には疲れ果てて萎んでしまうわ。私のお姉様達も、今でこそ美しく咲き誇っているけれど、間もなく泡のように消えてしまう。

けど私は違うの…… 」


ベルティーユは、初恋のときめきに満ちた瞳で相手の視界を包み込むかのように、その双眼を淡い竜胆色のそれに近付ける。


「貴方のような美しいひとに出逢えたから。

私たちはこれから、二人の世界で永劫の美を手に入れるの。」


甘い死の囁きと共にその両頬を氷の肌で包み込めば、蜜月の誓いを表す婀娜やかな仕草で、静かにその瞼を伏せる。ロドルフはただ、迫り来る終幕の予感に狂おしい程の畏怖を抱いて、その凍えきった腕を懸命に動かしながら、目の前の死の天使への抵抗を試みる。どこまでも純心な恍惚の表情がこちらへと近づく度に、怯える様に呼吸が乱れてゆく。


「やめてくれ……」


息を荒らげ、目の前の幻想じみた現実への拒絶に瞳を濁ませながらも、ただその手はまるで花を優しく愛でるような弱さで、少女の体を撫でるかのように触れることしかできない。

 

「……… 僕は、君のような存在なんて認めない… 僕は、僕にはまだやらなきゃいけない事があるんだ、

なんで赦してくれないんだ…… 」


その哀れな言葉を紡ぐ声はやがて嗚咽へと変わり、世にも美しい少年の瞳からはつめたい小夜時雨の一滴が溢れ落ちる。

ふと、少女は不思議そうにその悲しく艷めく宝石を見つめて、何を考えたのか、赤く小さな舌をちろりと這わせてその粒を掬う。己を連れ去ろうとする死神の悪戯な仕草にぞくりと鳥肌を立たせるように戦慄しながらも、少年は、これまでの悲しみをすべて呑み込んでしまうかのような強大な悪夢の世界に、無意識の陶酔を引き出されつつあった。黒い泥沼のような、優しく温かい絶望に身を預けるようにして。


「ああ……」


月の女神が見つめるその舞台で、夜という名の深海のような暗闇に浮かぶ、美しきふたつの影は、残酷な甘美の口付けを交わす。

幕は降りる。




‘美しいものは皆すぐに消えてしまうのよ

だから価値があるの’


‘君の言葉には既に飽き飽きさせられてるよ

僕にとっては、そんな事もうどうだっていい’


‘そうかしら……?

でも、貴方は何かを残そうとしたのね

自分という人を、誰かに分かって貰う為に’


‘私達は枯れ果てた姿しか残らないわ

美しいひとが、その儚い天命に抗って、

それ以上に意味のある何かを残そうとする姿

って、何だかとても滑稽に見えてしまうのよね…’


‘ああ、僕がこの姿を変貌させていたときは、

そんな有意義な言葉をかけてくれる人なんて

いなかったよ’


‘んふ…… ごめんなさい、貴方を侮辱する

つもりなんてないのよ

ただ私は、あの子にとって貴方というひとが、余りにも儚い存在であって欲しかっただけなの’


‘僕は君の美しさを知っている

それだけで君は満足じゃないのか’


‘ううん、全然ダメよ…… それだけじゃ私と貴方は一緒になれないもの

私が人知れず消える花であるように、貴方は

誰にもその本性を知られることなく、ただ

美しく咲き誇り、死ななければならない’


‘君は僕の美しさを知っていて、僕は君の

美しい姿を知る…… 二人の姿を追いかける

者は誰ひとりいない’


‘そうよ……私たちを唯一知るのは、真夜中の

覇者、月の守り人…… 私たちはこれからその御方の元で、永遠の美とともに戯れ続ける’


‘……… やっぱり、君って本当に馬鹿らしいよ’


‘ふふ、貴方ってやっぱり冷たい人なのね、

ロドルフ

そんな貴方のことが好きよ、愛してる’


‘黙れ…… 気安く僕の名前を呼ぶな………


……………



見て、ロドルフ

私のこの姿、とても美しいでしょう ?

怖がらないで、じっと見つめていて

私は貴方と出会ったあの瞬間から、

ずっとこの時を待ち侘びていたの

どうか私に身を任せて頂戴

そして、いつまでも一緒にいましょう

初恋という暗闇で覆われた、

どこまでも美しい絶望の世界で_____





少年の家は、片田舎の町から外れた田園地帯にある。

古めかしくも大胆に構えられたその屋敷に足を踏み入れた青年は、どことなく冬の足音を感じさせられる秋の爽やかな風に撫でられながら、親友であった少年との青春の日々を思い返していた。黄昏の淡く光る狐色と、金木犀の優しげな匂いがいっぱいに詰め込まれたその部屋は、さながら秋の季節がかける魔法ともいえるだろうか、先程までそこに人がいたかのような不思議な温もりに包まれている。

イジドールは、ひとり漆のウィンザーチェアに腰掛けると、安らかな微笑を浮かべながら、机に横たわった用紙を見下ろす。そして、静かに筆を取った。

 




 

宵闇の深海にぼんやりと浮かんでいる、満月の劇場。

月の女神に見守られるその場所で、海月色のカーテンに覆われた白鳥座のベッドに身を預け眠る、美しい青年。その胸元に覆い被さるようにして夢を見ている幼き月下美人の乙女は、夜の王が描く深淵の夢に浸りながら、

恋の喜びを思わせる笑みを零していた。





おわり

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Unfold 景岡佳 @sorbet

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